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東京在住のあいばさんにいただいた情報によりますと、 琵琶湖の北西側に「あいばの (饗庭野)」という名の地名が あるそうです[Google Map]。ひょっとして「あいば」の聖地?! ただし、現存する史料からはどう頑張っても 辿れないんだよなー。よほどの新史料がないと‥
[Table of Contents]上とは別の、東京在住のあいばさんには、 美濃の大野郡相羽 (大野郡は明治29年消滅; 現在の岐阜県揖斐郡大野町)という土地に1210年代に 相羽城 [Google Map] (関連情報: [1] [2] [3] etc.)を開いた 饗庭(あえば)(土岐)光俊(1221没)という人がいるそうですが、 その一族と「相場」は何か関係があってもおかしくないのでは ないか、なぜなら ある本によれば 『饗庭』が『相場』に転じて伝わった実例もあるようだし、 「大野」という地名が何かの関連を予感させるし‥ という情報(概略)をいただきました。 仁井田大野地区の伝説によれば「源氏の末裔である武人某」が ある日ブラリと出現して村を作った、とありますが、 この土岐一族はまさに「源氏」ということになっていますので、 大野村の開祖は土岐一族の誰かかも? という推測をしたくなります。 (ちなみに。大野郡出身の有名人といえば 戦国時代の名軍師、竹中半兵衛がいます。)
ただ私としましては、その同じ大野地区の伝説に従うのであれば、 前述のとおりご先祖たちは承久年間(1219-1220)に 大野に出現したことになるのですが、 それは饗庭光俊が相羽城を築いたのとほぼ同時期。 相羽城の「饗庭さん」の末裔、あるいは関係者が 来るとしたらもっと時代が下がってからだろう、 という疑念が払拭できないのが正直なところです。 (まあ口伝の伝承はアテにならないですから、たぶん言えることは 「江戸期(17c)にはすでに彼らは大野邑にいた」ということ。 であれば、大野氏の末裔が秋田まで移住してきて大野邑を作る、という 話は不可能ではなくなりますが‥) (それと。饗庭光俊は、この地域を支配していた土岐氏の一族な訳ですから、 そんな人らが何故に出羽国に来ることになるのか? という因果関係が 全然想像できないんですよね‥)
ただし、ここでいただいた情報でいちばん大事なのは、おそらく 「相場」という苗字そのものは源氏の流れを汲んだもので あり得る、ということですね。 無論、大野村の人たちが いつから「相場」という苗字を 名乗っていたか(1769年以前ではあるでしょうが、最初からか どうかは不明)については議論の余地はあるとは思いますが‥ でもその謎を解く手がかりは、たぶん、出ないでしょうね‥‥
[Table of Contents]地名といえば。 [三重県 員弁(いなべ)郡 藤原町 の住所一覧](mapion) を見てみてください。 ここに「上相場(かみあいば)」「下相場(しもあいば)」という地名があり、 しかもそこには「相場川」という川さえ流れてるじゃないですか!! (注: 藤原町は 2003.12 に合併して「いなべ市」になったみたいです)
[Table of Contents]
(秋田県由利郡は、秋田市の「相場さん」の出身地として本命視されているようです
‥‥と書いたものの、我ながらネタ元不明^^;
単なる私の思い込みかもしれません)
さらに地名といえば。 [秋田県由利郡矢島町の住所一覧](mapion) を見てみると、ちょっと 字が違うんですけど「元町字相庭舘(もとまちあざあいばだて)」という 地名があるみたいですね [Google Map]。字は違うとはいえ、 「相場(そうば; market price)は昔は 『相庭』と書いた」(『相庭高下伝』という書物もある)らしいので、 まったく関係ないとは言えないかもしれません。 何といっても、前述のとおり、 大野村に伝わる伝承に「武人某が由利郡から土着して」とある訳ですし。
なお「由利十二頭」の一つ、大井(矢島)氏の家臣に相庭氏がいたらしく、 その相庭氏と相庭舘のあいだにはたぶん密接な関係があるんだろう、 というあたりまでは推測してみました。ただその相庭氏はあくまで 戦国時代(1550年頃)の話になる(んですけど、その前から相庭氏を名乗って 活躍していたと考えるのが普通ですよね)ので、 大野地区の「相場」のルーツ(1220年頃〜17世紀以前?)との 関係があったと考えてよいかどうかは現状わかりません。 どこにどういう手がかりがありそうかも不明です。 ただ、大野邑は雄物川沿いなので、舟に乗る人たちであれば 大野邑にスーッとやってきてそのまま土着するというのは そんなに不思議な話ではないですよね‥