[Top]

人は冥途に行かない説 [平田篤胤]

平田篤胤翁における死後世界観を紹介


[前] 黄泉? 守護神?

夜見(ヨミ)≠黄泉

[Table of Contents]

日本古来のヨミとは? (宣長師)

まずヨミについての話からしていきます。

 先にも紹介したとおり篤胤翁に が師と仰ぐ本居宣長師は死んだら人は皆ヨミに往く、と仰せです。 宣長師が古典などを手がかりにした結果、ヨミは以下のようなもののようです (本居宣長『古事記傳』, 六之巻. 日本名著刊行会(1930), pp.274--275.より):

  • 下文に燭一火とあれば、暗処と見え、
  • 下方に在る国なりけり。
  • 仏教や儒教ではいろいろ言うが、僻事だ。ただ死人の往て住む国と意得べし
  • 人が死んで夜見国に罷るのは、魂のみ。
  • 死人に逢おうと夜見国に往くには、その骸を蔵したる処より行くことになるが、 それは神様の御うへの事である。
真暗、下方向、魂のみ、については、まあ一般的というか仏教・儒教的世界観が染み込んだ 日本の一般的な「あの世」イメージと近いんですよね(古典などの用例に当たった結果なので、 それが当然なんですけど)。

 違いがあるとしたら「ただ死人の往て住む国」、つまり閻魔様や地獄などがあって 亡者どもはその責め苦に喘ぐ‥なんて世界観は仏教による捏造である、 という考えみたいですね。

[Table of Contents]

ヨミはどんな場所か

篤胤翁は、基本的なところでは上記のような宣長師の説を受け継ぎます。

 篤胤翁は、日本に古来から伝えられてきた「ヨミ」と、 中国の伝統である「黄泉(こうせん)」を混ぜてしまったせいで 「ヨミ」が訳わからなくなった。‥そんな感じに述べています。曰:

そもそもこの曲説の発れる因を、つら つらに考ふれば、夜見と云ふに、黄泉の字をあてたるより、起れる説になむありける。 ‥(略)‥ さるは、人死にて、その魂も骸とともに、いはゆる黄泉に帰くとせるは、漢籍の説にて、‥(略)‥ その黄泉と云ふは、杜預が註に、「地中の泉、故に黄泉と曰ふ」といへる如く、 地に隧を掘れば、水の出づるよりいへるに、‥(略)‥ 夜見国に あてたるは、いたく相違へることにあらずや。(p.146--149) //
そもそもこの誤った説がおこったわけをつらつら考えると、これは夜見ということに黄泉の字を あてたところからおこった説なのである‥(略)‥ 人が死ぬと、その魂も骸も一緒にいわゆる黄泉にゆくと考えるのは中国の書物の説であり、‥(略)‥ その黄泉というのは杜預の註に「地中ノ泉、故ニ黄泉トイウ」というように、地に穴をほれば 水が出ることからいったもので、‥(略)‥ このような黄泉を夜見の国にあてたのは、たいへんな誤りといわなかればなるまい。(tr.230b--232b)
ここで「夜見」という語が出てきてます。この単語は宣長師もすでに使っておられるもので、 日本古来よりの「ヨミ」に漢字を当てたものらしいです。 この漢字を選んだ理由は特にないみたいで、 中国由来の「黄泉」と区別さえできれば何でも良いみたいな感じですね(p.32)。

 それはそうと。中国では 人は死ぬと魂・亡骸ともに「黄泉」に行くと書かれているみたいです。そして、 この黄泉とはそもそも何か? と遡っていくと、篤胤翁も仰せのとおり 「地下の冥界というよりは地下の黄濁した水を指す」という感じのようです。 しかし前述のように、篤胤翁は日本に古来から伝わる「ヨミ」が そんな「黄泉」などという「地下にある何か」とは全然違うだろ?! そんなものと 混同するのがそもそも間違いである! と主張します。

 そして。中国人がいう「黄泉」を日本古来のヨミと混同してしまったせいで、 日本でも「死者の魂はヨミへ行く」と、そういう誤解をされてしまった、と。 このへん、どこがどう違っているかについてなんですけど。それを語るにはまず (仏教とか儒教などの外来の文化・伝説に染まって歪められて語られるようになって しまう以前の、本当の意味での) 日本古来のヨミ とはどんなものであったかを篤胤翁がどのように考えていたか? という話が必要だと思われますので、 その話を以下で紹介していきたいと思います。

(つづく)

[次] ヨミは重く濁った物の塊