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[チラシの裏]

佐藤唯行(2000)『アメリカのユダヤ人迫害史』

著 佐藤唯行
年 2000
表題 アメリカのユダヤ人迫害史
発行 集英社新書0047D



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アメリカのユダヤ人迫害史 (集英社新書) [ 佐藤唯行 ]
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自分用のメモということで、本書のどのへんに、だいたいどんなことが 書かれてたかという切抜・覚書です (概要をまとめて よく見えるところに出しておかないと、読んだ内容も、これを読んだことさえ 肝心なときに(あるのか? そんな時‥)思い出さないことがありますので‥)。 ついでに簡単なコメントをつけてることも ありますが、メモなのでコメントは非常に簡単なものに留めてます。


[Table of Contents]

プロローグ:自由と民主主義の国の隠された顔

[Table of Contents]

1:ユダヤ人青年実業家 レオ・フランクリンのリンチ殺害事件

1910年代アトランタ。黒人に対するリンチは日常化しすぎた。黒人以外の「異質なもの」が ユダヤ人。

娘たちを家庭から賃労働に送り出していた農民 的出自を残すネイティブ白人労働者層の父親たちは、父権の喪失を強く意識せざるを得なかっ た。要するに彼らは、外に働きに出た娘たちをかつてのように、家庭にとどめて保護、監督で きなくなったわが身の不甲斐なさを感じていたのである。 (p.61)
こんな感じのフラストレーション、社会不安の新たなスケープゴート。 ちなみにレオ・フランクリン殺害の実行犯たちはその後、1915年にKKK団を 再結成させ、南部における反ユダヤ主義の先鞭をつけた。 ユダヤと黒人の接近。

[Table of Contents]

2:大都市ゲットーでの反ユダヤ暴動

1902年、東欧系ユダヤ移民の増加により、旧来よりの人たちを圧迫。 なかでもアイルランド系移民との対立。アイルランド系の人たちは、 本国における反ユダヤ主義を持ち込んでしまったのが大きい?

[Table of Contents]

3:自動車王ヘンリー・フォードの汚点

「国際ユダヤ人---世界の問題」が連載されたアメリカの無名の地方紙「ディアボーン・インディペンデント」について

 次に、読者層の姿であるが、そのことを実証的に解明した研究はなく、何人かの研究者が断 片的史料に基づいて、推測を試みているにすぎない。
 そうした研究者のひとりウィックは、読者層の三分の二は農場や田舎町で暮らす人々であっ たと推測している。
 おそらく主要な読者層は農村的生活様式に固執して、産業化や都市化が進むなか、時代の変 化に適応できずにフラストレーションを感じていた人々だったのであろう。 (p.104)

フォードが買収して反ユダヤキャンペーンを開始した「ディアボーン・インディペンデント」紙での 連載記事は『国際ユダヤ人』という4冊の本となり(1920)、海外でも翻訳された。 ドイツでは翌1921年に翻訳出版され、ドイツにおける反ユダヤ主義の拡大に大きな影響を与えた(?)。 日本でも包荒子(安江仙弘; 秋田出身なのか?!)が『世界の猶太人網』(1927,昭和2)という 本を出版している。この本は厳密には和訳と言ってよいのかビミョーなところがあって、中身を見ると

本論文は問題が問題だけに実に多方面に亘つて論述され甚だ浩瀚である。従つて一般読 者に取つて比較的興味の少ないと思ふ点は公刊に当つて削除し、又特に説明を要すると思ふ 所は、論文の骨子を傷つけない様にして多少加筆した。そして世界に活動する猶太人の 散在状態に想到して「世界の猶太人網」と名づけた。又原文の第十三章以下は第十二章同 様シオンの議定書の條項を列挙して批判したものであるが、議定書は〓に二酉社より発行 した拙著「世界革命之裏面」に全文掲載してあるから今回は之を省くことにした。 [ 包荒子(1927)『世界の猶太人網』「本書の解説に就て」 ]
こんな感じで書かれている。削除および加筆がどの程度行われているかは、 原文と対比してチェックしないとわからないが、そんなことはしたくないので たぶん不明のまま。 「シオンの議定書」の和訳が掲載された「世界革命之裏面」はこちら

 フォードが反ユダヤキャンペーンを大々的に開始したとき、レオ・フランクリンという人物から 断交の電話がきてフォードは驚く。

 実は何を隠そう、フランクリンはユダヤ教のラビであり、デトロイト・ユダヤ人社会の信望 厚い霊的指導者でもあったのだ。それなのにいったい、ユダヤ人である彼とフォードはどうし て「友人関係」を保つことができたのか。そこにフォードのユダヤ人観の特色があった。
 つまりフォードは、善悪二元論的な素朴な発想で、「善いユダヤ人」と「悪いユダヤ人」を 明確に分けて考えていたのである。
 フォードが考える「悪いユダヤ人」とは国際ユダヤ人金融勢力であり、一方「善いユダ ヤ人」とは地域社会のなかで慎ましく暮らし、勤労にいそしむユダヤ人のことであった。だか らフォードにとって、フランクリンは間違いなく「善いユダヤ人」であったのだ。反ユダヤ・ キャンペーンを展開していた期間中にも、フォードが自分の工場に約三〇〇〇人ものユダヤ人 を工員として雇傭し続けていた(ただしホワイトカラーとしては一切採用しなかった)のも、 このようなフォードのユダヤ人観の表れであった。
 つまりフォードはユダヤ人を、ただ単にユダヤ人であるという理由だけで攻撃したわけでは なかったのだ。「国際的な」(=外国とつながっている)「金融業者」(=寄生的存在)であるが ゆえに「悪い」として、ユダヤ人を攻撃したのである。 (pp.107--108)
 我々にはもうひとつ、最後の疑問が残されている。それはフォードを「国際ユダヤ人」攻撃 に駆り立てた原因は何かという疑問である。
 それを探る手がかりは、実は「ディアボーン・インディペンデント」のなかにある。同誌の 紙上で、フォードが「国際ユダヤ人」と並んで攻撃の対象としたものを列挙すれば、それは性 道徳の頽廃であり、ハリウッド映画の猥雑さであり、フラッパー(性的にアクティブな新しい タイプの若い都会の娘)のエロティシズムであり、新しいスタイルの服装や髪型であり、飲酒 と酒類の販売などであった。
 これらはいずれも一九二〇年代の、都会的アメリカの新しい生活様式を象徴するものばかり であった。二〇年代はアメリカ史上、都市人口が農村人口を初めて上回った時代であり、また 本格的な都会的文化が初めて華々しく開花した時代でもあった。それゆえに一方で、古き良き 農村的体質のアメリカを、都会的アメリカの攻勢から守りぬかねばと考える人々の動きも高ま り、両者のあいだに激しいせめぎあい、軋轢が高まった時代でもあった。‥(略)‥
 しかし、ひとりの生活者としては、自分が生まれ育った農村的アメリカの伝統的生活様式を理 想とし、都会を席捲しはじめた新しい生活様式を激しく嫌悪していたことでもよく知られてい る。彼は産業化社会が到来する以前の時代に強いノスタルジーを抱いていた。そして大都会、 とりわけニューヨークを嫌い、「本当のアメリカ人」は自分を育んでくれた中西部の農村地帯 に住んでいると信じ込んでいたのである。嫌悪すべき都会的アメリカの攻勢から、古き良き農 村的アメリカの理想と伝統を守りぬこうと決意したフォードが、「国際ユダヤ人」を産業化・ 都市化社会のエスニック・シンボルとみなし、それゆえに激しい攻撃の対象にしたことは、彼 にとっては必然的な行為であったのだろう。 (pp.121--123)
[Table of Contents]

4:甦る儀式殺人告発

1928年。行方不明になった少女(後日無事に発見された)は、ユダヤの儀式の生贄のため 誘拐されたのでは? との噂で大騒ぎ。噂をおこしたのは、ギリシア系移民(ギリシア人は、 ユダヤ人が自分たちと敵対するトルコの仲間と考え、嫌っていた)。

 儀式を自宅の裏庭で繰り返すブレングラスの姿を、常日頃から垣間見てきた近隣のキリスト 教徒住民にとって、彼とその仲間が幼児を連れ去り、その喉を無慈悲にもかき切っているのか もしれないと空想をめぐらせていくことは、それほど困難なことではなかった。何故なら、中 世ヨーロッパ以来キリスト教世界では、ユダヤ人は悪魔の手先として超自然的な能力を備えた 神秘的な存在であると、長らく信じられてきたからである。そして、このようなユダヤ人観は 二〇世紀前半のアメリカ国内においても、一部のキリスト教徒の意識の深層にしっかりと植え つけられていたからである。‥(略)‥
 このエピソードからもわかるように、当時のアメリカには、ユダヤ人が悪魔の手先である証 として、その頭に角がはえているという迷信を大まじめに信じている人間が、実際に存在して いたのである。 (pp.132--133)
[Table of Contents]

5:閉ざされた象牙の塔

1920年頃、東欧系ユダヤ移民の子供世代が高等教育機関へ殺到しはじめると、 とくに名門大学などで軋轢が生じはじめる。
 彼らは単に大規模な集団であったばかりでなく、質的にも既存の学生集団とはきわめ て異質な集団を形作っていた。何故なら彼らは、「知性を軽んじる学生気質」を受け入れる意 志を持たず、大学を「知的活動のための闘技場」とみなしていたからである。
 彼らの出現により、教室内の雰囲気は一変していく。一九二〇年代初頭、コロンビア大学に 在籍したある学生は、次のように不満を述べている。
「ユダヤ人たちが授業の水準をつりあげている。おかげで俺たちは、連中に遅れずについてい くために、これまでになかったほど一生懸命勉強するはめになった」
 勉学に励み、真剣に議論を闘わせ、競争心に富んだ当時のユダヤ人学生気質は、二〇世紀前 半の名門私立大学で支配的であった「知性を軽んじる学生気質」とは相いれないものであった。
 当時、名門私立大学の学生の行動様式を支配していたのは「上品ぶった社交の礼儀作法」であ り、彼らのなかでは学業成績よりも、スポーツマンシップやリーダーシップに優れているかと いった基準によって、個々の学生のランクが評価されていた。このような行動様式と価値基準 は名門私立大学のみならず、一般の大学においても大学生活の理想として受け入れられていた。 ‥(略)‥
 その結果、一般学生側の排斥感情が、各大学内にいわば必然的に醸成されていったのだった。 (pp.154--155)
 もともと彼らの父祖発祥の地、東欧のユダヤ人社会では、学問への熱望と学者への高い尊 敬の念が歴史的に育まれてきた。東欧ユダヤ人社会のなかではタルムード(ユダヤ教律法と解 説)学者ほど高い威信を持つ者はおらず、彼らが本国から持ち込んだこのような文化的伝統は、 彼らがアメリカに生活基盤を築き上げたのちも強固に存続していたのである。
 ただし、この文化的伝統は移民家庭が同化していくに従って、次第にそれらもアメリカ的変 容を遂げていった。すなわち、東欧的ユダヤ移民の家庭で羨望の的となった新たな職業は、母 国にいた時のような宗教的なタルムード学者ではなく、アメリカ社会で高いステータスを得て いる世俗的な専門職へと変化していったのである。 (p.167)

タルムードは、3世紀以前(?)のユダヤ教のラビたちの議論の記録。 記録そのものは「ミシュナ」と呼ばれ、ヘブライ語で書かれる。 その註釈部分もタルムードの一部で「ゲマラ」と呼ばれ、アラム語で書かれる。 「ゲマラ」には2つの異なるバージョンがあり、 パレスチナ版とバビロニア版がある。 パレスチナ版は「パレスチナ・タルムード」、バビロニア版は「バビロニア・タルムード」と 呼ばれる。分量はかなり多い。上の引用をみると、 東欧ユダヤ人社会では「タルムード」はきわめて重要であるのに対し、 アメリカのユダヤ人社会では「タルムード」はそれほど重要ではない‥みたい。

ヘブライ語・アラム語のペア文献なんて読めるわけないから、リンク張る意味もないけど一応:

ちなみにタルムードは反ユダヤ的陰謀論の世界では、反ユダヤ主義を正当化するための 道具になってますね。そっち方面はちょっと世界がドロドロすぎ。

[Table of Contents]

6:公民権闘争に隠されたもうひとつの闘い

1950〜1960年代、アメリカの公民権闘争において黒人たちに手を貸したのは アメリカ北部系のユダヤ人たち。南部のユダヤ人たちは、ちょっと腰が引けていた。

例えばロスチャイルドの場合、彼 が一九四二年一二月以降、ガダルカナル島の戦場で主管していたユダヤ教の礼拝には、多くの キリスト教徒の兵士も参加していた。戦場という極限状況に置かれていた兵士たちは、自らの 魂を勇気づけるために、つかの間の平安を得ることに無上の喜びを感じていたはずである。彼 らにとって、自分たちがキリスト教徒でありユダヤ教徒ではないのだということなど、取るに 足りない問題にすぎなかったのだろう。彼らはただひたすら祈りの場を求めていたのである。 この時の経験によってロスチャイルドは、より緊急性のある事態に直面した時、人間にとって 宗教上の相違などほとんど意味をなさないということを、理屈ではなく現実の体験を通して理 解したのである。 (p.194)
[Table of Contents]

エピローグ:反ユダヤ主義は死なず

1990年代、ユダヤvs黒人の暴動騒ぎ。公民権闘争の頃の蜜月関係ははるか遠くに‥。

 この暴動を生み出した原因はまぎれもなく「黒人の反ユダヤ主義」であった。その蔓延ぶり を裏づける統計的データがここにある。
 それは一九九二年に誹謗反対連盟が実施した世論調査の結果で、これによると「強度の 反ユダヤ主義的見解を抱く」と分類された黒人は黒人全体の三七パーセント、白人は白人全体 の一七パーセントであった。つまり、筋金入りの反ユダヤ主義者と分類された黒人の割合が、 白人のそれの二倍強にも達していたのだ。
 第二次世界大戦後、かつて反ユダヤ主義の中心的存在であった白人労働者層が、その反ユダ ヤ主義を一貫して減退させていったのとは対照的に、黒人は二〇世紀後半のアメリカにおいて、 反ユダヤ主義の度合いを高めている唯一のエスニック集団となったのである。 (p.207)
公民権闘争で勝利したはずなのに、それで生活が何か変わったわけではない。 一部ユダヤ人たちとの圧倒的な富の格差。ブラック・ナショナリズムの擡頭。 ユダヤ人が求める「機会の平等」vs黒人が求める「結果の平等」(黒人人口に比例した採用枠を!)


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