ヴァッラバとグル
前のページで、Vallabha は「神の特別な恩恵」を求めることを
重視するようになって、それゆえ人々の信仰の対象も
「世界そのものとしての最高神」から「最高神と同等なる個人」へと変化
してったんじゃね? ‥という妄想をまき散らかしたんですけど。
でも私の妄想ばっかり書いてても仕方ないですよね。実際に
Vallabha は guru をどう位置づけていたかを見てみるべきですよね。
ひょっとしてブラフマスートラ・
アヌバーシャでも読まねばならぬのか?? それは無理だ〜〜 とか
思っていましたところ、この本:
前田専学,『ヴェーダーンタの哲学』(サーラ叢書) 平楽寺書店,
に関連する記述がありました (^o^)
さっそく紹介します。
ヴァッラバ (Vallabha 一四七三 -- 一五三一年) は
南インド、テルグ地方出身のヴィシュヌスワーミン派のバラモンの家に
属し、ベナレスの近くのパムパーラニヤ(Pampāraṇya)で生れたと伝え
られるが、主として北インドで活躍した。八十四点の著作を書いたと
言われる。しかし、現存する最も重要なものは、『ブラフマ・スートラ』
に対する注解(Aṇubhāṣya)、『バーガヴァタ・プラーナ』
(Bhāgavatapurāṇa)に対する注釈(Subodhinī)、
および自著『タットヴァールタ・ディーパ・ニバンダ』
(Tattvārthadīpanibandha)とそれに対する自注(Prakāśa)
とである。かれによれば、最高の実在は、ウパニシャッドにおいては
ブラフマンとして知られるクリシュナ神である。ブラフマンは一切万有の
想像主であり、個我も現象世界も本来ブラフマンと不異である。シャンカラ
系統の不二一元論(Advaita, Kevalādvaita)によれば、ブラフマンは
マーヤーによって影響されるとされているが、ヴァッラバはこれを否定し、
原因であるブラフマンも結果である個我・現象世界も共に、純粋清浄(śuddha)
であって、両者は不異であると主張する。このかれの立場は純粋不二一元論
(Śuddhādvaita)と言われる。かれは三種の個我を区別する。その自在力
(aiśvarya)が無明によってくらまされていない純粋な(śuddha)個我と、
無明のために生死を経験し、輪廻する(saṃsārin)個我と、明知を得て
輪廻から自由となり、解脱した(mukta)個我とである。個我が解脱した時に
神と不二となる。解脱は神の恩寵なくしては不可能であり、知識も有用では
あるが、信愛がその主要な手段であるとする。しかし、最高の目的は解脱
よりもむしろクリシュナ神に永遠に奉仕し(sevā)、天のブリンダーヴァンで
かれの遊びに加わることであると主張した。また、現象世界をも純粋清浄で
あるとし、現実世界を肯定し、ヒンドゥー教を世俗化した。かれが創始した
このヴィシュヌ系の一派はヴァッラバーチャーリヤ(Vallabhācārya)派と
言われる。かれは結婚して息子ヴィッタラナータ(Viṭṭhalanātha,
Viṭṭhaladīkṣita 1518-1588)を得たが、ヴィッタラの子孫のもののみが
この派の師(guru)となる事が出来、師はクリシュナとして尊崇される。
今日も猶、グジャラート、ヴラジャ、マールワール、カーティアーワール
地方で盛んである。(p.26-8)
引用としては長すぎかも (^o^;
「知識より信愛」「最高の目的は解脱よりクリシュナ様への奉仕」
「ヒンドゥー教を世俗化した」といったあたりがちょっと気になりますけど、
それはともかく。
この最後のところに注目しましょう。
ヴィッタラの子孫のもののみが
この派の師(guru)となる事が出来、師はクリシュナとして尊崇される。
ヴィシュヌ神そのものが遠くに行きすぎて、
そのアヴァターラであるクリシュナ様に信仰の対象が移った、と。
そのクリシュナ様の普段の外見といえば、まあ、ふつーの人間なわけ
なので、身近におられる guru との同一視が容易であった。 . . .
まあ、こんな感じの理解でよいのでしょうか。まったくもって妄想ですが (^o^;;
[つづく]