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仏説観弥勒下生経(一部)

大石凝真素美「仏説観弥勒下生経」から、そのごく一部を書き起こしてみました。

[前] 弥勒の時を待つ、とは

迦葉は弘法大師なり

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迦葉は弘法大師なり

「是時彌勒。[422b25]申右手指示迦葉告諸人民。過去久遠釋[422b26]迦文佛弟子。名曰迦葉。」 (大雑把訳: そのとき弥勒は、右手で迦葉を指し示して皆に告げられた。はるか大昔の釈迦文仏の弟子で、 迦葉という名の者である、と。)への注釈部分。 [原文ここから]

是時に弥勒が[422b25]右の手を伸べて迦葉を指し示して諸の人民に告ていふ。過去久遠釈[422b26]迦 文仏の弟子名を迦葉といふ。

[p.17] 是即ち高野にて弘法大師を指示していふ所なり。嗚呼空海氏は釈迦文仏の在世に は優樓頻螺迦葉となり。釈尊と一味親和して東漸し佐伯の家に帰り今を距る事一 千有余年の昔にして、金胎両部の奥義を極め、十識十住心を自由する三悉地の薩 陀となり、所謂迦葉位を卜めつつ高野山の奥の院に大金剛定に入り法界遍照の力 を保ちたる尊き其の血脈は高野山の奥義なり。鎮護国家の機密なり。世界経綸の 種矣。弥勒成就の證徴なり。故に畏くも嵯峨天皇は空海氏に勅して至真太治の皇 基を約し深く秘して弥勒出現の期を照らし置かしめ玉ひたる秘密瑜伽の極意を発 表する事は明治聖代の今日まで得ざりしなり。然るに今将に当に天運循環して目 出たき時節到来今日かく明かに顕はし示す事は実に天上天下無比無上の幸福と云 ふべきなり。

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概要

 高野山の弘法大師のことを言っている。空海氏は、お釈迦様の時代は優樓頻螺迦葉であり、 釈尊の弟子となったのち東に向かい、今より一千年ほど前に佐伯家に出現して 金剛界・胎蔵界より成る両部曼荼羅の奥義をきわめ、 ‥(略。弘法大師が 非常に素晴らしい、凄い、と書いてます)‥。 それゆえ、ちょうど今、天運が一巡して、 めでたき時節が到来したことを宣言できるのは、天上天下にこの上なき幸福と言えよう。

(つづく)

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つぶやき

 そして、何故ここまで弘法大師の話をしてきたかといえば。「佛説彌勒下生經」において 弥勒下生をじっと待ち続けた存在として描かれている迦葉、 この人が実は弘法大師のことなのであったよ! と。こうして迦葉と弘法大師を関係付けることにより 「やっぱり弥勒は日本に下生するのか!」という感じになりますから、これは結講大事なことの ように思われます。

 でも、どうですかね。「じっと待ってる超大物」というだけの共通点で、 迦葉と弘法大師を対応づけられても、なんかちょっとピンと来ないのが正直なところですけど‥

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げすのかんぐり

 ところで。前のページで「弘法大師は、蛙が冬眠するような感じで待っているのではない。 精霊の形をとって弥勒仏を待っておられるのだ」的なことを言ってましたけど。 ‥なるほど。この大迦葉=弘法大師ということであれば。真の弥勒仏が出現したときに (仏典のほうの「佛説彌勒下生經」の状況そのままに) 高野山奥の院に向かい、そこで待ちわびる大迦葉=弘法大師と出会う。‥そういうストーリーが あると劇的な印象を与えそうな感じですけど。でもそこで問題となるのは、 「弥勒仏が奥の院まで行ったのに、 弘法大師がその姿を人々の前に現さなかったとき。そのとき、どうするか」ということ。 この弥勒仏、とんだニセモノじゃね?! ‥そういう疑いを持たれると面倒ですからね。

 そんなときのため「弘法大師はもう肉体ないからね。春になったときの蛙じゃないんだから。そうじゃなくて、 偉大なる魂のみになって待ってるからね。だから凡人である君らには弘法大師は見えないかも しれないけど、弥勒仏である私だけにはちゃんと見えてるからね」と言うことができる 状況をあらかじめ準備する意味もあったのか? ‥などというゲスな思いが一瞬、 私の頭の中をよぎりました。こんなゲスな私です。

つづく。‥‥かな?