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調査 // Investigation

テキトーに「思考錯誤というより妄想の履歴」を並べておきます。

もくじ



ちょっと整理してみる (1998/12)

なんか意味不明な展開になってきたので、ちょっと交通整理を。 んー。こうして交通整理をしてみると、 このページで書かれてることの大部分はページ全体の主題とは 全然関係がない、いわゆる「暴走」というやつになってる訳だ (^o^;

まあ、その暴走が楽しくてこのページを作ってる、という話も あるんだけどねー。(妄想は得意だし^^;)


「曾我物語」入手!!

早稲田大学のちかくの古本屋で偶然見つけた (^o^)
市古貞次,大島建彦 校注,『曾我物語』(日本古典文學大系 88), 岩波書店, 1966
この巻六にあることはわかっているので、探してみると . . . あったあった。 p.245 の「弁財天の御事」で始まる「ふん女」物語の中に出てくるなあ。 えーと、この部分について注にはこう書いてある。
五百の卵から生まれた子が、かれらを捨てた母とめぐりあう物語は、 雑宝蔵経一の八・九から出て、今昔物語集五の六にも引かれる。 (p.245, 注16)
さてこの「ふん女」物語については、上の注にだいたいの概略が書かれて あるけど、だいたいこんな感じ。引用と説明文を混ぜてみよう。
「昔、大國流沙の水上に、ふん女といへる女あり。天下にきこゆる長者也。」 「ある時、おもはざる懐妊」して産んで「みれば、人にはあらで、 かひ子を五百うみたり。」つまり子供じゃなくて卵500個を産んでしまった、と。 衝撃を受けた ふん女は「箱に入れて、流沙の波にながしすてけり。」 「きよはくといふ貧道無縁の老人」がこの箱を拾ったところ「いつくしき 男子にかへりぬ。」結局500人全員が生まれて「一つもつつがなく、 成長しけるぞ、不思議なる。」しかし500人も子供ができちゃったんで、 「命をたすからんとする程に、心ならず猛悪になり、おもはずも、欲心に 住す。瞋恚を旨として、驕慢にあまりければ、 外道にもちかづきにけり。」窮乏してる彼らは、 ある計画をたてる。そうだ。ふん女のところには財物があるから強奪しよう。 でも ふん女は信心深いので、そううまくいかないかも。 「『さらば、外道どもをかたらい、かれらが神通の力を かりて、やぶりてみん』『しかるべし』とて、非天外道と いふ物のもとへ」行って応援をとりつけた。 また「そのほか、異類異形のちた外道ども、 おもひおもひの装束にいろいろの旗ささせ」集結してくる。しかし 信心深い ふん女には諸天の味方がつく。さて。「死生不知の 外道ども、おめきさけびて、みだれ入」ったのに対し、 諸天も応戦する。ところで 人間界では五百人が名乗りをあげたところ、ふん女がそれが自分の子と 気付き、大団円。「夜叉羅刹をだにもしたがへて、たけくいさめる武士も、 母一人のことばに、皆々なびくぞあわれなる。かくて、城中にいざなひ、 親子のむつび、ねんごろなり。」(p.245-250)
どうもオレの読解に間違いがなければ(それが一番アヤシイ^^;)、ここでの 「外道」は 非天外道(アスラのこと)・異類異形のちた外道・夜叉羅刹 といった感じで、 完全に人間以外のものを指してるよね。まあ、実はこれは『異形の王権』に あった
「異類」あるいは「異形」という言葉は、 もとより古くから使われているが、 鎌倉期以降、しばしば 「異類異形」とつらねられて用いられる場合をふくめ、 一種の妖怪、鬼、鬼神などについての形容にさいしての用例が多い。(p.47)
この部分ですでに言われていたわけなんで、単にこの文の確認をしただけに なるんだけど、とりあえず「鎌倉期になると、人間以外のものを『外道』と 呼ぶ事例が出てくる」ということはいえるよね。

でもなあ。 言えたとしてもアスラとかじゃなあ.. そんなにウレシクないかもしれない (-_-)
さて。次は、当然ながら、今昔物語と雑宝蔵経とゆーことになるね。

. . . このうち『今昔物語集』の話は以下の URL で読めることが判明。

[ 今昔物語集 (鈴鹿家旧蔵) 所蔵巻一覧 // 巻第五 (京大図書館) ]
この「般沙羅王五百卵、初知父母語第六」のところだ。 これを見てみると、500人の子どもたちは「生活が苦しくてグレちゃって」という 過程は経ておらず、『外道』どもも登場していない。たまたま敵国の王子として育てられて、 攻めてきたときに産みの親のことを知って和解、と。

『雑宝増経』は今後の課題。でもまあ『今昔』と『曽我』の関係を見てみると、 『今昔』のほうが記述内容が naive にも思えるので、『今昔』から『曽我』への 増広の過程で「外道」絡みの記述が追加されたような気もするよね。だから 『雑宝増経』はちょっと期待薄かも :(


「狭衣物語」

まずは書誌情報を広辞苑から。
BEGIN---cut here---
さごろもものがたり【狭衣物語】

物語。四巻。作者を紫式部の女(むすめ)大弐(だいに)三位とする説は捨てられ、
六条斎院〔バイ〕子(ばいし)内親王宣旨とされる。平安中期、延久・承保の頃
成るか。狭衣大将と源氏宮とが主人公。
END---cut here---
この本の第2巻にあった。 ただこの【狭衣物語】、残念なことに ( [日本文学等テキストファイル | 電子化テキストのリスト ] を見ても見当たらなかったので、オンライン版はなさそう。 そこで川内の図書館でその本を借りてきた。書誌情報はこんな感じ:
鈴木一雄 校注,『狭衣物語 上』(新潮日本古典集成(第68回)),1985,新潮社
この本の中に、とりあえず2つほど用例を発見。
いとあまりなる聖言葉な賜はせそ。さしも聞こえはべらぬことどもも 侍るなり。宮の御有様はしもほのかに見たてまつらせたまひてば、 えさしも心清からずやとこそ思ひたまふれ」とて笑へば、「せちに かく言ひおどしたまへば、心変りこそしはべりぬべけれ。外道の むすめにも仏ははかられたまはざりけるものを」とて、ありつる文、 懐より取り出でて取られたまふ。(p.149 // 巻二)
この「外道」への注はこんな感じに書かれている。
「外道」は、仏教にはずれた教えを信奉する者。異端者、邪教徒。仏が成道のとき、 外道の女が妨げようと誘惑したと言われる。
異教徒という理解でよいのかな? ちょっと魔物がかってる気がしないことも ないんだけど、肝心の「仏が成道のとき、外道の女が妨げようと誘惑した」事例が どこに書かれてある事例なのかがすぐに思いつかないので、この件については とりあえず保留。
「我爾時為現清浄光明身」など心にまかせて読みながしたまへるに、 聞くかぎりの人々、何事も聞き知らぬあやしき修行者まで涙を流したる、 釈迦仏の説きたまひけむその庭にだに笑ひ紛らはしけむ、提婆達多、 外道などいふらむものだに、今宵の御声にはみな囲繞すらむと おぼゆるに、まいて、「身をつづめて」とある御誓ひは違ふべきならねば、 御明のいとほのかなるに、御前の暗がりたるに、普賢の御光いとけざやかに 見えたまひて、ほどなく失せたまひぬる、尊く悲しともおろかなりや。(p.250 // 巻二)
このうち「提婆達多」への注はこんな感じ。
釋尊の従弟だが、常に反抗的で独自教団をつくり、釋尊を害そうとした。 生きながら地獄に堕ちたと言われる。
そして「外道」の注はこう。
異端者。 仏道にはずれた教えを信奉する者。ここは、提婆達多を信奉する仲間たち。
たしかに文脈を追ってみると「釈迦がご説法なされるその会場においてさえ、 嘲笑したという提婆達多・外道とかいうヤツら」となってる。 異教徒がガウタマ様の説法の場面に居合わせるという状況はあまり考えられ ないように思えるし、またダイヴァダッタと並べて名前があげられてることから、 この注に書かれているとおり「提婆達多とそのシンパな外道ども」と解釈する のが非常に自然なように思われる。

ということで。なんと「外道」の中にデーヴァダッタ派が含まれることも あるみたいなのだ!! がーん。これは盲点!!! (@_@;


デーヴァダッタ派 (1)

デーヴァダッタ派の扱いについて。まずは「大唐西域記」の 記述を見てみる。見たのは [ 京大・人文研のオンライン版のやつ ] だ。 場所的には「大唐西域記卷第十。 十七國。」の 928a の終わりのへん。
羯羅拏蘇伐刺那國。周四千四五百里。國大
都城。周二十餘里。居人殷盛。家室富饒。土地
下濕。稼穡時播。衆花滋茂。珍菓繁植。氣序
調暢。風俗淳和。好尚學藝。邪正兼信。伽藍十
餘所。僧徒二千餘人。習學小乘正量部法。
天祠五十餘所。異道寔多。別有三伽藍。不
食乳酪。遵提婆達多遺訓也。

「別有三伽藍。不食乳酪。遵提婆達多遺訓也。」ということで、 デーヴァダッタ派とおぼしき人たちが玄奘の時代にもいたらしい、 と。玄奘はここでは彼らについては単に事実を述べるだけで、 評価らしいものは何もしていないのでアレなんだけど、 提婆達多についてはとりあえず「悪いヤツ」という位置付けはして いる(当然か。そういう伝統だし)けど、 すくなくとも「外道」という位置付けはされてないような気がする。 でも「内道」かと言われるとなあ... 上の引用でも 仏教関係について「伽藍十餘所」、そして異道について 「天祠五十餘所」ときてから、 「別有三伽藍」としてデーヴァダッタ派についての紹介を してるからなあ。やっぱ外道なのかなあ。よくわからない。

あ、そうそう。デーヴァダッタについて玄奘はこんな感じで書いてます。

伽藍東百餘歩。有大深坑。是提婆達多。欲以
900a
毒藥害佛。生身陷入地獄處。提婆達多
(唐言天授)。斛飯王之子也。精勤十二年。已誦持八
萬法藏。後爲利故。求學神通。親近惡友。共
相議曰。我相三十。減佛未幾。大衆圍繞。何
異如來。思惟是已。即事破僧。舍利子。沒特
伽羅子。奉佛指告。承佛威神。説法誨喩。僧
復和合。提婆達多。惡心不捨。以惡毒藥。置
指爪中。欲因作禮以傷害佛。方行此謀。
自遠而來。至於此也。地遂ア焉。生陷地獄。
当時の「室羅伐悉底國」の「給孤獨園西北」には、 そういう伝説を残すデカい穴があったみたいですね。ふーん。 (今もあるのかな?? よく知らない ^^;)

内外道

インド学研究室に行ったら、『日蓮宗事典』とかいうデカい本が目についた。
「何これ?? まさか買ったの??」
「まさか。勝手に送ってきたみたいですよ」
ハッキリ言って、東北大のインド学研究室に日蓮宗関連のものを送るというのは、 送り先を間違えているとしか言いようがない。送るんなら 日本思想史だと思う。 . . . とかいうのはともかく。いつものクセで「外道」を調べてみたら。 すごい! (^o^) ところどころ略しながら写経してみる。
インドにおける仏教以外の教をさす。仏教では仏教以外の宗教や思想を外道・ 外教・外法・外学などと呼び、自ら仏教のことを内道・内教・内法・内学などと 呼んだ。仏教徒は当然のことながら、仏教以外を正しい教えとは認めなかったので、 外道というと異端・邪教の徒をさすようになった。外道の言語は para-pravaadin 「他の教えを奉ずるもの」という意味で、その他、アニヤ・ティールティカ anya-tiirthika アニヤ・ティールティヤ anya-tiirthiya いずれも「他の道を 行くもの」という意味である。 --(略)--
うーん。「異端・邪教」と書いちゃうと、かなり強い否定の意思が含まれているようにも 思えてくるけど、インドにおいてもそこまで強烈だったかについては疑問が残るところ。 また「外道」といえば para-pravaadin 、というのが一般的かというのもちょっと 疑問が残らないこともない。

でも、以下の記述の素晴らしさの前には、上のような疑問はまさに重箱の隅をつつく ようなレベルの話でしかないのだ。続けよう。

--(略)-- 以上、外道について種々な経論に挙げるところを引用したが、外道の説については、 時代によりあるいは地域によって変化があったことを認識すべきである。また世間に 行われた種々の外道の他に、仏教内部にあって仏教に附託して邪義を主張した、 附仏法外道について関説しているのは注意すべきである。
すでにここで述べられているように、仏教内部のはずの人間を「外道」と呼ぶ 用例は鎌倉期以降の文献の中には見てとれるんだけど、その 起源がどのへんにあるのかがよくわかっていなかった。
例えば『大日経疏』第一九に「外道に二種あり、一には世間種々の外道、二には 謂く仏法内に諸の外道あるなり。仏法の中に入ると雖も、而も未だ如来の秘密を 知ること能わず、猶ほ是れ邪見の心行、理外の道なるが故に亦外道と名づくるなり。 此の仏法中の外道は、即ち二乗中の人なり」といい、また『華厳経疏』第二八に 「外道に二あり、一には外外道は即ち仏法の外なり。二に内外道は此は復た三種 あり、一に附仏法の外道は (eKanji data)子、方広より起る云々」といっている。
おおっ!! と思い、急いで大正蔵で調査してみたところ、 『華厳経疏』(Taisho 1735) の該当部分は p.713a のところ、 『大日経疏』(Taisho 1796) の該当部分は p.769c のところにある ことが判明。なお、これらテキストの書誌情報はこんな感じ。 (とか言いつつ、大正蔵の目次しか見てなかったりして) うーん。中国の唐代に「外道」の中に「内外道」なるものが入ってしまったことが わかってしまった。なるほど。 密教だと「如来の秘密を知ることができないやつ」らの教えを「邪教」と 呼ぶこともない話でもない。

でも何よりもまず確認しておかなきゃいけないのは 「仏教内部の人間を『外道』と呼ぶ事例がインドにおいてすでにあったのか、 あるいは中国人がその事例を作ったのか」といったあたりだよね。 ということで、とりあえずそのセンの調査をしてみる。


内外道 2

その後の調査によると、『大日経』の第二章以降は密教の「伝法潅頂」なるものを 受けてないと扱っちゃいけないらしいことが判明 (^o^;;

でも今回は教義の内容をどうこう言うわけじゃないし... と言い訳を しながら一歩踏み出してみよう。どきどき。

まず SAT を見てみると、 すでに [ 「大毘盧遮那成佛神變加持經」 (Taisho 848) (== 大日経) ] が公開されていることが わかる。そこでまず『大日経』の中にある「外道」を調べてみよう。 簡単な grep 検索をしてみたところ、こんな感じ。

0848_,18,0002a18(00):<vc/>諸佛大祕密外道不能識
0848_,18,0003b03(00):如是湛寂。一切外道所不能知。先佛宣説。
0848_,18,0013c25(06):自損損他作如是言。彼諸外道有如是法非佛所説。
0848_,18,0039a22(06):世間人民及諸外道。亦於十善業道。常願修行。
0848_,18,0040c16(00):<vc/>諸佛之祕要外道不能知
このうち、上の『大日経疏』で引かれてる部分はおそらく^^; 最後のやつだと思われる。 「百字位成品第二十一」だし。ちなみに、それぞれの箇所は以下の章に属してる。
0002a18,0003b03: 入眞言門住心品第一
0013c25: 息障品第三
0039a22: 受方便學處品第十八
0040c16: 百字位成品第二十一
上で検索された用例を見てみると、 どれも同じような使われ方がされているような気がする。 ということで今回はこの 0040c16 の事例だけ見たとしても、そんなに外れた解釈は しないんじゃないかと思っている。

まず上で引いた 0040c16 の行の前後を以下に引用しておこう。

0848_,18,0040c14(00):<vc/>善哉摩訶薩大徳金剛手
0848_,18,0040c15(00):<vc/>吾當一切説微密最希有
0848_,18,0040c16(00):<vc/>諸佛之祕要外道不能知
つまり「『仏たちの秘密であり外道どもには知ることができないこと』を 私(一切智慧者大日尊)は語るのだ」という文脈で使われていることがわかる。 いちおう、ここで問題になりそうな点をわかりやすいように明示してみると、 こんな感じかな? とりあえずアイバが(たどたどしく)『大日経』に目を通してみた結果は以上である。

そして『大日経疏』の該当部分に進むことになるんだけど。

今此諸法之秘。一切外道所能知。然外道有二種。一者世間種種外道。二謂佛法 内有諸外道也。以雖入佛法中。而未能知如来秘密。猶是邪見心行理外之道。故亦名外也。 此法乃中二種外道所不能知。此佛法中外道。即二乗中人也。 (Taisho 769c11-16)
これは上にあげた『日蓮宗事典』に引かれていた箇所そのものだ (^_^)
で、この箇所は要するに「仏教徒であっても、如来の秘密を知らないんだから 『外道』と呼んでいる」と言ってるんだよな。ここでは、上にあげた この定義が正しいという前提があって、その結果 「仏教の内部にも外道はいる」という話になってそうに読めるんだよな。うーむ。

なお、某密教な知り合い^^; に雑談のついでにその話をしてみたところ、 「インドで『内外道』なんていう呼び方は聞いたことがないので、きっと そういう用法は中国起源じゃないですかね」という答が返ってきた。 まあ「雑談レベル」ということなので、何かの裏付けがあっての内容でも ないんだけど、すくなくとも密教系の人(たち)がそういう印象を持っている ということは自分にとっては心強い証言ではある (^_^)


内外道 3

この「仏教内部に巣喰う外道^^;」な発想はどこまで遡れるのか?? というのが 非常に気になったので、ちょっとインドに戻ってみてみよう。 まずは『法華』だ。 [ SAT の 妙法蓮華經 (Taisho 262) ] を使って調査してみる。 とりあえず簡単な grep 検索をした結果 (注: 正確には grep でなく gawk を使ってます^^) が以下。
  1. 0262_,09,0016b03(00):<ver>亦未曾念外道典籍如是之人
  2. 0262_,09,0036c04(00):<ver>爲貪利養故説外道論議
  3. 0262_,09,0036c10(00):<ver>謂是邪見人説外道論議
  4. 0262_,09,0037a23(09):不親近諸外道梵志尼m12409子等。及造世俗文筆讃詠外書。
  5. 0262_,09,0037b22(00):<ver>兇險戲者及旃陀羅外道梵志
  6. 0262_,09,0059c18(02):母告子言。汝父信受外道深著婆羅門法。
  7. 0262_,09,0062a04(02):不好外道經書手筆。亦復不喜親近其人。
ちなみに。それぞれのデータの章だけど、順に 3,13,13,14,14,27,28 。 なお、ここでは便宜上、上から順に (1) -- (7) としてこれらのデータを指すことにする。

まず、ちょっとデータの整理をしてみよう。 (6) の事例の対応 Skt. 部分には「外道」という単語がない。

e.sa khalu kulaputrau yuvayo.h pitaa raajaa ^subhavyuuho braahma.ne.sv abhiprasannas (KN p.459-2) (若き王子たちよ、父上のシュバ=ヴューハ王は婆羅門たちに好意を持っておられます // 岩本訳)
よって、ここで問題となっている「内外道」とは全く関係ないと思われる。 ついでに (7) の事例も対応 Skt. 部分はこんな感じ:
na ca te.saa.m lokaayate rucirbhavi.syati (KN p.480-8)(そして、かれらはローカーヤタ派の教義を悦ばず // 岩本訳)
これも「ローカーヤタ派」(ちなみにこれは「六師外道」のひとつ) が 漢訳の際に「外道」という単語に置き換えたらしいことがわかるので、 ここでは無視。なお (1) もそんな感じ。(すくなくとも KN によると lokaayata の訳語として「外道」が使われてる) (4),(5) については Skt. でもたしかに tiirthika のような単語が使われているんだけど、 文脈から「非仏教徒」と取って間違いなさそう。ということで興味は (2),(3) の用例に 限定されることになる。実はこの (2),(3) の用例は私の目を引いた。

上の grep 検索の結果だけではアレなので、 (2) の前後の部分を切り出してみるとこんな感じ :

0262_,09,0036b25(00):<ver>惡世中比丘邪智心諂曲
0262_,09,0036b26(00):<ver>未得謂爲得我慢心充滿
(snip)
0262_,09,0036c03(00):<ver>而作如是言此諸比丘等
0262_,09,0036c04(00):<ver>爲貪利養故説外道論議
0262_,09,0036c05(00):<ver>自作此經典誑惑世間人
0262_,09,0036c06(00):<ver>爲求名聞故分別於是經
「悪い時代の(仏教の)出家者は邪な智慧をもち心がネジまがっている。 ヤツらは言う。『これなる出家どもは利得を求めて外道の議論を説く』」 ちなみに「外道」が出てくる部分の Skt. はこんな感じ。
asmaaka.m caiva vak.syanti laabha-satkaara-ni^sritaa.h /
tiirthikaa vat(a)-ime bhik.suu svaani kaavyaani de^sayu.h //8// (KN 272-9)
「ヤツらは利益とか名誉に依存してて、私たちをこう言う。 『これらのビクどもは外道で、自分たちのカーヴヤを説きやがる』」 (vata って indeed でいいんだよね? ^^;)

つまり『法華経』では「あやつらは仏教内外道だ!!」ということは 書かれていないんだけど、「本当の仏教徒である自分たちをエセ仏教徒扱い、 具体的には『外道』呼ばわりするヤツらが出てくる」ということを言ってるんだよな。 で、この部分を読んだ法華系の人たちが 「法華を信じてる自分たちこそ真実の仏教徒であり、法華を信じない ヤツのほうこそエセ仏教徒、すなわち『外道』じゃないか!!」と思っても 何の不思議もないよなー。


さっと調べる

上の大日経・法華経では SAT で公開されてる データを使って「外道」の語義を調べたわけなんだけど、じつはすでに 公開されてるデータ全体に対して grep 検索をかければ、もっと いろいろなものが見えてくるんじゃないか、なーんてことを思いついてしまった。 (大抵の場合、そういうハマりそうな思いつきは意識の表層にあがってくる前に 握りつぶしちゃうんだけど.. ^^;)

そこでまず簡単に grep をとってみる。1999/05/17 までで公開されてる全データのうち、 ヒットした件数(とゆーか行数)は 52 テキストに含まれる 756 行! (^o^;;
げろげろ..

また、ついでに「外道」の対概念とされている(らしい)「内道」についても grep 検索をかけてみた。その結果は以下。

0220_07e.txt:0220_,07,0372a16(04):如施人趣非人亦爾。如施内道外道亦爾。
0220_07e.txt:0220_,07,0721c28(07):如施持戒犯戒亦爾。如施人趣非人亦爾。如施内道外道亦爾。
1562e.txt:1562_,29,0773b26(08):或唯此二種唯内道得故。唯未曾得故。多功用得故。
1818e.txt:1818_,40,0816a08(06):此人得有漏定實無涅槃生涅槃想。此可有二人。一者内道。
1851e.txt:1851_,44,0580c15(09):如内道人取糞掃衣以爲道等。諸外道人取彼行以爲道等。
1851e.txt:1851_,44,0582b25(02):諸内道人多取持戒。以之爲道。諸外道人。
1851e.txt:1851_,44,0665a22(03):外道名邪内道名正。依如毘曇別解脱戒佛弟子受。
2646e.txt:2646_,83,0622a14(04):内道道者名之爲常。聲聞縁覺所有菩提。名爲無常。
2689e.txt:2689_,84,0209b21(16):惡師ニツカヘテハ順次生ニ惡道ニ墮ツ。外道ノ所詮ハ内道ニ入ル即最要ナリ。
最初はインド系のテキストに「内道」はないのでは?? と思ってたんだけど、 なんか現状で2例ほど確認できるみたいだ。テキストは以下。
0220: 大般若波羅蜜多經 (401-600)
1562: 阿毘達磨順正理論
げーっ。般若経と順正理論じゃん!! それぞれ別の意味でイヤなテキストだなあ (-_-;
# ちなみに、どっちも漢訳したのは三藏法師玄奘というのは要チェック事項。


さっと調べる 2 -- 内道

まず『般若経』からいこう。
0220_,07,0371b24(13):大般若波羅蜜多經卷第四百六十九
0220_,07,0371b26(00):第二分衆徳相品第七十六之二
0220_07e.txt:0220_,07,0372a16(04):如施人趣非人亦爾。如施内道外道亦爾。
この前後を見てみると、だいたい以下のような意味で使われている。 「犯戒に持戒を施すのもそうだし、非人に人趣を施すのもそうだし、 外道に内道を施すのもそうだし、異生に諸聖を施すのもそうだし、 下賎に尊貴を施すのもそうだし」 (この「を施す」という単語は「と同じものと見る」とのように 書いたほうが文意に沿うよな、たぶん)
0220_,07,0718c10(13):大般若波羅蜜多經卷第五百三十
0220_,07,0718c12(00):第三分妙相品第二十八之三
0220_,07,0721c28(07):如施持戒犯戒亦爾。如施人趣非人亦爾。如施内道外道亦爾。
ここは上と同じ表現。
次は『順正理論』 . . . うわー。前後の箇所を見て涙が出てきたよ。訳わかんない (;_;)
1562_,29,0771b03(00):阿毘達磨順正理論卷第八十
1562_,29,0771b06(00):辯定品第八之四
1562_,29,0773b26(08):或唯此二種唯内道得故。唯未曾得故。多功用得故。
で、この前後の文脈をつかもうと思ってザッと前後を眺めていたところ「内外道」という 文字列が目についた。そういえば.. と思って、ついでに「内外道」で SAT 検索してみた。
0602e.txt:0602_,15,0167c06(04):不見身意已淨。便悉見身内外道。行有十九。
1562e.txt:1562_,29,0492c07(02):内外道人。種種受持苦難行業。因見等取。
1562e.txt:1562_,29,0773a23(02):内外道身共不共故。通曾未曾得。
2646e.txt:2646_,83,0634a19(03):廣載諸經。内外道俗。誰不披諷。豈貪求自身邪活。
(Taisho 0602: 佛説大安般守意經 -- うーむ。これは「身内の外道を見る」のか「身の内外道を見る」のかわからないけど、 とにかくソレが19個ある、と続いてるので、「異教徒」の意味ではないような気がする)

さて話を『順正理論』に戻す。んとね、こういう場合はまずガーターから探すんだよ。

1562_,29,0771b07(00):已辯無量。次辯解脱。頌曰
1562_,29,0771b08(00):<ver>解脱有八種前三無貪性
1562_,29,0771b09(00):<vc/>二二一一定四無色定善
1562_,29,0771b10(00):<vc/>滅受想解脱微微無間生
1562_,29,0771b11(00):<vc/>由自地淨心及下無漏出
1562_,29,0771b12(00):<vc/>三境欲可見四境類品道
1562_,29,0771b13(00):<vc/>自上苦集滅非擇滅虚空</ver>
で、ここから次のガーターまでの文脈をつかめばいいはずなんだけど .. また後日 (-_-;

(つづく)


外道祓い

「外道祓い」というのがあるらしいんですよ。 たまたまテレビのニュースで知ったんですけどね。 これらの共通点は「舞とともに行なわれること」「一連の行事の最後であること」 こんな感じでしょうか。ここでの「外道」というのは、たぶん 『曾我物語』のふん女物語にあった「ちた外道」的なものだろうとは 思うんですけど、いまのところ思うだけ。
TA