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『大野の撫斬』

元禄九年、出羽国河辺郡二井田村支村大野邑にて起こりし惨劇につき。


 

はじめに

出羽国を流れる大河、雄物川。その下流域沿いの村、 出羽国河辺郡二井田村の支村であった大野村。現在は秋田市南部の住宅街としてずいぶん発展しているが、 もとは佐竹氏の御城下の近郊の、かなりのどかな農村地帯であった。

この絵は、菅江真澄が1800年頃に描いた『勝地臨毫 出羽国秋田郡5』(秋田県立図書館蔵,[DA]) 中の「大野ノ湖」の項、それにいろいろ情報を追加したものであるが、 御膳川(雄物川)、大野潟、そして古川と、周囲を水に囲まれた、のどかな農村地帯であったことが伺える。 ちなみにこの大野潟は現存しない (のち大野潟・二ツ屋潟の2つに別れて、そのうち二ツ屋潟は大正期(20世紀初頭)にも 残っていたらしい(『河辺郡誌』p.17)。)が、江戸時代は釣場として 佐竹の御城下(現在の秋田市中心部)でも有名だったらしく、釣り人たちが頻繁に訪れていた場所らしい。 (右下の図は、 「出羽一国御絵図」(1647(正保4)年) [APL]に描かれた大野潟。中嶋がある!)

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大野邑は江戸時代初期、すでにあった

 大野村の起源について。伝説的起源はさておき、割と信頼できる話としては 菅江真澄が書いた以下:

今は二井田の支邑ながら、いとはやくよりありける村となん (「月の出羽路 河辺郡」『菅江真澄全集8 地誌4』1979, p.390)
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これが挙げられる。 (たぶん雄物川に近く、江戸期以前は耕作できる土地が非常に少ないゆえに) 村としての規模が小さく、それゆえ独立した村になるほどではなかったものの、 すくなくとも江戸時代の早い時期にはすでに存在していたっぽいと推測できる。

 それ以前はどうか? という話については、よくわからない。なにせ史料がない‥。 ちなみに菅江真澄は1800年頃の人なので、 江戸時代が始まった1600年は菅江にとっても200年前の話ということになる。 なので上で「割と信頼できる」として紹介した菅江の話も、 そんなに確度の高い情報という訳でもないので念のため‥。

 なお、当時の大野邑は、いまの「秋田市仁井田大野」よりは広かったはずで、 いまの仁井田新田も大野邑のはず(とくに3丁目)であるし、 大住も当時の大野邑のはず(大住の「大」は 大野の「大」だと聞いたような‥)。 これはまあ、江戸時代は大住のあたりは「大野潟」だった、ということを 考えれば理解できるだろう。

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大野部落

大野村を「大野部落」と呼ぶこともある。 なお。どうでもいいことだが。いつのまにか「部落」といえばイコール「被差別部落」か?!的な イメージを持つ人が多いようだが。「部落」を「被差別部落」の略称として使うようになったのは、 たぶん、かなり最近のことじゃないかと思う。また、 大野地区が被差別部落だったという話は私は寡聞にして聞いたことがないので念のため。 ライフスタイル的には普通に百姓(農民)としか言いようがない。私の知るかぎりでは。

 ところで。仁井田村の近辺に 四ツ小屋村 という名前の村がある。 なぜか この四ツ小屋村の起源歴史を知りたがる人が全国各地にいるみたいだけど(苦笑)。 興味がおありの方は [ こちら ] にどうぞ

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[ふろく] 「仁井田」の地名の歴史

ちょっと話は替わるが。

菅江真澄「月の出羽路 河辺郡」によれば、江戸時代(1800年頃)の 仁井田は「二井田村」とされている。そして二井田村の支郷として 大野、二ツ屋、福嶋、横山という四つの邑があったらしい(現在も地名として残っている)。 また「二井田」の表記について菅江はこう言っている:

もと此村、新田と書り。同名、秋田、山本、河辺、雄勝、平鹿の五郡に五村あり。みな新田たりしを、 近き世に、二井田とは書あらためられたりしとか。或人ノ云ク、新田はいにしへ、贄田なり (「月の出羽路 河辺郡」『菅江真澄全集8 地誌4』1979, p.388)
本当かどうかは不明だが、地名は基本「にいだ(にえだ)」で一定してはいるものの、 その漢字表記は 贄田=>新田=>二井田=>仁井田 と変遷してきた という説だ。 ‥ということは現在ある「仁井田新田」という地名は「秋田市千秋久保田町」と同様、 歴史的に見るとちょっと不思議な町名ということになる。

閑話休題。

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大野邑の元禄時代の大事件

 そんな中。江戸時代に入ってから約100年経過した1696(元禄9)年。この のどかな大野村で、 大事件が起こったのである。地元では「撫斬事件」として伝わる、大事件である。 この事件、今になってもなお、盆や正月など 親戚一同が集まる機会があると たまに話に出てくるほど、地元ではかなり衝撃的な事件だったようである。

 どんな事件なのか?

 上で、大野潟が有名な釣り場であるという話をしたが、事件は大野潟ではなく、 その近くにある古川という川で起こっている。 しかし事件の契機となったのは、やはり一本の釣糸だった。 それが、村の世帯主(22軒)全員が生命を失うほどの大事件に発展しようとは‥。

 この事件については、地元に住む、撫斬犠牲者の末裔である相場信太郎という人が かなり精力的にこの事件の調査を行なっていて、その成果を2冊の同名の『大野の撫斬』という 小冊子(1935,1981)で発表している。そこで本ページでは、この相場信太郎氏の著作に もとづき、本事件の概観を紹介していこうと思う。

 しかしその前に。事件が起こった時代背景などについての紹介も必要と思われるので、 そのへんの話から始めたい。

[次] 大野村の1696年