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Q: 「印度哲学とインド哲学は違うの?」

A: アイバ的には同じです (^_^) ... と書いただけですと、あちこちから剃刀メイルが飛んできそう ですので、補足しておきます。

東大では以下のような方程式が成り立っているそうです。

印度哲学 == インド哲学(Indian Philosophy) + 仏教学(Buddhist Studies)
ただし、この「仏教学」には日本仏教も含まれています。なぜ「印度」を 冠した講座に日本思想が含まれているのでしょうか???
じつは最近流行のインターネット^^; なるものを使いますと、ある程度の ことはわかってしまうのです。便利な世の中になったものですね。 上のURLによりますと、 それゆえ仏教学の別称として「印度哲学」という単語が発明された、と。 また、なぜ「仏教学」でない単語が発明される必要があったかについては、 当時の社会状況が影響していたようです。上のページによりますと、 こんな見方があるそうです。(宮本)
明治初年の神仏分離、廃仏毀釈によって大きな打撃をうけた仏教は、印度 哲学と称することによって、当時の哲学という時代の波に乗せ、その活路 を見出そうとしたのであろう
神仏分離・廃仏棄釈というのが昔あった、という歴史的事実は知って いましたが、まさかこんな身近なところに出てくるとは!! と、ちょっと驚きだったりしますが、要するに東大に「印度哲学」と いう名前の仏教学の講座ができたというところにナゾを解くカギが ありそうです。こんな感じでしょうか。
廃仏棄釈の嵐により、日本仏教は「日本古来の思想にあらず」 と判断された。ではどこの思想なのだろう?? 仏教はインド起源だから「仏教 == 印度哲学」しかないよな。
妄想度はかなり高いですけど、それなりの説得力を私は感じます (^_^)
しかし当然ですが「印度哲学」といわれて普通にイメージするのは、 インド思想一般とくに「六派哲学」 (サーンキヤ・ヨーガ・ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ・ ミーマーンサー・ヴェーダーンタ)を中心としたヒンドゥー教系な 哲学でしょう。というわけで、もともとは仏教学(というか日本仏教) のことであった「印度哲学」の中に、インド仏教を含んだ インド思想一般が入ってきてしまうのは、まあ、当然の流れでは なかったかと思われます。

ということで、たぶん「インド哲学」と「印度哲学(仏教学)」の 両方を含む、新たな単語をふたたび用意する必要が出てきたの ではないかと思われます。このへんは完全な妄想ですが、

こういった状況の中で、暗黙のうちに「印度哲学」という単語の再定義が おこなわれたのではないかと思われます。 すなわち、現在の東大的なものと同じ、以下のような定義です。
印度哲学 == インド哲学(Indian Philosophy) + 仏教学(Buddhist Studies)
以上がアイバなりに妄想した「噂の真相」です。

なおインテツ系の人たちへのインタビューで印象に残っている部分を (無断で^^;) ここで紹介します。

まず東大で「インテツさん」をしていたと語るK先生からの情報です。

東大に限っていえば,かつてダルシャナを専門にする奴には寺院の子弟
がいなくて,寺の息子でもないのにインテツに行く奴,ということで
たしかにアヤシイ印象をもたれてたようではあります。
インテツをするようなアヤシイ人たちから、 さらにアヤシイと思われてるみたいですね (^_^;;

以下は東北大で「インテツさん」をしているHさんからの情報です。

「印哲」を項目にとっているのは三省堂の『デイリーコンサイス』でした。
で,

いんてつ [印哲] インド哲学の略

とのっています。
この情報によりますと、「印哲」は「インド哲学」の略である、すなわち 「インド哲学」と「印度哲学」は同一視されていることが読みとれます。 やっぱり、この両者を分けるのは無理があるでしょう (^_^;; また同じ東北大のHさんによりますと ..
印度哲学で何を含ませるかにはやはり東大の伝統ががかかわっているように
思えるのですが。
ちなみに東北大で「印度学」と名付けたのも先生です。
印度哲学講座としたかったのですが,他の哲学科から「インドに哲学があるか」
と反対されたとか。
ちなみに東北大のインド学講座には日本仏教は含まれていません (今は含まれていません。昔はどうだったかは知りません^^;)。 つまりインド哲学とインド仏教(チベット仏教)を「印度学」 あるいは「印度哲学」と呼ぼうとしていたと思われますので、 これは我々一般人(「一般人」を自称する人って、だいたいアレですけど) の理解にかなう呼称であると思われます (^_^)
TA
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