[余談] 大野邑は土葬
どこに書けば良いのかわからないので、とりあえず ここに置いておきます。後で移動するかも。
[Table of Contents]昭和20年頃は土葬
大野邑では、
すくなくとも1940年代(昭和20年頃)には土葬が一般的でした。人が亡くなると、
樽に入れて埋葬していた、と。(父や叔父の証言による)
たしかに、ちゃんとした火葬を行おうとした場合、人体を骨になるまで燃やし尽くす燃料を
どうやって調達すればよいのか? という問題が、どうしても生じてしまいますよね。
現在の秋田市の火葬場での経験では、あそこでは重油を使って火葬していると聞いたのですが、
それで一時間近く燃やしてます。葬儀のため、それほどの分量の燃料を
村人たちが自前で調達できるものなのか??‥とか考えてみますと、たしかに
火葬より土葬のほうが現実的ではありますよね。
(仏教以外の神道とかキリスト教は土葬が基本だと思うんですけど、大野地区周辺で
神道とかキリスト教が強いなんて話は聞いたことがないですから、たぶん
宗教的理由で土葬だったということはないと思うんですよね。現在は「ほとんどの人が
疑いもせず火葬」ですから尚更‥)
ちなみに全国的な傾向としては、戦前までは土葬のほうが優勢だったみたいです:
厚生労働省の「衛生行政報告例」によれば、葬送の統計データとしては最も古い1925
(大正14)年時点で、全国平均で土葬は56.8%、火葬は43.2%となっている。土葬
と火葬が逆転するのは1940(昭和15)年のことだ。
(鵜飼秀徳(2018a)『「霊魂」を探して」KADOKAWA, p.181.)
ですから、まあ、昔は土葬だったが後に火葬に変わったというのは、まあ、
全国的傾向にそのまま当てはまりそうな気もしますね。
[Table of Contents]秋田六郡の基本は火葬(江戸後期)
ただ他方ではこのような証言もあります:
秋田領火葬なり土葬は希れ也といふ。
(高山彦九郎(1790(寛政2))「北行日記」; 『日本庶民生活史料集成3探検・紀行・地誌』(1969), 三一書房, p.166a)
なんかこれ、文脈とも関係なく、あまりに唐突に書かれていて著者の意図がちょっと
読めない感じではあるんですけど。この点については註に以下:
秋田領火葬*44
高山彦九郎は神道なので火葬を否定している立場であるため
秋田の火葬の風俗は注意を惹いたのであろう。
(『日本庶民生活史料集成3』 p.216a)
このように書かれてますので、まあ、そういうことなんでしょうけど。しかし
「秋田では土葬が稀」という当時の証言は、どう理解したら良いんでしょうかね。
久保田の城下町では土葬は稀だったが、周辺の農村では稀かどうかは不明。‥といった
感じなんでしょうかね。
‥いやでも、高山が火葬の話をしてるのは久保田を通過したのち、
米川(たぶん米代川)のあたりだからなー。久保田御城下のことがどこまで念頭にあった
発言かは正直よくわかりません。
(この部分の関連情報: [ [book] 高山彦九郎(1790)「北行日記」にみる天明飢饉 ] もどうぞ。)
[Table of Contents]明治維新後に土葬に変わった可能性
どうやって調べたらいいかよくわからないのでアレなんですけど。
ひょっとして、明治維新のあたりに変化があって火葬から土葬になった可能性もありそうです。
明治新政府がはじめた神仏分離政策に端を発した「廃仏毀釈」による影響で、たとえば
佐渡では
一部例外を除き神葬祭を強制、すなわち火葬が禁止された
(鵜飼秀徳(2018b)『仏教抹殺』文春新書1198, p.145)らしいんですけど、
同じようなことが起こった可能性もあるのかなー、と。
ただ佐渡の場合は全国屈指の「非常に激烈な廃仏毀釈がおこなわれた地域」ですから、
秋田でもかなり激烈な廃仏運動が起こってたのならともかく、
寡聞にして あまりそういう話も耳にしないですからね‥。
いちおう辻・村上・鷲尾編(1983)『新編・明治維新神仏分離史料』(第2巻(東北編・関東編1)) も
見てみたんですけど、そこにあった秋田での神仏分離関連の史料というと、
明治新政府の弁官宛に秋田側の人が書いた
「いただいた神仏分離の布告だけでは具体的な中身がわからない云々」と
いう感じの書状(p.15)しかないのでほとんど何の情報も得られず‥
ちなみに神葬と関連した神仏分離関連の布告について、ネット上の情報をざっと見た感じでは以下:
「神職についた人やその身内は神葬にして仏式の火葬はダメね」といった布告は出ていたようですが、
これは一般庶民には該当しないと思うので、これを一般庶民にまで当てはめようとした
佐渡はたぶんやりすぎ、だから秋田がそこまで徹底した廃仏毀釈をしたかというと‥‥
どうなのかな?
[Table of Contents]鹿角郡の土葬(昭和30年)
また雑誌を見てたら、こんな記事を見かけたので紹介させていただきます:
戦後の昭和31(1956)年9月13日、秋田県で55歳の男が逮捕されたことが
報じられた。わずか13行の短い記事のタイトルは、
「死体の黒焼きを売る」
というおどろおどろしいものだ。逮捕容疑は死体損壊だけではなく、
墳墓発掘罪。‥(略)‥
記事にこうある。
「調べによれば死体の黒焼きが薬になるという言伝えを信じて」
奇異に映る男の動機が解説され、
「墓地から子供の死体を掘り出してこれを黒焼きにし、一包五百円で十四服売っていた
というもので、犯行を自供している」
と書かれ記事は終わる。
(橋本玉泉(2016)「三面記事でわかる今日はこんな日でショー」『週刊アサヒ芸能(2016/9/22特大号)』,p.93)
事件が起こったのは秋田県鹿角郡十和田町のようですけど、この地域でも
1956年頃は土葬だったでしょうね。さもないと「墓地から死体を掘り起こし」なんて不可能ですから。
‥ということで。割と最近まで土葬は割とよくあるものだった感じのもののようです。
ところでこの「死体の黒焼きが薬になる」という話、なんか韓国などで今も
問題になってる「人肉カプセル」を彷彿とさせますね。
元ネタは中国の古文書か何かだったりするんですかね(不明)。
[ Wikipedia::ヒトに由来する生薬::人肉 ] とか、
[ 本草綱目(52)::人肉 ] のあたりがヒントになるんでしょうか。でも黒焼きなんていうことは書いてない気がしますけど‥
‥なんて書いてましたが。マンガ見たら見つけました。そういう用例。

古来
霊長類の黒焼は
万病に効く薬種
として重宝され
「天印」と
呼ばれる頭部は
最も治癒力を
秘めていると
されていた
(南條範夫・山口貴由『シグルイ』p.14:54.)
‥
ちょっとネタ元は不明なんですけど、そんな感じで書かれてるってことは、
やはり、そういう伝承はあったんでしょうね。
[Table of Contents]骨と墓
ところで。宮城県北部の人と話していて驚いたことがあります。それは
火葬した故人の骨を(骨壺から取り出して)墓石の中に散骨するという秋田市仁井田地区におけるお馴染みのスタイル(他地域のことは知らない)、
あれは他地域にはないらしいです。墓石の中に骨壷ごと格納するとか言ってました。へー。
この件と関連して、ある本でたまたま見つけた話を紹介させてください。
『増補三訂版 葬儀概論(補遺)』(碑文谷創著、表現文化社)によれば、捨骨の方法は能登
半島と静岡中部を結ぶラインで分けられるという。関西では喉仏や指骨、頭蓋骨などのそ
れぞれ一部だけ納める。だから関西の場合、骨壺は5寸サイズで事足りる「部分拾骨」
になっている。
だが、能登半島-静岡中部ラインより東側は「全部拾骨」の文化である。関東の骨壺は
7寸サイズが主流。箸でつまめる骨片はもちろん全部収拾。骨上げの最後は刷毛を使って
最後の1粒まで持って帰る。
また、墓への納骨の方法も東西で異なる。例えば京都では骨壺から出して納骨すること
が多い。この方法だと、骨はいずれ土に還る。だ
が、関東では骨壺ごと墓石の中のカロートに納め
る。だから墓が存在する限り、半永久的に遺骨は
残ることになる。
(鵜飼2018a, pp.184--185.)
こんな感じのようです(孫引き‥
^^;)。
つまり「骨を全部拾う」のは東日本式、
「骨壺から出して墓の中に散骨」は西日本式、そんな感じみたいです。
北前船とか、そんな感じで海路経由で西日本文化が流入してたとか、
そんな感じなんですかねー。。