histoire d'AIBAs // 相場の歴史
現在の秋田市仁井田大野地区 (昔の河辺郡二井田村支村大野村) は、
なぜか相場さんが異様に多い。
(関連地図:
Mapion
)
また、実際に私の父親も
大野地区の出身であり、小学校のときにはクラスの半分くらいが
「アイバ」だったとか言っていた
(たぶんこれは大袈裟だけど、しかし同じクラスに何人もいる状況は、本当だったらしい)。
それゆえ「アイバ」のルーツをたどるためには、
大野地区の歴史を調べるのが近道であろう。
相場信太郎(1981)『大野の撫斬』によると、
慶長年間(1596-1610)にはすでに大野村は開けていたとの
ことである[関連情報]。
また大野地区に伝わる口伝によると、
承久年間(1219-1220)に源氏の末裔である武人某が
由利郡から土着して開発したのが大野村の始まりだという[*1]。
実際、百姓や町人が姓を名乗ることが許されなかった
明和六(1769)年の神社棟札に「相場」という姓の記述がある
ため、上の伝説はまったくの捏造であるとも思われない[*2]。
大野では 治左衛門、善左衛門の兄弟が
大野の開祖であると伝えられている、らしい。なお
私はその4番目だかの分家のうち「甚助」の系統[*3]になるらしい。
甚助から金次郎から金治‥とくるんだっけ? (よく覚えていない)
(右図: 「相場甚助」と書かれた、たぶん明治期(明治10〜20年代?)の石塔。
水をかけてしまった後の撮影^^;
で見にくいですけど‥)
とまあ、田舎の百姓の血筋なもので、
記録に残る過去の資料がほとんどない状態ではあるんだけど。
そんな中で、相場一族および周辺の人たちにとって
忘れることのできない大事件が!! ---
時は元禄時代、当時の大野村に
「大野の撫斬」と呼ばれる事件が起こったのである!!!
オレが耳にした伝承はこんな感じだ:
むかしむかし、
相場の方がたが当時の侍どもとイザコザを起こした。
その増上慢な侍どもは怨みを抱き、相場一族を根絶やしにしよう
という、狂っているとしか考えられない暴挙に出た。
でも、何といったか名前は忘れたけど、
相場何たらとかいう方の奥方が機転をきかせて、
御自身の亭主をどこかにお隠しになられた。
結果、相場の男たちはほとんど皆その劣悪な暴挙の
貴い犠牲者となってしまわれたが、この方が一人だけ難を
逃れることができ、そのおかげで相場一族の今があるのだ。
(口述を、うろおぼえ)
‥‥うーん。酒の席のヨタ話でしか聞かないから、けっこー
いい加減な伝承だ
(-_-;
そこで調査を展開したところ、すでに相場信太郎(故人)という人が
調査をおこなっていたことが判明。さらにウチの父親によると、
過去帳の調査などにはウチの爺さん(故人)も同行してたらしいことが
判明。うーん。それでもオレは今まで知らなかったのか‥
[大野の撫斬] については、こちら
註
- *註1
-
この時代(1219-1220近辺)に、由利地方から仁井田大野近辺に
流れ者が来る可能性について考えてみると‥
まず、当時鎌倉御家人となって由利地方を治めていた由利維平の軍が、
大河兼任の乱(1189)に際し、
小鹿島の大社山毛々左田の辺(現秋田県秋田市大森山・新屋付近か?)で
討死したらしい(wikipedia より)。
その残党(のちに相庭氏になる人たちの関係者?)が由利まで戻らず、
新屋の川向かいにある仁井田大野地区に
そのまま土着してしまったというストーリーは、まあ、
それなりにありそうな話ではある。
この場合、彼らが本当に源氏の末裔なのか? という話になると、
まあ、正直微妙という感じだな。
件の由利維平自身は「源氏の末裔」である可能性はあるみたいだけど、
その配下となると、さすがに‥。
それに「源氏の末裔かもしれない、鎌倉方の御家人の配下であった」と
いうのが、語り継がれていくうちに細部が省略されて「源氏の末裔」に
変わっていくのは、まあ、あり得る話だしなー。
別の可能性としては、由利維平の子である維久が「和田合戦」(1213)に連座して
所領を没収されちゃったらしい(wikipedia による)んだけど、
そのとき浪人化しちゃった
由利氏の配下の人たち(のちに相庭氏になる人たちの関係者?)が
大野に流れ着いた可能性もあるかな、と。
でもまあどっちにせよ彼らが「源氏の末裔」である可能性については
正直微妙、というか、まあ ないだろうな、という点については変わらないな。
- *註2
-
ただし承久年間(1220年頃)と明和年間(1769年)のあいだには、約550年もの
隔たりがあることには注意した方がいいだろう。
‥‥つまり彼らは最初は「相場」と名乗っていなかった
可能性だってあるってことだ。550年‥‥現在を起点にして
考えると、西暦1450年頃で、織田信長が登場する100年前。
それくらい昔の話なんだから。
- *註3
-
自分のためのメモ。父作成のメモによれば、「相場甚助」は私にとっては
父の母の父の父。1856(安政3)年生、1932(昭和7)年没。‥‥うーん。
撫斬の話になると「ウチは甚助だ」という話がほぼ必ず出てくるんだけど、
撫斬事件が起こった1696年から150年以上も後に生まれた人の名前を
そこで出されてもなー。それが一体何の手がかりに? (苦笑)>父
というか「甚助」って屋号なのか? 父母父父は改名して「甚助」になったらしいので、
つまり「甚助」は世襲ってことだしなー。
となると、父らが言う「甚助」は父母父父よりもっと上のご先祖なんだよな、やっぱ。