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『大野の撫斬』

元禄九年、出羽国河辺郡二井田村支村大野邑にて起こりし惨劇につき。


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菩提は東光寺で

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菩提寺は萬雄寺だったが‥

撫斬被害者の人たちは「罪人」としての処遇を受けてしまったため、 当時、事件の舞台となった仁井田村大野地区のほとんどの世帯が菩提寺としていたはずの 萬雄寺(秋田市楢山;久保田三十三所7B [URL])での 弔いができず、位牌等は東光寺(秋田市仁井田)にあるようです。 (なお、撫斬被害者の子孫は問題なく萬雄寺を菩提寺にできてるようです。)

 ちなみに、何故 仁井田地区から比較的遠方にある萬雄寺を皆が菩提寺にしていたのかというと。 萬雄寺は「主家梅津氏」が創設した、梅津氏の菩提寺だからです。 萬雄寺の名前って、初代の主家梅津様・梅津半右衛門憲忠の戒名「萬雄英徹居士」から 取った名前ですからね。その寺に、領主のみならず領民も一緒に入ったというか、 入らされたというか、そんな感じです。

関連リンク
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なんで東光寺はOKだったの?

 ここで以前から不思議だったのが、 「萬雄寺での弔いはダメなのに、何故 東光寺では弔いOKなの?」ということでしたが。 こういうことみたいですね。 --- 江戸時代は被害者の人たちを弔ってくれる寺がなかったので、遺族は 自分たちで「如来堂(空心庵)」を建立して菩提を弔っていた。 それが明治期になって、如来堂がある場所に1886(明治19)年、 それまで川尻村(現在の秋田市川尻近辺。現 一乗院、市立病院のあたり)に あった天徳寺閑居 末寺東光寺が引っ越してきた(『大野の撫斬』(1981)p.17 には 明治初年に廃寺になったのを 仁井田村有志が譲り受け と書いてある)。その移転の際に 東光寺が如来堂を併合した(明治時代になってるので、藩政時代の罪人だから とかいうことを気にしなくても良くなった)、と。

(※ 本ページで紹介している江戸時代の地図2枚は、 秋田県立図書館蔵「羽州久保田大絵図」(1828(文政11)年) を利用し、そこに 私が書き込みをしたものです。 [江戸時代の街道については、こちらもどうぞ])

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どうでもいいこと

なお、私のなんとなくの印象では、仁井田本町のあたりでは菩提寺が東光寺になっている パターンが多いような気がしています。これはおそらく上記の 東光寺の仁井田への誘致の際に、 ほぼ村ごと菩提寺を東光寺にしたんじゃないかと思います(だって、せっかく誘致したんだし)。 やはり萬雄寺はちょっと遠いですからね‥ (なお萬雄寺は今は楢山、 金照寺山の手前のほうにありますが、 江戸時代は桜、金照寺山の裏のほうにありました。この移転(1892(明治25)年)、まさか東光寺への対抗策?!)。

 でも、大野地区はたぶん 菩提寺は萬雄寺のまま というパターンで現在に至ってるはずです。でも大野地区の人たちと 東光寺はそんなに疎遠な関係かというとそんなことはなく、今はどうか知らないですけど、 すくなくとも1970年(昭和30年〜40年代)頃(?)は 何かあると東光寺で宴会みたいなことをやっていて、 だから私の祖父とか『大野の撫斬』の著者の信太郎さんとかは東光寺の住職(当時)とは 非常に懇意であったという話らしいです。

 ‥でも、じゃあ、菩提寺も ちょっと遠い萬雄寺から 近場の東光寺に変えてもよかったんじゃね? どっちも曹洞宗だし。仁井田本町のほうは(たぶん)変えたんだし ‥なんてことを父に聞いたことがあります。 そしたら、こう言われました:

「それは、それ。これは、これだろ」
‥そうですか。大野は大野、仁井田(本町)は仁井田、という感じなんでしょうかね。 なのでウチの菩提寺は萬雄寺です。

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