[前] 菩提は東光寺で |
どこに書けば良いのかわからないので、とりあえず ここに置いておきます。後で移動するかも。
[Table of Contents]大野邑では、 すくなくとも1940年代(昭和20年頃)には土葬が一般的でした。人が亡くなると、 樽に入れて埋葬していた、と。(父や叔父の証言による)
たしかに、ちゃんとした火葬を行おうとした場合、人体を骨になるまで燃やし尽くす燃料を どうやって調達すればよいのか? という問題が、どうしても生じてしまいますよね。 現在の秋田市の火葬場での経験では、あそこでは重油を使って火葬していると聞いたのですが、 それで一時間近く燃やしてます。葬儀のため、それほどの分量の燃料を 村人たちが自前で調達できるものなのか??‥とか考えてみますと、たしかに 火葬より土葬のほうが現実的ではありますよね。
(仏教以外の神道とかキリスト教は土葬が基本だと思うんですけど、大野地区周辺で 神道とかキリスト教が強いなんて話は聞いたことがないですから、たぶん 宗教的理由で土葬だったということはないと思うんですよね。現在は「ほとんどの人が 疑いもせず火葬」ですから尚更‥)
ちなみに全国的な傾向としては、戦前までは土葬のほうが優勢だったみたいです:
ただ他方ではこのような証言もあります:
(この部分の関連情報: [ [book] 高山彦九郎(1790)「北行日記」にみる天明飢饉 ] もどうぞ。)
[Table of Contents]どうやって調べたらいいかよくわからないのでアレなんですけど。 ひょっとして、明治維新のあたりに変化があって火葬から土葬になった可能性もありそうです。
明治新政府がはじめた神仏分離政策に端を発した「廃仏毀釈」による影響で、たとえば 佐渡では 一部例外を除き神葬祭を強制、すなわち火葬が禁止された (鵜飼秀徳(2018b)『仏教抹殺』文春新書1198, p.145)らしいんですけど、 同じようなことが起こった可能性もあるのかなー、と。
ただ佐渡の場合は全国屈指の「非常に激烈な廃仏毀釈がおこなわれた地域」ですから、 秋田でもかなり激烈な廃仏運動が起こってたのならともかく、 寡聞にして あまりそういう話も耳にしないですからね‥。 いちおう辻・村上・鷲尾編(1983)『新編・明治維新神仏分離史料』(第2巻(東北編・関東編1)) も 見てみたんですけど、そこにあった秋田での神仏分離関連の史料というと、 明治新政府の弁官宛に秋田側の人が書いた 「いただいた神仏分離の布告だけでは具体的な中身がわからない云々」と いう感じの書状(p.15)しかないのでほとんど何の情報も得られず‥
ちなみに神葬と関連した神仏分離関連の布告について、ネット上の情報をざっと見た感じでは以下:
週刊アサヒ芸能 2016年9月22日号2016年9月22日号【電子書籍】 |
また雑誌を見てたら、こんな記事を見かけたので紹介させていただきます:
ところでこの「死体の黒焼きが薬になる」という話、なんか韓国などで今も 問題になってる「人肉カプセル」を彷彿とさせますね。 元ネタは中国の古文書か何かだったりするんですかね(不明)。 [ Wikipedia::ヒトに由来する生薬::人肉 ] とか、 [ 本草綱目(52)::人肉 ] のあたりがヒントになるんでしょうか。でも黒焼きなんていうことは書いてない気がしますけど‥
‥なんて書いてましたが。マンガ見たら見つけました。そういう用例。シグルイ 14【電子書籍】[ 山口貴由 ] |
ところで。宮城県北部の人と話していて驚いたことがあります。それは 火葬した故人の骨を(骨壺から取り出して)墓石の中に散骨するという秋田市仁井田地区におけるお馴染みのスタイル(他地域のことは知らない)、 あれは他地域にはないらしいです。墓石の中に骨壷ごと格納するとか言ってました。へー。
この件と関連して、ある本でたまたま見つけた話を紹介させてください。
^^;
)。
つまり「骨を全部拾う」のは東日本式、
「骨壺から出して墓の中に散骨」は西日本式、そんな感じみたいです。
北前船とか、そんな感じで海路経由で西日本文化が流入してたとか、
そんな感じなんですかねー。。
[次] 撫斬についての諸伝承 |