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[memo] 18世紀秋田における被差別な人たちの記述について

題 [memo] 18世紀秋田における被差別な人たちの記述について
日付 2013.12



古川古松軒(1788(天明8)年)『東遊雑記』(参照したのは大藤時彦編(1964),平凡社東洋文庫27) で 目にした 被差別な人たちについての記述、またそれと関係しているかもしれないことについて、 ちょっとここでメモしておきます。

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被差別な人たちの記述

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久保田(秋田市)

まず久保田御城下における記述です。この古川という人は、佐竹氏の支配地、つまり 当時の秋田六郡(秋田、山本、河辺、仙北、平鹿、雄勝。現在の秋田県のうち鹿角、由利は入らない) の人たちについて「よろしからず。くれぐれも御領主の政事にありと思われしことなり」(p.94b) ‥つまり良くない、それは領主が悪いからだ、と書いてますけど。そんな佐竹氏の城下町で‥

北に出ずる町端に穢多町二町ほどあり。みなみな御巡見使拝見に出でしを見れば、亭主と見えしは袴を 着ておるなり。これまで見し人足などよりも穢多の方よく見えしなり。所の風とはいいながら他国になき 体たり。この日は店などもきれいにかざり、皮細工の数品並べありしなり。(p.88a)
ずいぶん貧乏に見える一般の人たちよりも、被差別な人たちの方が いいもの着てる、と。 そのことに(おそらく差別意識が徹底されていた)備中国(岡山県)出身の古川は驚いています。

 なお、古川の記述には「穢多町二町ほど」とあります。江戸時代における「一町」は 約109メートル[Wikipedia]らしい ですから、二町といえば約218メートルということになります。 私の調査によれば、1750年頃の穢多町は 東西に通じる一本の道の両側に面した ほぼ100メートル程度のエリアのはずなんですけど。 上述のとおり 1785年頃の古川は約218メートルと書いていて、 私の調査よりも倍の長さになっています。このへん、よくわかりません。 隣接していたはずの足軽屋敷群が思った以上にボロかったので見間違えたとか、 そんな感じなんでしょうか。

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本荘

 そして六郷佐渡守の御座所であった本庄(本荘)。ここでは‥

この辺の町端には穢多町百姓家と軒を並べて住居す。国風とはいいながら、他国に知らぬことなり。 本庄などの穢多町なかなか奇麗の家造りにて、店には革細工いろいろ餝りてあり、貧なる体には見えず。(p.76a)
被差別な人たちはゲットー的な場所に押し込められているのではなく 「百姓家と軒を並べて居住す」、つまり一般人と混住していたみたいです。しかも「貧なる体には見えず」、 つまり久保田と同様、経済的には人一倍 自立していたことがわかります。

 つまり東北地方、すくなくとも秋田には被差別とされる人たちはいたが、しかし、 彼らは 迫害的なことはあまりされておらず、割といい暮らしをしていた、と。そういう点では、 社会問題となるほどの差別はなかった、ということはいえそうです。 被差別とされる身分の人はいたが、問題とすべきほどの差別はなかった、という感じでしょうか。

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[私見] でも何故、社会問題化しないの?

 『東遊雑記』を読んでいて感じるのが、(とくに秋田の)人々の態度のひどさ、です。 幕府の巡見使ということで、お殿様もその扱いに気をもんでしまうほどの相手のはずなんですけど。 秋田の人たちといえば‥

世の中は、何国もさして勝劣なきことにおもいしが、この辺にては御領分よりさし出さるる足軽、 御巡見使の御前に立ち、「下におれ」と大声に呼ばわるといえども、裸身にているもあり、手ばかりを つきて尻を立てしもあり、家の内にては足を投げ出して寝ておるもありて、尊きを敬せるということは 生まれながらにして知らぬ体なり。(p.80a)
目の前で「下に!」と言われると、さすがに地面に手をつくものの(でも尻を立てて‥って、逆に 疲れそうですけどね)、ちょっと離れたところ、家の中などでは足を投げ出して寝てる、それが 道からは丸見えだけど気にしてない、そんな感じのようですよね。しかも‥
秋田よりこの辺までの人気は至って悪しきこと多し。俗にいえる空拝みという風にて、面前にては頭をさげ敬せる風ありて、陰にては舌を出して笑うようの心と見えぬ。十四、五歳の給仕人にてそれに習い、足軽・中間に見付けられて呵られしことなり。(p.108a)
これは秋田を抜けた後、津軽半島の先っぽのほうに到達したあたりで書かれたものですけど。 秋田から津軽にかけての奴らは、幕府ご公儀のご使者に対しても、一応敬意を示すポーズは取るものの、 ぜんぜん心がこもってないのがミエミエだと古川は言ってます。

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「高貴」の概念が希薄?

 この理由について。古川はこのように述べています:

「御領主のよしあしにて、下じもの風俗大いに違うことにて、 これまでの道中筋、御領主政事正しくて御身上よき御領分は、風土あしき所にも何となしに 百姓の風俗もよし。御領主政事正しからず、御身上もあしき領内は百姓の体あしく、下民上をあなどり 役人をそしることなり」(p.76b)
つまり殿様がダメだから、下々が身分の上下の感覚を失っているのだ、と。たしかにこの時期の 秋田六郡は、18世紀に入った頃から この時期まで、当主に恵まれていなかったのかなー、と 思わないこともありません。ほぼこの時期に当主に就任したばかりの9代義和公は後に 「中興の名君」と呼ばれることになりますけど、その直前の時期の話ですから‥。

 しかし。それってつまり「『上』の人間が、世の中をちゃんと回してくれている間は、 その仕事に免じて一目置いてやる。世の中が悪くなるようなら、そんな世の中にした 『上』の人間など認めない」ということですよね。『上』の人間を尊敬するかどうかは、 その人の血筋で決めるのではなく、その人の行いによって決める、と。 血筋で『上』かどうかを決めるんであれば、それがたとえどれほど暗君であろうと、 皆は敬服してくれるはずです。それを考えると、やはり、東北の人たちには、 「血筋によって完全なる線引きをしてしまう」という発想は馴染まなかった ということでしょうか。京に近い備中国(岡山県)出身の古川からすれば、 そのへんはもう本当に「夷人なり」の言葉に尽きてしまう感じでしょうね。

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「高貴」の概念が希薄な理由

 でも。じゃあ、なんで東北地方では「血筋によって完全なる線引きをしてしまう」発想が あまり馴染まなかったんでしょうか。私はこう思います。

身近に「高貴」とされる人がほとんどいなかったから。
京都とか行くと「なんとか天皇ゆかりの‥」とかいう社寺がムチャクチャ多いじゃないですか。 それ以外にも摂関家とか、将軍とか、さまざまな「この世をきわめた高貴な人」関連の物件 ばかりです。 京都の庶民は、そういう「高貴な人」ゆかりの物件に囲まれて暮らしているわけですから、 そういう「高貴な人たち」に対する感覚、つまり「身分制」という社会制度について、 生まれたときから自然と慣れ親しまざるを得ない状況なわけです。

 それに対する東北地方はどうかといえば。幸か不幸か、高貴な人たちが密集する京都から ずいぶん離れていることもあって、単純に血筋によって「高貴」認定されるほどの人、また その人ゆかりの施設がほとんど存在していません。そういう存在がいたとすれば、 江戸時代の「お殿様」くらい。なので東北の人たちにとって「血筋のみによる高貴さ」 というのは 概念としては理解できなくもないがピンとこない、というのが正直な印象では ないでしょうか。

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逆に言えば「卑賤」の概念も希薄?

 そして。身分が高いとされる人に対する(合理的な理由のない)畏敬の心の欠如は、たぶん その逆、身分が低いとされる人に対する(合理的な理由のない)見下しの心の欠如に 結びつくんではないでしょうか。「昔からそうだから」というだけの理由で、 偉ぶってる人は認めない、そのかわり、同様の理由で、不当に相手を見下さない。 ‥‥なんて書くと、聞こえはいいですけど。でも、そういう意味での差別については 意識は希薄だったかもしれないですけど、「いじめ」に類することは当然あったみたいで、 古川はこんなことを書いてます:

荷物をかき荷う人足、一荷に五人も七人もかかることなり。中にも強き人足は弱き人足ばかりに 持たせて、強きものは大将顔して呵りまわりて荷物を持たざれども、弱き人足のもの是非なく 重きをかつぐ体なり。(p.88ab)
‥力の強い人足は仕事をせず怒鳴ってばかり、荷物運びは弱い人足がやっている。‥‥ いわゆる差別問題よりも、もっと子どもじみて情けない上下関係ですね。 というか、幕府の巡見使ご一行が見てるときくらい、仕事するフリしたらいいのに‥。 おまえは小学生か! とツッコミたくなるレベルなのにはちょっと あきれてしまいます。

[余談] ネットでたまたま見つけましたが、北朝鮮における「突撃隊」なるものが、 ここで紹介した「荷物運びは弱い人足がやっている」と同じようなもので、 それを国ぐるみで行ってるみたいです。さすがというか何というか‥

北朝鮮では中学校卒業者の中から「もっとも出身成分(身分)が低く、身体条件が劣弱な学生たち」は、男女構わず(男女の比率がほぼ5:5だとか)、強制に「突撃隊」として服務するとのことです。

実際、突撃隊として服務した脱北者たちによると、その服務期間は10年。ほぼ毎日朝5時~夜10時まで働きます。彼らは、事実上の兵隊のように管理され、主に建設現場など肉体労働に投入されますが、賃金はもらえません。その数は、約40万人。 [ 北朝鮮の「突撃隊」(2016/10/11) :: シンシアリーのブログ ]
‥ひえー。


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