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みちのくプチ巡礼情報

Petit Information on Sacred Shrines and Temples in Japanese Tohoku Region.


 

Introduction // はじめに

(Brief summary in my poor English) I think it is interesting to find and visit the rural forgotten shrines. In this page, I show some of those rural shrines in Japanese Tohoku Region.

(最上33-21五十沢)

休日で天気のよい日など、自転車でぷらっと出かけるのが好きなんですけど。 いつの頃からか、出歩くコースが妙にワンパターン化しているのが気になっていました。 そこでWebとかで何かよいルートはないかとか色々調べてみるんですけど、 「仙台から月山に行って戻ってきた」とか 「秋田から盛岡まで」とか「明治時代に作られた廃道に 突入[URL]」とか「面白そうだけど、 時間的にもオレの体力的にも ちょっとした日帰りでそれはムリ」的なルートが多くて、うーん、とか思っていました。

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ちょっとした散歩コースの延長

そんな折、身内の闘病などを契機に「三十三観音」なるものの存在を知り、 その宗教的・文化的な役割についてもいろいろ思うことはあるのですが、 それ以外にも巡礼の観光としての面、具体的には「三十三観音って、 自転車でちょっとどっか行ってみる際の目標として手頃じゃね?」ということを 強く感じ、ちょっとどっかに行ってみるのに丁度よさげな三十三観音は ないかと いろいろと調べるようになりました。 街中は信号や人ごみがアレですし、有名な観光地はクルマが多いし‥と いうことで、ひなびた観音堂はチャリで行くには意外と都合がよいんですよね。 (‥という経緯をたどったため、今のところ本ページはほとんど「三十三観音」情報 に特化したページとなっていますが、それは今はたまたま「三十三観音」が マイブームとなっているからで、将来的には他の素材も扱うようになっていくはずです^^;)

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軽いノリでいきます

(金照寺山33-17)

本ページは、そんな私自身が「突然どっかにブラリと行きたくなったけど、 どこ行けばいいかな」と思ったときに すぐ出かけられるような、そんな 備忘録・メモとして作成しているものです。 たまたまこのページにたどりついた あなた。 「かんのんさま」への格別な信仰はなくても構わない、というか、 今のご時勢「かんのんさま」への格別の信仰がある人は あんまりいないと思うんですよ。 たぶん観音巡礼が盛んだった時期も 戦時中などの特別な時期を除けば、 そういう格別な信仰を持って巡礼してた人は そんなに多くなかったのではないか、近場のものであっても 観光も兼ねた けっこう 軽いノリで巡っていたのではないかと勝手に思ってます。

 たとえば宮城県にある「七薬師掛け」[1][2][3]。 これ、どう見ても単純な信仰のみに基づくものじゃないですよね。 レクリエーション的な要素が入っているとはいえないでしょうか。 それに、江戸時代に書かれたとおぼしき文書を見ても 順礼の果報について:

一度順礼せ し人、男子は横難横死をまぬかれ、女子は難産の苦をのがる。或は子なき人男子を得んと祈れば、福徳智恵の男子 もうけ、女子もとめんと祈れば、丹精美麗諸人愛敬の女子を授け給ふこと、古今普く聞き伝ふ所なり。 (「西岩井三十三所順礼略縁起」より。一関市史3各説II (1977), pp. 88-89)
このように書かれたものがあり、これによると「男子は無事故、女子は安産。男子を望めば 孝行息子の智恵息子、女子なら美女で愛敬もつ娘が得られる」こと、これが 順礼の果報と説かれています。

 これらのことから、たぶん、一部の時代(太平洋戦争の時期とか)を除けば 実は昔から「観音様巡り」には物見遊山的な、今でいうところの「ちょっとした観光」的 ノリな要素がかなり強かったんじゃないかと思います。

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自転車で回るのが好き

 なので「なんか知らないけど、昔から『ありがたい』と言われていて、 昔から いろんな人たちが入れ替わり立ち替わりやって来ては いろんなことをお願いしてきた場所、 そこで今自分も彼らと同じように何かをお願いしながら手を合わせてみる、 そんな経験も悪くないかも。ちょっとした気晴らしになるかもしれないし。 それに、これって所謂『パワースポット』だろうから、あわよくば^^; 何かパワーもらえるかもしれないし」程度の気持ちで、 多少のお賽銭を握りしめて、イナカの観音様を尋ねてみませんか? 人通りも少ない田舎道、場合によっては小さな山道をチャリこいで ひなびた観音堂とか、雨ざらしでボロボロになった石仏に お詣りするのは、なかなか気分よいものです よ[*1]。 (まあ、山にガシガシ入って行くタイプの人には、ひなびた田舎道を走るなんてのは 退屈きわまりないんだろうとは思いますけど、私は景色を眺めながらタラタラ走る のが好きなので‥)

*註1
参詣する人たちを圧倒するような大伽藍があって、 さらに何だかスゴそうな由緒もあって、 連日大勢の参拝客がつめかけて、 「あそこはスゴい」とあちこちで話題になっているような大寺院じゃないと お詣りした気がしない、ご利益も薄そうだしなー、という人も多いとは思いますけどね。 ‥と、こう書いてしまうと「なんだ俗物的だな。というか、ゆとりな感じの今風?」なんて 思ってしまいそうになるんですけど。実はそういう傾向はかなり昔から、仏教だと 2-3世紀頃のインドですでに見られる、というのは ショペン,小谷信千代(2000)『大乗仏教興起時代 インドの僧院生活』春秋社. (この本は読んでて「すげえ」と思いました。) に 書いてあった記憶はあるんですが、諸般の事情でこの本を手放してしまい、しかも 今なかなか入手できないようなので確認できないのが残念でなりません。くぅ〜。
話を大伽藍とかご由緒とかに戻すと、国や宗教を問わず、いわゆる「名刹」とされている 場所は大抵立派な由緒があって、設備もすごく立派な場所がほとんどな訳ですので、 それはたぶん宗教、というよりは「人はとにかく『これは立派だ。スゴい』と感じるものに 対して畏敬の念を持ってしまう。とくに最初にそういう印象を持ってしまうと負け」という 地域とか時代とか宗教を超えた人間の、参詣者たちの悲しい性(?)が (たとえその教義がそれとは異なる方向に向く--たとえば「質素にせよ」を旨とする 教義をもつ宗教であったとしても) 宗教施設をそういう方向に発展させてしまうんでしょうね。 ですから、近代以降に建造したものは意図的に荘厳にしていると思うんですが、 近世のものだと結果的にそうなったパターンが多いんじゃないかと思います。 時の権力者の寄進とかだと、やっぱ権力者の威信をかけたデカいものを造るでしょうから‥ (ここでは、いわゆる新宗教と旧来の宗教とを一緒に考えてます。 新宗教であっても「普通、教祖の存命中にすぐれた建築は完成しない。新宗教も 同じである。二代目以降の教主の努力によって初めて代表的な建築が登場するが、その頃には 立教から数十年を経ている」(五十嵐太郎(2001)『新宗教と巨大建築』,p.13) らしいですので、 こと宗教建築に対する態度に関して「昔からあるもの」と「新宗教」を別にして考えるのは 意味がないと思いましたので‥)
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