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『大野の撫斬』

元禄九年、出羽国河辺郡二井田村支村大野邑にて起こりし惨劇につき。


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大野村撫斬事件之供養碑

この書物の出版は丁度(?)「諸精霊の二百八十七回忌にあたり、慰霊の供養塔を 建立することになっている」(p.36)時期であったようです。 この「供養碑」ですが、今(2010年)も、当然ながら、存在しています。 下の写真には、供養塔が二つ写っています。向って右側の小さいほうが 江戸時代(1795年。百回忌)に建立されたもの、 左側の大きい方がこのとき建立したものです[*1]

いつのまにか Google Streetview でも見れるようになってますね。以下に:

*註1
「塔」「碑」について、五来重氏は「石に神の霊がこもっているとおなじく、死者の霊が 宿っているという信仰は、石塔を拝むという宗教行為につながる。西洋の墓のように 石碑を死者の記念物(メモリアル)とするのではなく、日本では拝む対象とする。したがって これは石碑(石の記念物)と呼ぶよりは、石塔と呼ぶべきであろう」(五来重『石の宗教』(講談社学術文庫)2007.,p.32)と述べています。 つまり「石塔」は死者の霊がこもる、拝むもの。「石碑」は死者や事件を忘れないための 手がかり、という違いがあるようです。‥と、これをふまえて 新しいほうの石塔?石碑?を見てみると 『大野の撫斬(1981)』では「供養塔」、でも現物には「供養碑」と書いてあるのが ちょっと気になります。新しいほうを「供養碑」、 古いほうを「供養塔」として 手を合わせるのは古いほうにお願いね、という意図を鮮明にしたとか? それは考えすぎ??
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