[前] チベットにおける外道ども |
チベットにおける「外道」の用例に入れるべきか、、 日本における「外道」の用例と判断すべきか、非常に悩むところではあるのですが、 とりあえずチベットの用例に入れておきます。
[Table of Contents]チベット仏教のゲルク派では、密教の修行を始める前に、きちんと戒律などを身につけていないと 仏教じゃなくなっちゃうよ、という文脈で「外道」という単語を見つけました。以下です。
ただし、ゲルク派の密教修行では、密教の修行にはいる前に、顕教の修行を終えている ことが必ず求められる。‥(略)‥ この過程をへないで、いきなり密教の修行にはいると、ブッダの正しい 教えは芽吹かず、結局は外道になり果てるしかない。ツォンカパが登場した時代、 密教者の中では、神通力を行使して、敵対する者を呪殺することすらおこなわれていた。 そうした事態に対する反省も、ツォンカパに顕教と密教の兼修という方向を選択させた 一因であろう。‥(略)‥
このあたりの事情について、ゲルク派では、こんなことが言われてきた。
その地に仏教があるかないか。それは戒律があるかないか、にかかっている。 (ツルティムケサン/正木晃(2000)『チベット密教』ちくま新書, pp.103--105)
密教の修行をはじめる前に、学問的なステップ(顕教)を踏んでおかないとダメ。 それは何故かというと、
この場合、その「外道」はどこで誰にどうやって密教を教わるのかということを考えてみますと、 やはり、仏教組織の中で密教教典の教えに従って修行するのでは? んでその場合、 内部からどう見えるかはともかく、外部者から見れば真の仏教徒とは区別がつかない状況に なるのではないか? それだと本来的な意味での「異教徒」とはちょっと違って、 後代になって出てくる「内外道」と同様の使い方のようにも思えてきますけど、 どんなものでしょうか。
ただ ここで問題は、「外道になり果てる」という文が、 チベットでも「外道」という言葉を使って説明されるのか、あるいは 「日本で言うところの『外道に成り果てる』と同じような状態になる」という 意味で使われているのか不明なので、そのへんでちょっと冒頭で書いたように チベット的な用例なのか、日本的な用例なのかがいまいちハッキリしてません。