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[地名メモ] 秋田県秋田市四ツ小屋

題 [地名メモ] 秋田県秋田市四ツ小屋
日付 2013.11



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暴れ川・雄物川

 いま「四ツ小屋」と呼ばれている地域の歴史から。現在の「四ツ小屋」のあたりは、 秋田県を流れる大河・雄物川の下流域に当たっている訳ですけど。 秋田市に土地勘がある人であればわかると思いますが、 雄物川の下流域、四ツ小屋から仁井田、牛島、茨島、新屋、川尻といったあたりは 地形の高低差が少ないため、ちょっと雨が降るとすぐ洪水、だから とてもじゃないけど人も住めないし耕作もできない。 ‥‥江戸時代初期まで、あのへんはそんな土地でした。 この状況を変えるべく立ち上がったのが、江戸時代になってから 国替えによって秋田六郡の主となった大名の佐竹氏。そして家老の梅津氏です。

 梅津氏は、四ツ小屋から仁井田にかけての大治水工事に取組み、 なんと4代、約80年かけて大治水工事を完成させます(1695年)[参考]。 この大治水工事の中に、四ツ小屋近辺の雄物川流域改良工事が含まれていました。 どういう感じの工事かというと。当時、どうやら雄物川(御物川、御膳川)は 四ツ小屋のへんで かなり大きく蛇行し、 目長田・仁井田側にグイッと食い込む感じに流れていたようなのです[関連地図(Google)。だいたい線を引いたライン]。つまり、 現在の四ツ小屋は雄物川の豊岩側、つまり現在とは対岸のほうの側に位置していた らしいのです。しかし四ツ小屋近辺は地形に高低差がないため、 ちょっとした大雨などで雄物川の水量が増えると そのへん一帯はすぐに水に浸かってしまい、 せっかく土地があっても放置するしかありません。この状況を打破するため、 土木工事によって この近辺の雄物川のルートを直線化したのでした。 (目長田近辺を通る旧雄物川はその後「古川」として 現在も細々と残っています)。

 このあたりの話と関連した地図はないものかと探してみたんですけど、 なかなか良いものが見つかりません。 たまたま見つけた 『出羽一国御絵図』(1647(正保4)年) [APL]、これちょっと大雑把だな、とは思ったのですが、 その一部を拡大し、ちょっと書き込みしたものを右に示してみました。 もとは蛇行していた雄物川を どんな感じのルートで直線化したのかが、それなりに イメージできるのではないでしょうか。

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豊岩と仁井田の思惑

 こうして雄物川の一部から、耕作可能な空地へと変わった四ツ小屋地域。 この地域の起源について『秋田風土記』(1815)は以下のように書いています:

此村元は豊成の野なり、御膳川むかしは流れあしく、荒屋より願をして今の川となる。 古川の向ふに萱野あるを二井田の地と称して、乱に萱を刈りとる故に番小屋を掛て これを守る。始の程は交る交る守りしか後には三四家を野に移して定番とす。 此三四家のもの野菜を業として大に利あり。夫より別家をなし又は他村より来りて 終に一村となる。されとも田なし、五十余家みな畑のみ業とす。始の四ツ家を村の名とす。 今掘替の古川存す、近き年下境の武右衛門是迄開く、水よく至りて田を開く事甚し、 村中乏しからず。 (「秋田風土記」,『新秋田叢書(15)』(1972), p.179.)

‥いまの四ツ小屋のあたりは以前は豊岩(豊成,新屋)側のものだった。 つまり豊岩の村はずれの、いつも洪水してる川岸一帯(というか川の一部)という 位置付けであったのが、たぶん雄物川の流域改良によって状況が一変した。つまり この工事によって、 豊岩にとって四ツ小屋は「雄物川のこっち側」から「雄物川のあっち側」になり、 仁井田にとっては「雄物川のあっち側」だったものが「雄物川のこっち側」に変わった。 そして何より、雄物川の流域改良によって洪水が起きにくくなり、 普通に耕作可能な平地となった。

 このままでは四ツ小屋一帯を仁井田・目長田に取られてしまう。 実際に、四ツ小屋のへんに自生している(俺らの)萱を、 仁井田のヤツらが勝手に「俺らのものだ」と言い出して 盗み刈りして持って行ってしまってる! ‥そんな感じで危機感をおぼえた 豊岩の人たちは いまの四ツ小屋のあたりに見張り小屋を建て、 仁井田・目長田の四ツ小屋侵略(?)を防ぐこととした。 最初は交替で見張っていたが、そのうち面倒になってきたか何かで 見張り役を兼ねた人ら(四軒)を四ツ小屋地域に定住させることにした (‥というより、次男坊三男坊を分家させた、という感じだと思います)。

 四ツ小屋は堰(水路)を作る工事などはしていなかったので稲作はできず、 そこの住人たちは畑作ばかりしていたが、それでも十分 暮らせた(雄物川流域だったから、かなり肥沃だった? ちなみに引用はしませんでしたけど。主要産品は、大根)。 生産力に余裕があったこともあって人がどんどん増え、やがて独立した村となった。 村名は、村の起源となった四軒にちなんだ「四ツ小屋」とした。 (1815年時点での)割と最近になってようやく水路を造り、稲作を開始した。 ‥‥と、そんな感じでしょうか。

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移住開始した頃の状況

 これら移住や独立の年代についてですけど。三浦鉄郎(1987) 『新編 秋田の地名』三光堂書店, p.56 によれば 定住開始が1662(寛文2)年、独立が1678(延宝6)年だそうです(この情報源は不明)。 別資料 [URL]には 「四ツ小屋という地名は、寛文12年開墾の目的で雄物川の川岸にあった4戸の農家が移住したことからその名が付いた」とあります(寛文12年=1672年)。 この移住開始年の微妙なズレ(1662年か、1672年か)はちょっと気になりますけど、 どちらも情報源を書いてないですから真偽の判定はできません。

 また、一連の話の発端となった雄物川の流域改良工事についてですけど。 たまたま見かけた記事:

 四ツ小屋周辺を流 れる雄物川はかつ て、大きく蛇行して 水運の便が悪く、水 害も多発していた。 このため、1659 (万治2)年から15 年間かけて付け替え工事が 行われ、現在の流域の姿に なったとされる。 (「水とともに107」, 秋田さきがけ, 2014(平成26)年7月5日付紙面)
この記事によれば、1659年〜1674年くらいにかけて雄物川の流域改良が行われた ことになりますけど。さきに紹介した資料によれば四ツ小屋への定住開始が 1662年か1672年ということですから、どっちにせよ 流域改良工事が行われていて、その工事が完了する前の段階、 つまり流域改良工事が行われている最中に すでに、 四ツ小屋への入植は始まっていたということですね。

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地名を考えるのが面倒?

 地名についてですけど。 人が住まない、頻繁に洪水に襲われる地域だったということで、それまで 地名がなかったんでしょうね。それが、治水工事の進展とともに 人の居住エリアが急激に広がっていき、それら広がった地域にいちいち新規に、 しかも周囲のものとは重複しない名前をつける必要が出てきた。 いちいち名前を考えるのが面倒だったからか、とにかくヤッツケで名前を付けていった。 ‥そんな感じなんでしょうか。 ちなみに、このあたりにある類似の地名として 隣村の二井田村(現在の秋田市仁井田)にある「二ツ屋」とか、 新屋にはなんと「三ツ小屋」という地名を見ることができます。 地名の由来は調べてないですけど、たぶん 四ツ小屋と同様の命名規則によって付けられたんだと思います。

 ちなみに。四ツ小屋村ができた頃、近くの二井田村支村の 大野村では撫斬事件が 起こっています (1696年) [URL]

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四ツ小屋村の発展

 この四ツ小屋村ですけど。1730(享保15)年の「六郡郡邑記」(『秋田叢書2』[NDL] p.90;コマ59)には 「四十一軒」とあります。入植開始から50年程度でずいぶん発展してますね。 これはやはり四ツ小屋が「洪水のため耕作できなかった平野」だったため、 洪水の怖れがなくなると急速に発展できたことが大きいんでしょう。

 そして四ツ小屋はその後さらに発展したみたいです。その契機となったのは 1783(天明3)年に高橋武左衛門(平鹿郡下境出身)という人が藩命で 四ツ小屋地域および御所野一帯の検田・開拓事業を始めたこととされているようです。 それと近い時期の仁井田村南部から四ツ小屋村にかけての風景の絵がありましたので、 右に紹介しておきます。 菅江真澄『勝地臨毫 出羽国秋田郡5』(秋田県立図書館蔵,[DA]) に、ちょっと文字を書き加えたものです。 古川、なんかデカくない?!

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1917(大正6)の紹介文

以下に、秋田県河辺郡役所(1917,大正6)『河辺郡誌』の「名勝旧蹟」の項から、 四ツ小屋村に関する記述を紹介します。

[p.121]

六、四ツ小屋村

一、御納戸跡

高橋武左衛門の開墾成就するや、藩主其効を賞し、特に其貢租を藩主御納戸米となし、 官稟を設けて之を貯蓄せしめたり。

文化十三年武士左衛門、義和公の命により、字城下当場に御納戸一番庫を建つ。後御納戸米区域拡張 せられ田草川(川添村の一部落)松本(四ツ小屋村の一部落)大野(仁井田村の一部落)をも加ふ。 倉庫も次第に増加せられ、文政三辰年に二番庫、文政五午年第三番庫、文政七申年第四番庫、 文政十一子年第五番庫、弘化二己年第六番庫、嘉永三戌年第七番庫、安政四己年第八番庫を設くる に至る。其最も大なるものは第八番倉庫にして、幅五間、長さ二十五間、最小なるものは第三番庫 其幅は四間長さ十五間なり。総敷地反別六反九畝二十九歩、現今四ツ小屋小学校地は其一部に過ぎず。 本章挿入の写真図面は御納戸守松野善助の筆になれるを写せるものなり。

[p.122] 御納戸米の効験著しかりしは明治戊辰の戦役にして、秋田藩が四圍の賊中に勤王軍を挙ぐるに 当り、諸藩の官軍応援として入国し、大に軍糧を要したるに、此の倉庫により、勤王軍に兵糧の 憂なからしめ、士族また飢饉を免るるを得たりといふ。

この前安政七申年久保田(秋田市)の大火災にも之を開き、窮民を救ひたり。

文化十一年武左衛門開墾成就の時、佐竹義和公親臨して社堂を建て、自ら「先農の神」と書し、 之を祭りて礼拝せりと云々。社殿は御納戸の中央にあり(四ツ小屋小学校境内にあり)。 豊巻村隣正院祭主となり、隔年一回三月九日藩主臨場して例祭を挙げ、百姓共には御肴代として 小銭三十貫を下賜せらるるを例とせり。

文化十一年に天樹院公、天保五年四月、同七年三月、弘化元年三月に宏徳院公、安政三年三月に 憲諒院公、慶応元年三月義堯公親臨せり。
明治六年、地代七十五両、庫八棟百五十両にて、当時の御納戸守松野幸助に払下げられ、 現今其一部は小学校敷地、他は田畑に化したり。倉庫は四ツ小屋村榎喜蔵方に一、(第四番庫) 榎勘之亟方に一(番号不明)あり。

二、鷹塚

[p.123] 百余年前藩主鷹狩の際、村内の禁物たる鶏を鷹の餌とせられしに、其鷹忽ち死しければ、之を 村端に埋めきと云ひ伝え、鷹塚と称して今も存す。

三、古川

御物川は昔字四ツ小屋村の南端より、小阿地・仁井田村の傍を流れ、豊巻村の石田坂に 出でたれば、不便尠からざりしを、延宝年中、藩主、梅津半右衛門に命じ、四ツ小屋村と 豊巻村との間を開鑿して現今の如く直線的に流通せしめたり。古川とは其河跡にして、 今は処々に沼となりて存せり。四ツ小屋村と仁井田村の境界の古川(下クボと称す) 字四ツ小屋村の南及び小阿地の鉄道線路に沿へるもの等は著しきものにして、沙魚・鯰の 漁獲多し。古川筋は一帯に低地にして、洪水の時は洋々たる古の面影を髣髴せしむ。

四、御野場

御物川と字四ツ小屋村との間は昔は一面に葦叢生し、鶉等棲みて藩主の鷹狩場なりしを、 平鹿の人高橋武左衛門、藩主佐竹義和公の命により開墾せしものにして、六十余町歩の 田地区画整然とし耕地整理を行ひたるものに異らず。

江戸時代から、佐竹氏御城下町近郊の米倉・食料基地としての位置付けであったことが わかります。しかも、四ツ小屋から御所野にかけての一帯を大規模に開墾した功績により、 高橋武左衛門は藩主から高い評価を受けていたらしいこともわかります。

 それと『河辺郡誌』には 八番倉庫まであったぜ! とか、幕末の 戊辰戦争の際にはこの米蔵から新政府軍の人たちの兵糧が出ていたとか、 食糧基地であることを自慢げに書いていたりすることから (戊辰戦争の際、秋田は新政府軍についたため 隣接する東北地方の諸藩から総攻撃をくらって佐竹領ほぼ全域が壊滅状態に なったんですけど。その後の新政府軍の反攻の際に食糧を出せたということは、 つまり戦火は四ツ小屋に来る前には止まったんですね)、 地元の人たちも「ウチのへんは昔から藩の食糧基地だ」という自覚があったように 思います。

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1956(昭和31)年の状況

 1956(昭和31)年の「広報あきた」に、以下のような記事があります:

奥羽本線"よつごや"駅から西へ二十分、上野部落は、白一色の雪景色の田目の中にある。五〇戸のほとんどが純農家で、平均耕作反別は一町五反歩。 「四ツ小屋上野の部落活動」 (広報あきた No.87- 1956-03-05 -)(OCRの精度はイマイチ‥)
「五十戸のほとんどが純農家」だそうです。さらに別の箇所を見ると‥
鈴が鳴つたら納税
部落会の主な仕事は、私道の補修 と納税組合の運営で会長は六五才 とは見えない元気な榎喜市郎氏。 四ツ小屋地区の納税成績は全市で 最上位。その地区で上野がまた最 優勢とのこと。
毎月の末日が納税日になつており 納税日には当番二人が公民館で集 金する仕組みである。鈴が高く部 落にひびくと〃ソレツ納税〃と納 税袋をもつてくるので、三五年間 完納の実績に輝やいている。上野 納税組合は大正五年の設立で、歴 史は古い。 「四ツ小屋上野の部落活動」 (広報あきた No.87- 1956-03-05 -)(OCRの精度はイマイチ‥)
周囲よりも裕福な地域かどうかというのはわかりませんけど。でも秋田市役所が発行している 「広報あきた」に「納税成績は全市で最上位」と書かれているということは、少なくとも 1950年代においては、秋田市内の中でも規範意識というか「ルールはちゃんと守ろう」という 意識がかなり強い地域であったということは言えますよね。 (ただその後、四ツ小屋地域の周囲には「御野場」とか「御所野」などの大規模団地ができて、 周辺人口が急増してますから。それによって、この地域の人たちの意識とかがどう変化したか というのは正直わかりません。「少なくとも、御野場団地とか御所野団地ができる前は、 この地域の人たちは善良だったらしい」ということしか言えません。)

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[ふろく] 奈良時代、出羽国の国府があった?!

 話かわって。8世紀、奈良時代の話になります。733(天平5)年12月、出羽国の行政軍事拠点として 現在の秋田市寺内に出羽柵(秋田城)建設すべし、との詔書が出ます。しかしこの企ては 地元勢力の激しい反発により失敗に終わったようで、780年頃には出羽国府は「河辺」なる 場所に移転していたようです(ちょっと詳しくは [東北地方の8世紀後半] をどうぞ)

 ここで問題となるのは、この「河辺」なる地名です。秋田で河辺といえば、河辺郡? (秋田市内でいえば、牛島・仁井田を含む、それより南側の地域) と思いそうになるんですが、話はそんなに簡単ではなく。国府の「河辺」移転を伝える『続日本紀』によれば 「しばらく軍士と専当官とを派遣して秋田城を守らせろ。由理(由利)も 秋田城に至るための大事な拠点だから兵を置き、連携して守備させよ」(ちょっと詳しくは [東北地方の8世紀後半] をどうぞ)とあり、位置関係が (北から順に) 秋田城-由理-「河辺」となっているように思われます。このことから、この「河辺」とは 最上川河口付近、すなわち酒田のあたりではないか? と推定されているようですけど。

宝亀六年(七七五)に出羽の国府が秋田城より河辺に移されたと史書にあるが、この<河辺の府>がどこなのか、いまだ明確にされていない。‥(略)‥秋田市豊岩の考古学者武藤一郎氏らは、四ツ小屋駅のある小阿地こそ河辺府趾にほかならないと反証する。まず出土品の中に、正倉院蔵と類似した銅製古鏡(八花唐草雙蝶鏡)はじめ刀装具、曲玉など奈良朝型式のものが多数あることで、第二に村の人は小阿地を「コアヂ」ではなく「コアヅ」と発音しているのは国府津(こうづ)の訛りに小阿地をあて字したものであるという根拠である。なお小阿地台の北に接して束北電力秋田支店では最大という変電所のある御所野(ごしょの)台があるが、これも当時ここに古四王神社を移したための"古四王"が訛ったものではないか、というのである。 (ルポ+風土記 川は流れる(10)岩見川  ~水底にあそぶアユの麗姿絶景かな筑紫森と阻谷峡~ // 秋田県広報協会『あきた』1967(昭和42)年8月号 p.55)
小阿地というのは、だいたい四ツ小屋駅と、御所野の間にある地域です。 江戸時代以前ということで、おそらく旧雄物川の河畔のあたりになりそうですね。 ‥‥と、それ以上、私には何も言えることはないです(^_^; だって、このページの最初のほうに書いた「主家梅津氏による雄物川大改修」とは 800年も時間が空いてますからね。その時間差はさすがに無視できないです。

 それと四ツ小屋村って、上でも書きましたけど、17世紀にここに入植してきた 人たちが最初の村人だったわけです。ですから、もし大昔に出羽の国府が四ツ小屋村にあったことが 事実だったとしても、 いまの住民の人たちとの関係は全然なくて、 完全に断絶しているんじゃないかと思います。


関連(?)情報

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