パーリ長部経典16「マハー・パリニッバーナ・スッタンタ」 (Mahāparinibbānasuttanta; いわゆる「涅槃経」)の 一部(DN 16 6,1-10.)を学部生の頃に訳したやつが、 昔のフロッピを整理してたら出てきましたので、 せっかくなので(内容はいじらず、体裁を多少整えて) ここで紹介させていただきます。翻訳に使ったのは 水野弘元(1977)『パーリ語仏教読本』pp.96--100(「最後の説法と般涅槃」の節)だと 思います。文章も術語も固いなあ‥
[Table of Contents]そのとき世尊は具寿アーナンダに話されました。
「ひょっとすると、アーナンダよ、おまえたちはこのように考えるかもしれない。 『教えを説かれた師はおなくなりになってしまった。私たちの師はおられないのだ』 と。しかしながら、アーナンダよ、そのように考えてはいけない。アーナンダよ、 私が語り知らせた私の法と律こそが私の亡きあとのおまえたちの師である」( 1)
「アーナンダよ、今ビクたちは互いに『友よ』という言葉で声をかけあっているが、 私の亡きあとはそのように話しかけあってはいけない。アーナンダよ、 長老のビクたちは自分より若いビクたちに名前によって、あるいは名字によって、 あるいは『友よ』という言葉によって話しかけるべきである。 より若いビクたちは自分より長老のビクたちに『大徳』とか、 あるいは『具寿』とかいって話しかけるべきである」( 2)
「アーナンダよ、私の亡きあと、サンガが望むのであれば、小さく些細な戒法は 廃止してもよい」 「アーナンダよ、ビクであるチャンナには、私の亡きあと ブラフマ・ダンダをおこなうべきである」と。( 3)
「大徳よ、ブラフマ・ダンダとは、いったい何なのですか」と。 「アーナンダよ、ビクであるチャンナは好き勝手に喋るだろう。[それに対して] ビクたちは彼に何も言ってはならないし、教え諭してはならないし、 説き示してもいけない」と。( 4)
そして世尊はビクたちに語りかけられました。
「ビクたちよ、たったひとりのビクだけでも、ブッダ、あるいはダンマ、あるいは サンガ、あるいは道、あるいは修行について疑い、もしくは疑惑を持っている者が あるなら。ビクたちよ、尋ねなさい。『私たちの師を目前にしていながら、 私の目の前にいらした世尊に直接質問をしなかったなんて』といって後で後悔する ことのないように」( 5)こう語られたのに対しビクたちは何も言いませんでした。
再度、世尊はビクたちに語りました。
「ビクたちよ、たったひとりのビクだけでも、ブッダ、あるいはダンマ、あるいは サンガ、あるいは道、あるいは修行について疑い、もしくは疑惑を持っている者が あるなら。ビクたちよ、尋ねなさい。『私たちの師を目前にしていながら、 私の目の前にいらした世尊に直接質問をしなかったなんて』といって後で後悔する ことのないように」( 6)こう語られたのに対しビクたちは何も言いませんでした。
三度目に、世尊はビクたちに語りました。
「ビクたちよ、たったひとりのビクだけでも、ブッダ、あるいはダンマ、あるいは サンガ、あるいは道、あるいは修行について疑い、もしくは疑惑を持っている者が あるなら。ビクたちよ、尋ねなさい。『私たちの師を目前にしていながら、 私の目の前にいらした世尊に直接質問をしなかったなんて』といって後で後悔する ことのないように」( 7)三度目もビクたちは何も言いませんでした。
そして世尊はビクたちにお語りになられました。
「ビクたちよ、おまえたちは師に対する恭敬ゆえ[遠慮して]質問しないのでは ないか。ビクたちよ、親友が親友にするように話しなさい」と。こう語られたのに対しビクたちは何も言いませんでした。( 8)
そのとき具寿アーナンダは世尊にこう語りました。
「大徳よ、すばらしいことです。大徳よ、いまだかつてなかったことです。 大徳よ、私はこのビクたちのサンガにおいて、ひとりのビクたりとして、 ブッダに、あるいはダンマに、あるいはサンガに、あるいは道に、あるいは修行に 対して疑い、もしくは疑惑を持った者はいないのだ、と確信しています」と。( 9)
「アーナンダよ、おまえは信心ゆえにそう言っている。だが、アーナンダよ、 如来はそのことをはっきりと知っているのだ。すなわち『このビクたちによる サンガにおいて、ひとりのビクたりとして、ブッダに、あるいはダンマに、あるいは サンガに、あるいは道に、あるいは修行に対して疑い、もしくは疑惑を持った者は いない』と。アーナンダよ、ここにいる五百人のビクたちの中の最後のビクで あってもその者は預流に達し、もはや堕落することなく、確実に正しい目覚めへの 道に達するのだ」と。(10)
そして世尊はビクたちに語られました。
「さあ、今、ビクたちよ、おまえたちに言おう。 生じたものは、かならず消え失せるものだ[*1]。 熱心に勤め励むように」と。これが如来の最後のおことばとなったのです。(11)
そして世尊は初禅に入られました。初禅からお出になって、二禅に入られました。 二禅からお出になって、三禅に入られました。三禅からお出になって、 四禅に入られました。四禅からお出になって、空無辺処に入られました。 空無辺処の禅定からお出になって、識無辺処に入られました。識無辺処の禅定から お出になって、無所有処に入られました。無所有処の禅定からお出になって、 非想非非想処に入られました。非想非非想処の禅定からお出になって、 想受滅に入定されました。(12)
そのとき具寿アーナンダが具寿アヌルッダにこう話しました。 「大徳アヌルッダよ、世尊は完全に涅槃されてしまったのですか」と。 「友アーナンダよ、世尊は完全に涅槃なされてはいない。想受滅の禅定に入って おられるのだ」と。(13)
そして世尊は想受滅の禅定からお出になって、非想処非非想処に入られました。 非想非非想処の禅定からお出になって、無所有処に入られました。無所有処の 禅定からお出になって、識無辺処に入られました。識無辺処の禅定からお出になって、 空無辺処に入られました。空無辺処の禅定からお出になって、四禅に入られました。 四禅からお出になって、三禅に入られました。三禅からお出になって、二禅に 入られました。二禅からお出になって、初禅に入られました。初禅からお出に なって、二禅に入られました。二禅からお出になって、三禅に入られました。 三禅をお出になって、四禅に入られました。四禅をお出になってから、 その直後に、世尊は完全に涅槃なさったのです。(14)
世尊が完全に涅槃なさったとき、涅槃とともに大地震がおこり、またおそろしく 身の毛のよだつ天鼓(雷鳴)がとどろきました。 世尊が完全に涅槃なさったとき、 涅槃とともに梵天であるサハンパティがこの偈を唱えました。
生きる者は すべて この世での身体を捨て去ると。(15)
そのように 世間における師であられ
肩を並べる者のない方であり
力を備えて 正しくお目覚めになられた方である
如来であっても 入滅なさるのだ
世尊が完全に涅槃なさったとき、涅槃とともに強き神インドラがこの偈を唱えました。
まさに 諸行は 無常でありと。(16)
生滅を 本質とするため
発生しては 消滅している
それらをなくしてしまうことが 安楽なのだ
世尊が完全に涅槃なさったとき、 涅槃とともに具寿アヌルッダがこれらの偈を唱えました。
心を定められた方 そのような方は呼吸が停止なされと。(17)
正しい頃合に 聖者は 不動の寂静に 到達なされた
動じることのない心によって 苦しみを忍耐なされ
灯火が消えるように 心が解脱なさったのだ
世尊が完全に涅槃なさったとき、涅槃とともに具寿アーナンダがこの偈を 唱えました。
あのときは恐ろしかったですと。(18)
あのときは身の毛がよだつ思いがしました
一切のものより優れたものを獲得なさった方が
正しく目覚められた方が完全に涅槃なされたときは
世尊が完全に涅槃なされたそのとき、まだ愛欲を遠ざけきっていない少数の ビクたちの或るものは腕を突き出して泣きだし、[心]破れて落ち込み、 倒れて伏して転げ回りました。『世尊が完全に涅槃なされるのがあまりに 早すぎます。善逝が完全に涅槃なされるのがあまりに早すぎます。 世界に対しての眼[を持った方]がおられなくなってしまうのが あまりに早すぎます』と。(19)
しかし愛欲を遠ざけて寂静[に達し]正しい智慧を[獲得なさった]ビクたちは 耐えしのんでいました。「生じたものは永遠ではない。それに対して [我々に]何ができるというのか」と。(20)
ここで紹介した文で「おお」と思ったのは、最後の(20)ですね。
その前の(19)で「まだ愛欲を遠ざけきっていない弟子たちの一部は 泣き出し、落ち込み、転げ回りました」というのは、まあ、当然だろうと思うんですが。 次の(20)、愛欲を遠ざけきり正しい智慧を獲得なさった方がたは「耐え忍んでいた(adhivāsenti; 1.to wait for; 2.to have patience, bear, endure; 3. to consent, agree, give (PED) ‥この2.を採用してます)」 ‥‥すでに愛欲を遠ざけきった方であれば、師の逝去(涅槃)に対しても 割と平然としていてもおかしくないのでは? と思ったりしてしまうのですが。 そうではないですね。「生じたものは永遠ではない」と、 ブッダの教えを必死になって心の中で反芻させることで 自分を納得させようとしている、そして自分の気持ちをおさえようとしている様子が 感じられ(ん? ちょっと考えすぎ??)、なんかちょっとグッときてしまいます。
(^_^;