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秋田六郡三十三観音巡礼記


 

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Introduction

以下ノ本文ハ

細谷則理校訂(1931)「秋田六郡三十三観音巡礼記」『秋田叢書』第八巻.
此ノ文書ヲ個人的ニ電子化シタモノヲ利用者ノ便カタメ秘ニ公開セルモノ也。 当電子版ノ妄リナル利用ヲ禁ス。 電子化ノ際ニ生シ転写誤リ等ニ備タメ、本電子文書ノ利用ノ際ハ、 必ヤ其内容ヲ原本ト照会シ間違無コト確認シテカラ用ルへシ。 乃チ、当電子版ヲ用タ場合ナリトモ、引用言及等ハ原文即チ『秋田叢書』等ニ 収録サル原本ニ対シ行フヘシ。 亦秘ニ公開セルモノ故、忽然ト公開停止スルトモ恨ヘカラス。enjoy

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解題

[p.1]

解題

秋田六郡三十三観音巡礼記   一巻

校訂者 細谷則理

我が秋田の昔の六郡、即ち雄勝、平鹿、仙北、河辺、秋田、山本の中に三十三観音といふがある。そは後 朱雀天皇の長久年中、平鹿郡御嶽山鹽湯彦命の臣、卜部氏致の末孫といふ満徳長者保昌が、紀州熊野神 社の霊夢により大仏師定朝に三十三体の仏像を作らせ、比叡山の教円阿闍梨の開眼供養を得て帰り、之 を六郡の名山巨刹三十三所に奉納して、順礼所と定めたそれである。物換り星移り幾百回の春秋往来 する間に、殆んどそを知る人無きまでに忘れられた。これを甚だ遺憾として秋田の人鈴木定行、加藤政 貞の両人、享保年中その跡を尋ねつつ順礼し、辛うじてそを探得、その縁起を記せるのが即ちこの秋田 六郡三十三観音巡礼記である。本書は主として縁起を記せるものなれど、時には普通の歴史の記載せ ざる史実を語り、又天変地妖等を説くこと詳なれば、郷土史を資益すること尠少でない。故に、これは 実に郷土史研究家必読の書である。

 本書は大別すれば享保年中に成れる原本と、寛保年中に何人かが加筆せるものとの二種となるやう [p.2] なれど、数部を対照比較するに皆多少の出入差異あって、殆んど同一のものはない。従つて原本と確認 すべきものがないから、今はその中最も原形に近いと思はれるを以て定本とした。

 後人の加筆と思はれるものも妄りに削除せず、その少なきは(イナシ)「  」と記して之を区別し、その多きは (備考)としてその項の後に附記した。時には(一本何々)と記したのも有るは、文章の都合に因つたので ある。

 序文その他に、漢文風に書けるものと、仮名交体に記せるものとの二種あるが、その意味に差異なけ れば今は仮名交体のものを取る。然れども、尚多少順倒して読むべきものの交りてあるは恣に改めず 原形を存したのである。


[p.1]

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六郡順禮記

出羽国雄勝、平鹿、仙北、河辺、秋田、山本。右六郡の内観音巡礼三十三所は、平鹿郡御嶽山鹽湯彦尊の臣 卜部大連氏致の後胤、満徳長者保昌出家して保昌房と号し、人皇六十九代後朱雀院の御宇長久年中紀州 熊野に参詣して、霊夢の告を蒙り都に登り、西国三十三所を順礼して観音の像を大仏師定長に作らせ、 比叡山阿闍梨教円禅師に開眼供養を受取て本国に帰り、右六郡の山々嶽々寺院等に、彼の仏像並に順礼 の縁起を書かしめて奉納せしなり。其後都より阿闍梨教円禅師尋来り、彼の順礼所の仏々に歌を詠ず。 即ち御嶽山鹽湯彦神社の内、御嶽山湯の嶺白滝観音を第一番と定め、秋田郡比内の庄根の井岩本山を三 十三番として、教円禅師と保昌房同行して札打納め帰京し給ふ。時に人皇六十九代後朱雀院の御宇長 久年中なり(それより今百十五代今上皇帝の御宇享保十六辛亥まで六百九十余年になる)。右六郡三十 三所、年数六百九十余年の星霜移代り有所知れず。不思議に此書を得て今享保十四年己酉季夏の頃より、 [p.2] 秋田御城下の住人鈴木定行、加藤政貞の両人古跡を尋聞きて順礼し、最も順道に彼の札所を綴り、後人 の旅行の為と左の如く書記す者なり。

西国巡禮記
抑も順礼の由来を尋るに、爰に人皇六十五代の帝花山院御位を遁れさせ給ひ、御髪をおろして入覚法皇 と申奉り、熊野権現の御夢の御告有りて、寛和二年丙酉三月十七日より那智山を打始め、六月一日に美濃 国谷汲寺にて打納め給ふとかや(寛和二年より享保十四年まで七百四拾七年になる)。
札打時の文  種々重罪 五逆消滅
自他平等 即身成仏
    南無大慈大悲観世音菩薩。

(備考)一本に左の如く見えたれば参考の為に附記しぬ。

秋田六郡三十三観音巡禮記
抑順礼の由来を尋ねるに、人皇六十五代の帝をは花山院と申奉る。御即位の年故有て御位を遁れさせ給 ふ。剰御装りをも落させましまして入覚法皇とならせ給ふ。或時熊野権現御夢の告をなし給ふにより て、寛和二歳丙戌三月十七日より、那智山を御札初として御巡国ましましけり。六月朔日美濃国谷汲寺 [p.3] にて御打納め給ふとかや。是より代々の貴賎都鄙遠国に至るまで年毎に怠轉なく心を運ふ事、誠に大 慈の誓尽せぬ印ならんかし。
寛和二年より寛保三年まて星霜七百五十八年。

一羽州雄勝、平鹿、仙北、河辺、秋田、山本六郡の内観音巡礼三十三所は、先年平鹿郡御嶽山鹽湯彦尊の臣 卜部大連氏(とし)致の後胤、満徳長者保昌出家して保昌坊と称す。然るに人皇六十九代後朱雀院の御宇、長 久年中紀州熊野山に参籠して霊夢を蒙る事あり。故に直に都に登り西国三十三所順礼して、観音の 像を、其頃定長(一本定朝)とて都に勝れたる上手の仏師有るに到り仏像を造らせ、比叡山の阿闍梨教円法師 を頼みて開眼供養し、これを提て本国に帰り六郡の山嶽寺院に安置せしめ、並順礼記を書しめて奉納 す。其後都より教円法師遥々と尋下り、彼の順礼所一仏毎に歌を詠ず。御嶽山の内湯の峯白滝観音 を第一番と定め、秋田郡比内の庄根井岩本山を三十三番として、教円法師と保昌坊同行して札打納 め、教円法師は帰京し給ふ。

長久元年より寛保三歳迄七百四年也。

一定長と云る仏師は六十八代後一條院御宇に法橋に至る、尤天下無双の名人也。金峯山蔵王権現へ獅 子狛犬を納る所、喰合て縁より下へ落ると古書に見えたり。定長七代の後胤院賢法橋と云るも妙を 得て、柏の木を以て小鬼を造り菩薩谷と云所の地蔵堂へ納る。或時其里人の娘懐妊して鬼子を生む、 [p.4] 皆不審を成す。前に彼木鬼朝に露を戴き濡て有り、別当不思議を立る所に鬼子生る。仍て鉄の鏁を 以て之を繋く。後無其儀と云へり。

一運慶并に弟子安阿弥は、八十二代後鳥羽院より順徳院の御代の人也。文治、建久年中の事也と古記に 有り。

出羽国雄勝郡平鹿郡仙北郡河辺郡秋田郡
山本郡、右六郡三十三所順礼札所并縁起

一平鹿郡仙北郡両郡の境杉沢川実入野菩薩、祭神は近江国竹生島弁財天女也。人皇六十六代一條院御 宇寛弘二乙巳年九月九日、卜部大連の末流満徳長者致尚、国家安全の為守護神と崇処也。是に依て、 此川上岩岨と正淵の上に宮殿を建立して南向也。社地東西弐百間、南北弐百八十間、松杉の内に宝殿 東西弐拾間、南北七間也。楼閣は参十参間、岩岨の上に六間四間の舞殿、御湯殿は岩を切通也。鳥居 は其侭の石を用ゐ、石檀宝殿に至るまて善を尽くし美を尽せり。然るに正淵に大なる鮭弐頭登り来り て、御神楽の拍子に合せて水上に踊り尾を振るに霧雨の如し。魚の脊金金銀の光りに似たり。鮭の身 に注連縄をまとへり、見る人奇異の思ひをなせし処に即ち御託宣あり、我か宮居の北秋田郡男鹿嶽の 上に坐す聖女、西海の鮭に注連を免るし此正淵に至り、天女の法水に逢はしめ鱗を浄くして帰り海を 移す。世の人此魚にあたすへからすと、云々。 [p.5]

一正淵に百拾八間青赤白三岨の岩あり、神此処に跡を垂玉ふ。地福長者致昌此社に参籠度々に及ひ、信 仰して此社を出でず、宮中の西の方に住居す。

一人皇六十九代後朱雀院の御宇長久三壬午年六月、地福長者致昌、此舞堂の東岩岨の上に七間四面の拝 殿を造り、西国三十三ヶ所の第二番の札所紀三井寺の観音の像を、大仏師法橋定長に作らせ奉納せり 人皇百十四代中御門院の御宇、享保十四年酉の天迄六百八十八年也。

一地福長者先祖卜部大連氏致は鹽湯彦尊の臣下也。氏致の男氏尚より七代の孫満徳長者致尚、平鹿郡、 雄勝郡、仙北郡の随処に、平鹿、仙北の境吉沢杉沢の流れを用水として田畑数多作らしめ、大家を造り 宝蔵棟をならべ、牛馬犬鶏多く飼ひ富み栄ゆ。

一地福長者実父は、光頼の真人の男大島居山頼遠か四男也。其子保昌実父は貝沢三郎武道か二男、出家 して保昌坊と號す。諸国修行して紀伊国熊野那智山に参籠して、観音の御利生に依り西国三十三ヶ 所を巡礼して、観音を大仏師定長に作らせ阿闍梨教円法師に開眼供養せしめて、其後本国へ帰る。雄 勝を始め各六郡山々嶽々寺院に、彼仏体並に三十三所順礼記を書しめ是を奉納す。其後都より教円 阿闍梨尋来り玉ひて、同行して鹽湯彦尊の座せる御嶽山の内湯の峯白滝の観音を第一番と定め、秋田 郡比内の庄岩本山にて三十三番の札打納め、教円法師帰京し玉ふ也。

  伝に云、教円阿闍梨は勢州の大守藤原孝忠(イ)(息)第二の子也。八歳にして人皇六十五代花山院御 [p.6]   宇、寛和元年乙酉の年登山して慈恵大僧正の御弟子と成り、長暦二戊寅年大僧都と成り、七十代   後冷泉院の御宇、永承二丁亥六月十日御寿七十歳にして寂す。能く唯識論を誦し、春日大明神の   加護を蒙りし名師なり。

一承暦二戊午年地福長者致尚(イ)(昌)彼跡を追て順礼す。

一人皇七十三代堀川院の御宇寛治三己巳年三月十七日、致尚(イ)(昌)天狗に連れられて行方知れす。其弟 正致、翌年庚午の春当国の住人将軍三郎清原武衡、同四郎家衡乱を起して兵戦の時滅亡しけり。依て 保昌坊の系図如斯。

  伝に云、武衡、家衡は清原の真人武則の子也。源頼義公、同義家公、安部貞任宗任御退治の時当国   の案内者なり。九ヶ年の軍終りて、武則軍功有に依て出羽国数ヶ所領知し給ふ。依て出羽奥州   の鎮守府将軍となる。其後武衡、家衡朝家を掠め奉りしかは、寛治三乙巳年勅命を蒙り源義家公   官軍を率して出羽に下り、仙北金沢において武衡、家衡と戦ひ、同五辛未年右両人を打亡し御帰   陣あり。是を前後十二年の戦と云也。

一人皇八十八代後深草院の御宇建長年中、鎌倉最明寺時頼公諸国修行の時、当国の山々寺々順見して札 を打玉ふと也。

一人皇百五代後柏原院の御宇永正六己巳年七月十八日、平鹿郡横手石町一木氏治部、同郡沢木保呂羽 [p.7] 山住人遠藤氏、保昌房古書を得て、絶たるを起して是を順礼す。

一人皇百八代後陽成院の御宇慶長十二丁未年、横手の住人羽多平勇軒斎、同所藤氏足利の末流鈴木定秀 六郡順礼す。

一人皇百十四代東山院御宇元禄十一戊寅年、横手光明寺住僧白道和尚、六郡本覚寺住僧薫冏和尚、小西 浄心法師、敦賀屋道専法師各順礼す。

  附云、薫冏和尚は本覚寺十五世也。小西安誉浄心大徳は小西匡之より七代以前の人也。春浄菴   開基也。浄心は愛娘の春智童女をさき立てしより発心して剃髪す。   右六郡三十三所観音順礼所、年数既に七百余歳の星霜移り替りて有処知れす。然る所に不思議   に此書を得て、享保十四己鶏季夏頃より秋田御城下の住人鈴木定行、同処加藤政貞古跡を尋ね   求めて順礼し、彼の札所を綴りて、後人順礼の為左の如く書認し者也。』

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第一番 平鹿郡横手御嶽山鹽湯彦ノ尊座湯の峯白滝の観音

御本尊は滝壺に入て見え給はず。其後滝の下に名水湧出る。観音は滝の中岩に立給ふ。彼の岩 岨の上に役の行者住居し給ふ跡あり。

 歌に [p.8]

補陀洛や御たけの滝に白糸にはるはる来ては洗ふ欲あか。
此山は役の行者通開の嶽なり。

御殿(鹽湯彦神社熊野権現)、御堂(西向、嶽の頂にあり)、皇子殿(御殿東の台西向)、湯の峯白滝観 音(滝の中岩にあり御堂前面)、閼伽(あか)の水(役の行者肌身を清むる水也)、山伏屋敷(役の行者山伏 の教行の地也)、御手洗(十干水、十二支水、七星水、鶏鳴水、破軍水とも御殿前西の方平沢にあり) 行者岩屋、経水(慈覚大師一切経を書給ふ水也、龍燈水とも云ふ)、鉢森、般若寺(御嶽山大坊慈覚 大師御開基也)。

右は弘法、慈覚、一遍仏生定の霊地なり。

御嶽登山道筋 石町(八乙女屋敷、神楽男の居所有り)、久保野目(神女屋敷、隠座の林有り)、古 瀬渡(板戸渡とも云ふ)、大鳥居山、丸山、平鳥通、明沢野、鳴見沢(下り居三社)、古真木長根、綱取 越、滝山下道、地獄谷、滑沢、行者屋敷、其外名所多し。先達を頼み登山すべし。

(イナシ)「明永御嶽山修験大応院跡般若寺札所也。清水の般若寺は御嶽山般若寺の在院也、六代目宗円建 立云々、其所端堀院は十代目学心住す。清水の般若寺と号す。虎薬師慈覚大師御作。」

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第二番 平鹿郡横手実入野十一面観音

実入野菩薩堂中にあり。大旦那地福長者、紀国三井寺の観音を大仏師定長に作らせ安置す。金 [p.9] 仏は弘法大師の御作也。

 歌に

杉沢の清きなかれや実入野に岸打つなみは松風の音
(イナシ)「此社寛治の頃兵火にて焼失す、是に依て金仏の観音、弘法大師御作馬上の八幡焼跡に見えす、有 所今以知れす。十一面観音弁才天の像、東の岡に飛せ玉ひて焼すして残らせ玉ふ。此所に札を うつなり。

杉沢川正淵観音弁才天の社水辺にあり。長者館水戸間(イ)(門)とて有り、実入野古谷地の下に水 戸間(イ)(門)有、尋ぬへし。」

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第三番 平鹿郡横手三井寺観音

(イナシ)「般若寺三世法光坊開基(三本杉あり、三井院とも云ふ)。」正観音大仏師定長作。加賀美次郎遠 光か般若寺防戦の時大島井山の川へ入り、其後慈覚大師の御作の薬師如来と共に三井寺に納む。 三井寺は般若寺の院跡と云ふ、般若寺の古跡は横手林の内にあり。右沢に撞鐘埋みて在り。(イナシ)「兵 火にて悉く失ふといへり。」

 歌に

春は花夏は林の鐘の音常に教の絶えぬ般若寺。 [p.10]

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第四番 平鹿郡横手無量壽寺千手院

中頃より寺號あり。卜部致尚長久年中是を建立す。千手観音大仏師定長の作。(イナシ)「鎮守毘沙門天、 毘首羯摩の作也。」

 歌に

夏山の梢にせみのから衣澤の御寺の御法なるもの。

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第五番 平鹿郡明澤村多武峯観音

大仏師定長の作也。(イナシ)「薬師仏もあり。」此処は七高山の峯壱番の山也。筏の仙人鹽湯彦尊に名馬 を献上す。彼の駒に召され登天し玉ふ。帰り玉ひて彼の駒を放し玉ふ故、山を御駒ヶ嶽とも云 ふ。鞍置き玉ふ処をは馬鞍と名付たり、明沢山麓也。古跡多し、尋ぬべし。(イナシ)「駒ヶ嶽、明沢、馬鞍、 仙谷庄筏の里なとあり。」

 歌に

峯の花麓のつつし分け登り佛のをしへ明澤の月。

(イナシ)「御嶽の上に座す鹽湯彦の尊、通行の仙人より鴾毛(つきげ)の駒を得て登天し玉ふ、鴾に癸辰夏四月八日。 秋八月八日卯の上刻明星共に天より下たる。依て此山を明星山とも、又明沢嶽とも、秋の峯共云 へり。其後弘法大師、仙谷の庄にて仙馬の像を作り尊の白幣を馬上にかさり、明星山の東に当り [p.11] て高山の頂に於て大権現と崇奉る。是に依て御駒ヶ嶽と云ふ。此の仙人常に雄勝、平鹿、仙北の 山路を遊行して清水の辺に現す。亦駒仙は、東海の辺気泉の嶽の洞穴に住玉ふとも云へり。月 泉大師御詠歌。

雲を分け明澤山にすめる哉峠の佛二つなき月。

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第六番 雄勝郡杉宮三輪山杉林寺吉祥院

三面観音 大仏師定長作。
杉宮本社蔵王権現
正一位三輪大明神  霊社。
杉宮村正一位稲荷明神  元稲田山と號す。
仁王門 仁王、慈覚大師御作。

杉の木一夜に天より降りしとなり。古き宮故ゑ宝物色々有り。秀衡殿御建立、其後当郡小野寺 氏代々修覆と云々。慶長年中より大守公御建立。

来て見れば田ことの杉も真直に末たのもしき観世音なり。

[備考] 一本に左の如く見えたり。

『第六番 雄勝郡杉宮村吉祥院

此宮林の杉、むかし一夜の内に天より降下り大林となれり云々。養老年中行基菩薩の開基也。三 [p.12] 輪山杉林寺吉祥院と號す。三面観音、大仏師定長の作也。

 歌に

来て見れば田毎の杉も真直に末たのもしき観世音なり。

本社 蔵王権現      一座
正一位三輪大明神     一座
八幡宮          一座

 是は藤原秀衡公の御建立、其後当郡小野寺氏代々修覆し給ふと云ふ。(イナシ)「御宝物数々あり。」 慶長年中より領主源義宣公御建立也。西国坂東秩父百番の札所の観音あり、弁天宮あり。毎年 十二月十七日市あり、是を三輪の市といふ。

(イナシ)「附云、本翁(山本鯉川の人)杉野宮へ参詣して八幡宮を開帳せし時、寺僧のいはく、此八幡宮の  扉は往古秀衡公の寄進也と有り、以来御宮焼失などの節彼扉のみ取出したるもの也、云々。」 仁王門の仁王は慈覚大師の御作也。一の鳥井二十丁余あり。

元稲田山正一位稲荷大明神一座  杉宮社  別当真言宗(イナシ)「知行七拾石と言へり。」御室派也。』

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第七番 雄勝郡小野村野中山小野寺

御本尊千手観音  大仏師定長の作也。

[p.13] 昔小野の良実城跡、八十嶋、二つ森とて深草少将、小野小町の塚あり。八十嶋の北の方に芍薬九 十九本あり。別当林とて岩屋あり、姥となり小町住給ふ処といへり。昔伊勢国分部左京といふ 人、諸国修行の時此所に来り此芍薬を見てかくなん、

言の葉の種に殘りて古の跡なつかしき小野の古里。
時に、雄勝郡上会氏返歌とおほしくて、
古の跡のあはれを訪ふこそはまことに花の都人なり。
教円阿闍梨巡礼の歌。
よもすから月小野寺の園の花うてなの露に身をやとすかな。

(備考)一本に左の如く見えたり。

『御本尊千手観音、大仏師定長の作也。此寺は慈覚大師住み給ふ菴の跡なりとかや、淳和の頃なり とぞ。其後国主小野良実公御建立。此寺にて慈覚大師、小町が古書を集めて百年の形を作らせ 玉ひて体中に蔵し入る、是を小野小町の百とせの像と云ふ。此像金沢古城の辺に有り。良実城 跡、七辻馬出し、四十行馬館、登り堀、横合入堀、八十島、遠院、四(イ)(二)十八ヶ宿、小野出水、小野老 女都より狂ひ出小野の古里へ来りて、昔見し清水に立寄り我影の水に浮ふを見て、

 歌に [p.14]

かはり行身の果なりや影に添ふかはらぬ小野の清水なるもの。
斯なん詠せしとかや。園に芍薬九拾九本有り。此芍薬に百九十八首の歌あり、内九拾九首は深 艸少将、同九拾九首は小野小町の歌也。是を名付て法実経花と云、八十嶋の北の方に有り。小町 芍薬実植の歌。
実植して九拾九本のあなうらに法実歌(のりみうた)のみ絶えな芍薬。
二つ森とて深草少将、小野小町の塚あり。別当林、相思塚といふあり、小町存命の時深草の少将 の骨を埋めしとなん。一つは小町塚也。依て二ツ森といふ。岩屋は小町老女となりて此所に住 居す、是を別当林といふ。岩屋に籠り居て人に見えず、実方の中将、吾妻の歌枕尋ね下り玉ふ時 此所に来りて斯なん、
なき宿やありし昔の雲の月小野の人かなしはし逢みん。
其時岩屋の内より小町返歌。
有無の身やちらて根に添ふ(イ)(が?入る)八十島の霜のふすまを重くとぢぬる。
小町の辞世。
いつとなく返さはやなん假の身の五つの色もかはり行くなり。
八十島の嶺の洞大に鳴動して、小町霊魂出て朝日に映じけるとなん。然りといへども身体平生 [p.15] の如しと也。或時桑ヶ崎の御堂に遊び、千草の花を詠めて薬師を友とし、又或時は、持仏の観音 に向て無尽の像を顕して歌を吟ず。諸氏悉く不審をなす。○桑ヶ崎御堂薬師如来は深草の少将 の持仏也。又山田薬師といふ十一面観音は小町の持仏也。小町老女数多の桑を実植して、陽葉 を取りて蠶をあやなし、糸を取らせ織延て紬とすと也。老女昨子、老男才治とて有りしとかや。 鳳凰山洞善寺とて桑ヶ崎に有り、良実公の菩提所と云へり。昔、伊勢国分部左京亮と云し人諸国 修行して此所に来り、芍薬を見て斯なん。
言の葉の種に殘りていにしへのあとなつかしき小野の古さと。
雄勝郡上会氏返歌とおほしくて、かく、
いにしへのあとのあはれを問ふこそはまことに花の都人かな。
附て言、或書に分部左京亮政寿は伊勢人、江戸よりの巡見使にて寛永十四年下向、又上会八右衛 門治俊は藩士にして、分部氏の案内として出役したる人也。久保田住、家禄四百石。

教円阿闍梨巡礼の歌に

夜もすから月小野寺のそのの花臺の露に身をやとすかな。
能因法師の歌書に、小野小町の跡は八十嶋に有と云々、小町は人皇帝五十四代仁明帝の御宇承和の 頃の人也。其時は花の姿なりとそ。承和元年より人皇百十五代今上皇帝享保十八子年まて八百 [p.16] 九十九年也。』

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第八番 雄勝郡鮎川村東鳥海山千手観音

大仏師定長作。慈覚大師西の鳥海山より此山へ至らせ玉ひて東の鳥海山を開基し玉ふ。山の上 に池あり、是則鳥の海なり。

 歌に

東より西に移ろふ鳥の海雄勝の空もはれし夕立。

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第九番 雄勝郡横堀村横堀山正音寺

本尊十一面観音。

古書に赤塚九歳ヶ崎十蓮寺、本尊十一面観音、大仏師定長作と有り。十蓮寺の跡、御影石にて土 の下に拾間四面石居の跡有り。正音寺は再興の寺と云々。

重くとも五つの罪のいつとなく十の蓮花に座すとおもへは。

(備考)一本に左の如く見えたり。

『第九番 雄勝郡横堀村正音寺十一面観音

本尊菩薩。古書に赤塚九年か崎十蓮寺、本尊十一面観音、大仏師定長と有り。十蓮寺の寺跡、 (イナシ)「御影石にて」土中に拾余間四面の礎有り。正音寺は再興の寺にして浄土宗也。 [p.17]

 歌に

重くとも五つの罪は何となく十の蓮華に座すとおもへば。』

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第十番 雄勝郡上院内観音堂

御本尊十一面観音、大仏師定長作。地蔵菩薩、慈覚大師の御作。今は愛宕山長楽寺とかや。

 歌に

樂みの遠からぬ身は苦の修行薩埵の慈悲にやすむ院内。

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第十一番 平鹿郡大森村竜淵山大慈寺

古書に今宿の観音堂とあり。

正観音、大仏師定長の作。彼の所は剱ヶ鼻白象の嶺といふ、是より八沢木保呂羽山へ参詣すべし

波宇志別神社、出羽九神の内吉野の奥院といふ。誕生の釈迦仏金峯山法音寺と號す。

 歌に

後の世も現世の苦難劔の難經味を受けて今宿の里。

(備考)一本に左の如く見えたり。

『古書に今宿の観音堂とあり。無寂禅師古院取立滝淵山大慈寺と號すとあり。右の古院、阿気の 新在家今宿郷大谷地に卜部氏御堂建立。昔此所遠近の高山沢々流水落合て大川と成る、尤清 [p.18] き流れにして風景能き所也。于時人皇六十八代後一條院御宇寛仁四庚申年春三月大地震、大風 山を飛し大雨土砂を流し、忽ち平地流をせき留め洪水海原の如く、大波山の如し。毒蛇毒を起し 常に雲霧晴れずして、人民の煩多く田畑絶たり。是に依て広淵大崎に此の観音を安置す。其後水 流を通し日月赫々として照り、また此水東へ流れ水色血の如くにして、毒蛇寸々に切れ流るる事 良久しく、後に此所古谷地となる。観音の古跡也。

    観 音    左 行基菩薩御作
本 尊 観 音    中 大仏師定長作 御堂北向
    観 音    右 慈覚大師御作

行基、慈覚の御作は劔ヶ崎に立玉ふ。後に卜部保昌坊此崎に移す。上溝の里観音、三洞に立、弘 法大師の御作。元と日天子、月天子、七星の洞と云ふ、則弘法大師の御開基也。

此観音、中頃大森引附城内白象の峯劔ヶ鼻に四方面之御堂、城主建立す。兵戦の時滝淵山大慈寺 に入る。是に依て此寺に札を納る也。白象峯は、人皇四十五代聖武天皇御宇天平二十戊子年、此 山に普賢菩薩出現の地也。飛去り玉ふ跡に御劔残る、依て劔ヶ崎と號す。其後行基菩薩、弘法大 師通行山道、吉野越といふ。八沢木保呂羽山は羽宇志別尊座、是吉野奥の院誕生の釈迦仏也。金 峯山法音寺と號す。尊の御甲石、御鞍掛石、御劔沢(又御沢とも云ふ)、尊の御劔帷子と変すとあ [p.19] り。抑保呂羽山大権現は、紀の国牟婁郡保呂羽山の麓下居の里に現来し玉ふ。人皇四十六代孝 謙天皇天平宝字元年丁酉年八月十五日、下居の里より保呂羽山の頂に移し奉り大権現と號す。 教円阿闍梨巡礼の

 歌に

後の世も現世の苦なん劔のなん經味をうけて今宿の里。』

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第十二番 平鹿郡朝日岡観音

大仏師定長作。

彼堂に伝教大師、智證大師、慈覚大師、弘法大師御作の御仏数多在す。

仁王門  仁王、慈覚大師御作なり。

朝日さす峯の佛の誓にはまゐる心を御手にもらさし。

(備考)一本に左の如く見えたり。

『第十二番  平鹿郡横手朝日岡正観音

立像(イナシ)「御丈け壱尺」大仏師定長作。此所は伝教大師、智證大師、慈覚大師、弘法大師仏生清浄の霊 地なり。下座天照大神宮、此御堂清将軍武則公御建立、其後の領主小野寺氏代々造営修覆すとい ふ。清将軍の像あり。白木の弓一張、矢一本、是田村将軍の奉納といふ。又弓箭あり、是は藤原 [p.20] 秀衡の奉納也。太刀二振、長四尺三寸、同三尺八寸、佐藤勝信奉納す。古館は天狗館ともいふ。 又名水あり、(イナシ)「酒の泉あり。」仁王門の仁王は慈覚大師の御作なりと云ふ。

 歌に

旭さす峯の佛のちかひにてまゐる心を御手にもらさす。』

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第十三番 仙北郡金沢村萬年山祇園寺

古書に、金洗沢鍛冶屋布金洗の観音と有。

正観音  大仏師定長作。

八幡太郎義家公城の跡、金洗城又厨川の城とも云り。

八幡宮有り、鎌倉権五郎塚有り、厨川流の末目半のかじか有り、石のからうど、古跡多し。 同所専光寺に三途川姥御前の尊像有り、慈覚大師御作と云ふ。

わけ行は大悲の光いやましに湧出る水金洗澤。

(備考)一本に左の如く見えたり。

『第十三番  仙北郡金沢村萬年山祇園寺観音

古書に金洗沢鍛冶屋敷金洗観音とあり、大仏師定長作正観音なり。

八幡太郎義家公の城跡(金洗城又厨川城共云り)(一本)(安部貞任か城の跡に今)八幡の宮有り。鎌倉権 [p.21] 五郎塚あり。矢立塚と云ふ。厨川の宿の内に流るる川有り、此流に目半の河鹿有り。石の唐櫃有 り、古跡多し。矢杭向城兵糧籠置し故飯詰とも云ふ。祇園寺に義家公の御直垂、御袈裟有りしと なん、今は六郷の永泉寺に有り。此寺、元六郷伊賀守殿の牌所也。

 歌に

わけゆけは大悲の心いやまして湧出る水金洗ひ澤。』

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第十四番 仙北郡六郷村東光山本覚寺

本尊正観音、河内国藤井寺の観音を写す。中頃大檀那本堂伊勢守殿古院取立再興す。本堂殿城 跡、藤森川に古院の跡あり。

諏訪大明神の社あり、武蔵坊弁慶の古迹有り。春日野、鶯野とて広き野あり、此処に春日大明神 の社有り。是より真旱嶽に参詣すべきなり。真旱山大権現、大同年中田村麻呂の御建立といふ。

 御詠歌に

日出つるや光も深き藤の森大悲のちかひ本覺の寺。

(備考)一本に左の如く見えたり。

『正観音、河内国藤井寺の観音を写奉り、大仏師定長作。古書に曰、出羽国山本郡真旱嶽の頂にお いて、弘法大師七座の護摩を修し玉ふ。時に日天子七童子雲下に至り是を守護し玉ふ、山の名を [p.22] 真如十形山といふ。又慈覚大師伝来して宝山とも云ふ。弘法大師の開基也。田村将軍建立の霊 地也。是真旱嶽也、大自在観音大権現と號す。人皇五十一代平城天皇御宇、大同三戊子年六月 此御山に観音堂御建立也。観音鎮守春日大明神、多門天、本堂家の氏神なり。人皇七十三代堀川 院の御宇長治二乙酉年六月、大和国奈良郡、山城国鞍馬山より勧請す。依て春日野、鶯野とて広 き野あり。

 私に曰、春日野は今若林野と云ふ、道より上の野也。鶯野とは道より下、土崎林野の辺なり。 人皇百一代後花園院御宇康生二丙子年大地震、是に依て下山す。古跡は山の頂に在り、是則本覚 寺札所の観音也。

 私に曰、下山の時に元本堂村前山に観音有り、是より蛇森に遷すと見えたり。本覚寺古院又此  麓に有りと見えたり。今は民家なり。然とも今に其所、座主林と云ふ。同所熊野権現の宮は  武蔵坊弁慶の建立也。

 私に曰、是亦元本堂村にあり、右観音堂続きの北の山也。
中頃、大旦那本堂伊勢守吉高公古院御取立再興す、即東光山本覚寺と號す。吉高公帰依の僧東光 坊と云あり、西国に住居す。藤原氏なりといへり。或時吉高公夢中に、藤森川の辺に庵室ありて 老僧一人まします。立寄みれは一身金色の光あり、御名をとへは東光坊と宣ふ。吉高公夢覚て [p.23] 風に起き、人を以て尋ね玉へは夢に違わす。則請して帰依し奉る。是に依て古院本覚寺を建立 す。彼の名を表して東光山と號すとかや。人皇第百四代後土御門院御宇延徳二庚戌年十月、右 観音蛇森に引取御堂建立し玉ふ、東向。夫より幕林観音とも云ふ。本堂出羽守殿蛇森院に住居 す、依て此観音又蛇森へ移して御堂建立し給ふ。本覚寺は本堂村にあり、其後兵戦の時又寺に遷 す。天文四乙未年領地増して本堂氏牌所とす。本覚寺の什物本堂大膳法名名覚心の直垂、鎧、兜、 馬具、太刀四振り、長刀一振、鑓二筋あり。教円阿闍梨巡礼の

 歌に

日出るやひかりも深き藤の森大悲の誓ひ本覚の寺。
遊行十九世の上人、春日の別当藤性房、同社家大次賀人見正御旅宿の時御詠歌。
鶯の聲なかりせば雪消(ママ)(イ)(行暮)ぬ長閑にかすむ(ママ)(イ)(やとる)春日野に来て。』

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第十五番 仙北郡田沢村黒尊仏森の観音

大山の半腹に黒尊仏後光の内に三十三体あり。前は田沢の潟にて二里四方といふ。御座の島と て(イナシ)「八畳敷程の」白砂の嶋有り、浮木の明神とて有り。黒尊仏は金輪際より出生したる自然石の 御仏也。潟より半里程前に観音の像立てり。田沢寺は禅宗也。是に観音座す、大仏師定長作。 爰に札を打。教円阿闍梨巡礼の [p.24]

 歌に

有かたや自然石佛黒尊佛逢ふもまれなる観音の慈悲。

(イナシ)「仙北郡院内村観音嶽の頂に石の宝殿あり、慈覚大師作。仁王門の仁王同作也。西明寺時頼公諸 国修行の時、此嶋へ出て月を待佗て御歌に、

遅くいつる月にもある哉足引の山のあなたの佛こひしき。」

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第十六番 仙北郡小杉山村円満寺十一面観音

慈覚大師御開基、大仏師定長作。(イナシ)「古書に、此観音中頃白岩雲岩寺に御座す。時に閻魔王宮より書 たる物来る、名付て地獄文と云ふ、此寺に有りとかや。」鎮守月山大権現、昔、仙北本町の城主戸沢 能登守藤原盛安公の御祈願所也。(イナシ)「戸沢殿の古跡秋田郡藤倉の沢に有り。教円阿闍梨巡礼の」

 歌に

野を越て山路に入れは時鳥小杉山にもほそんかけたり。

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第十七番 仙北郡峯吉川村高寺山高善寺

本尊千手観音 慈覚大師御作。
大同二年田村将軍御建立。峯吉川は、かたひらの里といふ、白糸滝名所なり。御本堂に札打。別 当峯沢山福城寺といふ。 [p.25]

たふとやと峯吉川の観世音瀧の流れもほとけほとけと。

(備考) 一本に左の如く見えたり。

「御本尊千手観音、慈覚大師御作。同観音は大仏師定長作。養老年中行基菩薩御開基也、大同二 年田村将軍御建立。峯吉川は片平の里と云ふ。別当鞍馬山萬松院長養寺の末院、峯沢山福城寺 と云ふ。白糸の滝不動尊御立、名所也。本堂に札を打也。教円阿闍梨巡礼の

 歌に

尊とやと峯吉川の観世音たきのなかれもほとけほとけと。
白糸の滝は不動明王。坂ノ上利仁公の御歌
落瀧津暴せる布の白糸や手にむすひつつなかれ行なり。
小野の中将の歌
夏と秋と行かふ瀧の白糸に紅葉折てむ帷子の星。
藤原定秀の歌
白糸の瀧のゆかりや人をして暑さそまさる帷子の里。
阿闍梨教円の歌に
尊とやとおもへはいとと峯吉の川のなかれも佛とそきく。
[p.26] 古跡名所、峯の観音立像、薬師仏立像、山谷大日坐像、胎内潜り阿弥陀、白滝不動明王、帷子ノ里釈 迦立像、川原地蔵立像、多門天、広目天、岩屋洞、制多迦、矜羯羅、火天、水天、風天、雷神等也。伝来 の聖僧名将、聖徳太子、役行者、行基菩薩、弘法大師、智證大師、慈覚大師、教円阿闍梨、月泉良印禅 師、一遍上人、左大臣源誠綱公、田村将軍利仁公、俵藤太秀郷公、小野良実公、源頼義公、同義家公、 清将軍武則公、藤原秀衡公、佐藤庄司勝信等願望の霊地也。座禅石(行の座ともいふ)、行者螺合 野、注連かけの観音、袈裟掛の観音。」

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第十八番 仙北郡境村唐松山光雲寺観音

本尊不空羂索観音、(イナシ)「原彦(一本)(平座)の観音とも云。」大仏師定長作。本堂唐松(イナシ)「山」大権現は、八幡太 郎義家公前後十二ヶ年の合戦終りて、小野寺前司太郎道綱に命して境の庄寄附ましまして御建 立の霊地なり。(イナシ)「荒川山の内玉の明神有り、此山皆水晶の玉の如し。尋へし。」

 歌に

もろこしを移すや名のみ唐松の川風涼し法のかよひ路。

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第十九番 河辺郡岩見村両沢山千手院

古書にツクシ森と有り。御本尊阿弥陀、薬師、千手観音、大仏師安阿弥の作、地蔵二体慈覚大師の 御作。いつの頃よりか、彼のツクシ森より千手院へ移し奉る。此寺の後に古館あり、安倍の通 [p.27] 寛、同武文、同武芳住居す。其後岩見殿と云ふ人住けるとなり。森の下に清き淵あり、岩の上に 弁才天の宮有り。

 歌に

いく度も心をはこふつくし森千手の誓ひかたき石山。
(イナシ)「輪宝山水晶林、釈迦、薬師の尊像自然石と云へり、弘法大師の伝来なり。川口(イ)(目)、米木、平尾鳥 二三の高山とて有り、尋へし。」

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第二十番 河辺郡戸島の庄宝川村法喜山観音院(寺)

本尊正観音、慈覚大師御作。

 歌に

積置し御法の山を今そ見る清くなかるる宝川(たからか)の水

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第廿一番 秋田郡太平庄太平山元正寺

本尊正観音 慈覚大師御作。

古書に、太平山四天王寺、本尊、正観音、大仏師定長の作。四天王は慈覚大師の御作とあり。中頃 大檀那大江元正七間四面の御堂を建て、中尊阿弥陀、釈迦、薬師、観音、慈覚大師の御作安置し給 ふ。之に依て四天王寺と云ふ。後薬師如来は太平山に飛給ふと云えり。同庄寺庭村に万谷山安 [p.28] 楽院とて一字有り、本尊阿弥陀、前立四天王慈覚大師御作なり。昔は大寺と見え石居の跡有り。 其外此沢に名所古跡多し、皆々慈覚大師御作なり。

嬉しさよ太平山も雲晴てあゆみをはこふ慈悲の古寺。

(備考)一本に左の如く見えたり。

『第二十一番 秋田郡太平山元正寺

本尊正観音、慈覚大師の御作。

即ち同大師の開基なり。古書に、太平山四天王寺の本尊は正観音にして大仏師定長の作と有り。 四天王寺は慈覚大師の御作。中頃大旦那大江ノ元正と云人有り。七間四面の御堂を建立す。中尊 阿弥陀、釈迦、薬師、観音は慈覚大師の御作にて安置し玉ふ。是に依て四天王寺と云へり。後に 薬師は太平山に飛玉ふと云へり。「時移り大江氏牌所とす、依之元正寺と云。」同庄寺庭村に萬谷 (イ)(喜)山安楽院とて一字の堂あり。(イナシ)「昔は大寺と見えたり、礎の跡あり。萬谷(イ)(喜)山安楽院入道平ノ 秀長の歌に」

秋やけふ来ぬとはかりの言伝に長閑に颪せ松風の音。
其外羽黒権現、観音、不動、毘沙門慈覚大師の御作、尤古跡多し。歌に
嬉しさよ太平山も雲晴てあゆみをはこふ慈悲の古寺。』 [p.29]

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第二十二番 秋田郡藤倉村藤倉山長命寺

本尊秘仏の観音也。一刀三礼慈覚大師の御作、同く御開基也。仁王門仁王の御丈ヶ一丈二尺、運 慶の作。古き杉有り、神木なりと云ふ。一王寺といふ小社の下に大川有り、桜ヶ淵とて垢離掻場 也。妹脊石、是を石神と云。名所旧跡多し。則開眼の時慈覚大師の御歌に

妙なるや仏も御法る時節也我住む菴に冥加あらせ玉へ。
教円阿闍梨の歌
紫の行末なかき命寺藤倉山の杉の正躰。

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第二十三番 秋田郡山内村松原亀像山補陀寺

池の中に宮あり、補陀洛山観音、閻浮檀金の御仏也。月泉和尚古院取立建立し玉ふとかや。当寺 開山月泉和尚一派の本尊也。石の嶺、座禅石、亀像山、亀が淵、向の山は羽黒山、月山権現立玉ふ 石居の跡あり。湯沢台杉生大明神の社有り。熊野権現は月泉和尚勧請と云ふ也。

 歌に

はるはると来て松原の入相に寝に来る(イ)(行く)からす二ツ三ツ四ツ。

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第二十四番 秋田郡寺内村亀甲山古四王堂(イ)(寺)

人皇三十四代推古天皇御勅願所、聖徳太子御開基、仏法最初四十八ヶ寺の内也。正観音、則聖徳 [p.30] 太子の御作也。(イナシ)「丈六の釈迦、鎌倉将軍惟康親王の御建立。」古書に、縣城亀甲山四天王寺中心東 門院、中興田村将軍の御建立。大悲寺は昔当寺の坊中也。本尊十一面観音、閻浮檀金の尊像也。 人皇八十九代亀山院御勅願処、普門院(イ)(山)と云。今は御城下寺町に有り。札は寺内村本堂に打 へし。

 歌に

年ふるや亀甲の山の池に生ふる真菰菖蒲ものりの大悲寺。

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第二十五番 秋田郡新城の庄石名坂村高倉山龍泉寺

(イナシ)「行基菩薩御開基」田村将軍御建立、慈覚大師再興(イ)(開基)の霊地也。御本尊大勢至菩薩秘仏也、行 基菩薩の御作。正観音と地蔵菩薩は慈覚大師の御作、十一面観音は大仏師定長の作也。墨染桜、阿 彦の池等名所多し。阿彦の館は中頃鹽越佐土住すとかや。(イナシ)「佐土軍配団扇、並に作の面三ツあり。」

 歌に

墨染のさくらも実入(イ)(の)る高倉の阿彦の池に月澄るなり。

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第二十六番  秋田郡男鹿椿村に一宇堂有り、補陀洛山長谷寺と云り。古書に岩島打浪の観音と有り。

御本尊十一面観音、慈覚大師の御作なり(一本に、大仏師定長作)。妙頓森とて石山有り、石の下 より名水湧出る。此石に浦島太郎釣りたりし王余魚とて岩に付きたるあり。此岩穴に海士が先 [p.31] の地蔵とてあり。浦島此処に来りし時、海士と現し先達し玉ひし故に、あまが先の地蔵といふと なり。其外名処多し。此里の入口山崎に、本山赤神山大権現の一の鳥居あり。(イナシ)「浦島大明神の小 社あり、太刀一振あり。」

 歌に

岩島や実に打浪の観世音利益のふかき西の海面。

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第二十七番 秋田郡男鹿真山赤神山光飯寺

本尊十一面観音、大仏師定長の作也。椿村より門前町に出て、本山へかけ越にするがよし。女人 は霧沢越に参詣すべき也。本山には慈覚大師一刀三礼の観音御在す。秋田城介安倍秀友(一書 に秀安)の母公、真山へ掛越にさはりありとて歌に

信心は胸に佛の有るなるにきり立ちへたつ横あひの道。
是より霧沢といふ。
(イナシ)「大保田阿弥陀堂、慈覚大師の御作。周の代の卞和(是を楚夫と云へり)を神にいはひし社あ り、楚夫か池とて有り。」

 歌に

峯二つかけし山路の木の間より真如の月をなかめぬるかな。 [p.32]

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第二十八番 山本郡八森村瀑峯山天龍寺

観音、地蔵菩薩、不動明王、慈覚大師御作。人皇五十五代文徳天皇の御宇仁寿年中、慈覚大師御 開基也。観音は滝壺に入る大滝也。天龍寺坊中瀑峯山松源院、並に修験慈覚(イ)(光)坊、泉長坊、右 天龍寺、松源院共に慈覚大師御開基。其後松源院を同郡川又村に移し、宝塔を建立して仏舎利を 納め、釈迦、観音、地蔵を安置す。前立は不動明王、各慈覚大師御作也。是に依て川堂川村(一書 に川堂村)と號す、又宝塔寺とも號す。人皇六十一代朱雀院の御宇、天慶七甲辰年八月大地震に て、彼宝塔伽藍、人家共に沼の中に埋み入る。其後八森に移し再興す。大旦那山辺、藤原氏の時、 人皇八十五代後堀川院御宇元仁元甲申八月御堂建立す。此外名所多し。

 歌に

岩をたて山をかこひの瀧の壺たた観音と唱ふ聲のみ。

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第二十九番 山本郡荷上場村高岩山

本尊観音、大仏師定長作。弘法大師、慈覚大師伝来の霊地也。来迎石、回廊岩、籠目岩、籠山、地獄 谷、浮上平。中頃平氏古跡取立、米白川の末小繁村川原、藤琴川の流の上に大伽藍を立て、坊中数 多建立すといふ。

 歌に[p.33]

名のみきく高岩寺の明の鐘積む煩悩も消えて行くなり。

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第三十番 山本郡小繁村七倉山宝蔵観音

弘法大師、倉毎に観音の像を彫付給ふ、是七観音にて御座すとなり。副川の尊御建立の霊地な り。

正観音 大仏師定長の作也。
是より森吉山、又田代へも行くなり。慈覚大師観音の像を作て納給ふ。森吉山は薬師鎮座也。 阿仁は大竃殿、金倉ヶ沢といふ。人皇四十三代元明天皇の御宇和銅年中に青銅を献上すとなん。

七倉や石碑の光ほからかに流るる音もみのりなるもの。

(備考)一本に左の如く見えたり。

『宝蔵の正観音、大仏師定長作。弘法大師、倉毎に観音の像を彫付玉ふ、是七観音也。又石牌陀羅 尼の観音とも云へり。副川の尊 辛酉四月八日初て天神七尊を七峯に祭り奉る。麓には五大尊 を祭る。人皇五十三代淳和天皇の御宇、天長二乙巳年弘法大師開基の霊地也。天神七代、地神五 代を崇奉るといへり。川向には天満大自在天神を勧請す、依て七座の天神と號す。是より森吉 山、又田代へも行也。森吉山は薬師仏鎮座の霊地也。阿仁は大竃殿、金蔵か沢と云ふ。人皇四 十三代元明天皇の御宇、和銅六年癸丑青銅を献上す。田代か嶽は比内早口村の水上茶臼嶽、田代 [p.34] 嶽、烏帽子嶽とて有り。田代嶽には慈覚大師観音の像を作りて納め玉ふ。ここに田代九十九枚 有り、苗代水の池有り、又御手洗池有り。何れも山の上にあり。

 歌に

七倉や石牌の光りほからかになかれの音も御法なるもの。』

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第三十一番 秋田郡比内の庄大館鳳凰山玉林寺

御本尊馬頭観音、大仏師定長作。(イナシ)「正観音は浅利家持仏の観音也。」鳳凰石、三太刀川、桐の沢有 り。中頃大旦那浅利家建立の寺也。十菰村より今大館へ移す。(イナシ)「洞地は大館山の内にも有り。」

 歌に

天くたる鳳凰山の桐の澤玉の御寺に駒そいさめる。

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第三十二番 秋田郡比内の庄松峯山

人皇五十二代嵯峨天皇の御宇、弘仁八丁酉年弘法大師此山を開基し、金銅を以て大日如来、阿弥 陀如来、大自在観音を作り、白銀を清め大円光の鏡を作り、天長地久四民安全を祈る所也。弘仁 十三壬寅年左大臣誠公、森吉の仙家に至りて此山の御堂建立。

人皇五拾五代文徳天皇の御宇天安元丁丑三月三日、大地震にて御堂、仏、鏡、澤に埋む。又人皇五 拾九代宇多天皇の御宇、寛平三庚亥年宇多天皇御勅歌、並に菅相丞勅命に依て月山大権現の額を [p.35] 書き、御勅歌に添へて出羽郡司良実子小野四品良房に勅命を下し給ふ。

いやましの光も時に埋るるあらはれ照せ松峯の月。
干時寛平七乙卯年六月十五日御建立、奉行小野四品良房、是則宇多天皇の御勅願所。
我頼む人まつ峯の観世音名と世と共に御手に洩れまじ。

(備考)一本に左の如く見えたり。

『第三十二番 秋田郡比内松峯不動明王

不動明王秘仏也、弘法大師作。前立二童子、御堂東向なり。末社薬師堂、山の神、宇賀神の両社。 具利伽羅不動滝あり。岩屋十一面観音、弘法大師の御作、本堂南向也。正観音、大仏師定長作。 抑此御山は人皇五十二代嵯峨天皇の御宇、弘仁八丁酉年弘法大師御開基。金銅を以大日如来、阿 弥陀如来、大自在観音を作りて、白銀を清め大円光の鏡を鋳て天長地久四民安全を祈る処也。奥 の院大山頂に甲石有り。北の方に権現岩、胎内潜り岩、天神岩、岩の上に松の古木、小はせの木あ り。大日岩、薬師岩、剣の峯、天狗の釣橋、大天狗岩、小天狗岩有り。仏法僧と唱ふる鳥有り、三 光鳥も住めり。弘仁十三壬寅年左大臣満言公(一書誠公)、森吉の仙家に至りし時此堂を建立し玉 ふと也。人皇五十五代文徳天皇の御宇、天安元丁丑年三月三日大地震にて、御堂、仏、鏡、共に澤に 埋し也。人皇五十九代宇多天皇の御宇寛平三辛亥年、此山へ天皇より御製、並菅相丞へ勅命有て [p.36] 月山大権現の額を書しめ給ひ、御製の御歌を添へ玉ひて出羽ノ郡司良実公の嫡子、小野ノ四品良房公 に宣下有り。

 御製に

彌増の光りも時に埋るるあらはれてらせ松峯の月。

寛平七乙卯年六月十五日御堂建立、奉行小野ノ四品良房公也。則宇多天皇御勅願所也。此山の形 は則山と云文字也。此山の後は大山也、世の人御月山といふ。月山大権現一座、松峯山鳥居東向、 左右は並木の松、古木多し。宮の林は松、杉、雑木山也。大山の前流るる川は不動滝の流、拂川と いふ。往古より当国の大守造営し玉ふ所也。人皇百一代後小松院御宇応永十二乙酉年以来、秋 田郡比内庄司浅利家代々修覆すと云ふ。右本社の街道並木の杉、別当修験金蔵坊先祖より代々 取立し也。人皇百十三代今上皇帝(霊元天皇)の御宇、寛文十二壬子年佐竹石見源義房公再興し 鎮守とし玉ふ。時に別当職、真言宗松峯山千手院是を勤る也。御祭礼毎年四月八日、十八日、廿 八日、九月九日、十九日、廿九日。縁起如斯。別当修験 伝寿院。

 歌に

われたのむ人を松峯観世音名と世と共に御手に洩れまし。』

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第三十三番 秋田郡比内の庄花岡村岩本山信正寺

[p.37] 本尊大悲観世音。古書に根の井と有り。中頃出羽庄司の末流川田治郎信正再興す、(イナシ)「依て信正寺 と云ふ。」其後浅利左衛門尉定頼の菩提所也。宗祇、見斎諸国行脚の時此所にて宗祇

岩本の御法の鐘の聲きけば (見斎)いかなるつみも(イ、よもや残らん)世に残るまし。
と詠しけるとなり。三十三所札打納なり。
念彼力に過去現在の罪消えて有りや無しやの根井の白瀧。

(備考)一本に宗祇の下左の如くあり。

『宗祇法師諸国一見の時此所にてかくなん。

岩本の御法の鐘の聲きけばいかなるつみも世に残るまし。

庭に檭の木あり、太サ九尋廻る古木也。花岡村根井の権現とて古き宮木、古木数多有り。此堂、 昔田村将軍利仁通夜し玉ひ、滝の音聞き玉ひ願成就せしとて御詠歌

思ひある心の内も瀧なれや落とは見えて音そ(イ)(の)きこゆる。
補陀落や三十字一文字二字添へて札打納む願ひ成就。
 歌に
念比力に過去現在の(イ)(も)罪消えて有りや無しやの根井の白瀧。』

また一本に、この項の後に左の如く書き添へたり。 [p.38]

『一六郡七高山、保呂羽山、御駒嶽、御嶽之頂、真早山、小鹿本山、高岡山、田代之頂比内の早口水上  右七高山は弘法大師、慈覚大師女人禁制し給ふ山也。
  享保十七壬子南呂吉辰   嘉藤氏政貞

一慈覚大師ハ贈號也、僧名ハ円仁ト云フ。人皇五十四代仁明帝時代之僧也、小野小町同時也。承和  五年戊午入唐、同十四年丁卯年帰朝也。然ルニ、五十六代清和帝貞観二年庚辰円仁奉勅命秋田  郡男鹿山ニ下向祭赤神、造営既成就而同五年癸未帰京、同六年甲申正月十四日於叡山前唐院入  滅スト、赤神権現之有縁起。以是考ルニ、秋田ニ四年逗留シ玉フ間ニ六郡回リ玉ヒ、仏造立シ玉  フナルヘシ。貞観二年ヨリ寛保三癸亥迄八百八十四年也。

一弘法大師、僧名空海ト云ヘリ。羽州湯殿山迄ハ下向有ケレトモ、六郡ハ馬国ノ故赴ク間数トテ来  リ不給ト云リ。爾レハ処々ニ御作仏有事不審。但、於郡造リ玉フヲ授リ得テ当国へ持参シタル  ヘシ。諸山開基ト云ル事猶不審。

一聖徳太子ハ人皇三十一代敏達天皇御子、同二年癸巳正月元日誕生、廿一歳ニテ成摂政三十四代  推古天皇御代専ヲ勤玉フ。同二十九年二月五日薨ス、四十九歳。寛保三癸亥迄千百廿三年也。

一田村利仁将軍ハ人皇五十代桓武天皇之時之人也。生歳不知、空海、最澄(伝教大師也)円仁(慈覚大  師也)之同時之人也。延暦二十年辛巳東夷征伐ニ当国迄下向、此時建立成ルヘシ。右辛巳ヨリ寛 [p.39]  保三癸亥迄九百四十三年也。

一行基菩薩ハ人皇四十六代孝謙天皇勝宝二年庚寅入寂ス。寛保三癸亥迄九百九十四年也。

一最澄ハ伝教也、叡山中堂草創ハ五十代桓武帝延暦七年戊辰也。寛保三癸亥迄九百五十六年也。

一空海入唐同二十三年甲申五月也。最澄入唐同年七月也。翌年乙酉帰朝也。空海ハ夫ヨリ三年目  大同元丙戌帰朝也。

一五十二代嵯峨天皇弘仁十三年六月最澄入寂ス。寛保三癸亥迄九百二十二年也。

一空海高野山草創ハ五十二代嵯峨天皇弘仁七年丙申ナリ。寛保三年癸亥迄九百二十八年也。

一同入定ハ、五十四代仁明天皇承和二年乙卯三月廿一日、寿六十二歳。寛保三癸亥迄九百九年也。

一円仁ハ慈覚大師也、五十四代仁明帝承和五年戊午入唐、同十四丁卯帰朝也。

一同入滅ハ、五十六代清和帝貞観六年甲申正月十四日、寿不知。享保三癸亥迄八百八十年也。

一貞観八年丙戌最澄ハ諡賜伝教大師、円仁ハ諡賜慈覚大師。

一六十代醍醐天皇延喜二十一年辛巳十月、空海ハ諡賜弘法大師。右伝教、慈覚ヨリ五十六年遅シ。

一七十三代堀川院寛治五年癸未、源義家公仙北金沢清原武衡、家衡ヲ誅ス。寛保三癸亥迄六百五十  三年也。

一八十二代後鳥羽院文治元年乙巳三月廿四日、平家於海上滅亡、先帝御入水。寛保三癸亥迄五百 [p.40]  五十九年也。

一八十四代順徳院建暦二年壬申正月廿五日、浄土宗黒谷法然上人入滅ス。寛保三癸亥迄五百三十  二年也。

一九十代後宇多院建治元年乙亥、一遍法師時宗ヲ開基シ成遊行上人。寛保三癸亥迄四百六十九年  也。

一同御宇弘安五年壬午十月十三日日蓮法師寂ス。寛保三癸亥迄四百六十二年也。

一百九代後水尾院元和元年乙卯五月七日大坂落城、秀頼公自害、寿二十三歳。将軍家康公七十四歳  天下一統ス。寛保三癸亥迄百二十九年也。』