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[地名メモ] 宮城県仙台市青葉区 川内追廻

題 [地名メモ] 宮城県仙台市青葉区 川内追廻
日付 2013.11



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明治時代、誰も住んでなかった

川内追廻地区は、江戸時代は伊達家家老の片倉家の仙台屋敷と、 その奥は広場になっていて 文字通り追馬場・厩舎などがあったようです。

 明治維新の後は陸軍の所有となり、練兵場となっています。 1938(昭和13)年の地図を見てみると、現在の川内追廻一帯は「追回シ練兵場」、 その奥に「射的場」とあるだけで、昭和20年、太平洋戦争終了までの頃は、 (2000年頃に)人々が住んでいたあたりには 住宅は一軒もないようだ、ということが わかります。

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戦争直後の仮設住宅

 では、いつ頃から川内追廻に人が住むようになったのか。 このへんについて Wikipedia にはこう書かれています:

戦後、住宅営団により仙台空襲で焼け出された市民や引揚者の仮設住宅が建設される。 [Wikipedia:川内追廻]
1945(昭和20)年からですね。敗戦直後、住む場所がない人たちのため、 追廻の陸軍練兵場跡地に仮設住宅を建設したと。そこから話が始まるみたいです。

 このあたりの展開については、菊地1976にも‥

川内の追廻は旧藩時代の追馬場で、当時藩の士卒等が馬を乗廻した場所で ある。昔は川内の片倉小十郎屋敷の南に続く一円の広場で、馬場の傍には 北・中・南の藩営三厩舎を始め、御馬乗御前口取・並口取・爪切など 馬事馬政に関する諸役諸職の家々が立ち並んでいた。そしてここに数百頭の 馬が飼育され、藩内の士卒等が集り来って乗馬法はもとより騎射・打球等の 諸技を練磨したのである。
 この追廻馬場は仙台三馬場の一つで、桜馬場と表馬場とがあり、馬場の 西方に最近まで数本の桜樹のあったのは、昔の桜馬場の名残であった。 仙台の三馬場と呼ばれたのは、追廻馬場、伊達安房屋敷前の馬場及び 石川大和屋敷脇の馬場であった。明治維新後は、陸軍の射撃場及び練兵場 として使用されていたが、終戦後は追廻住宅として戦災者や引揚げ者等の ため住宅地として臨時に使用されている。 (菊地勝之助(1976)『修正増補 仙台地名考』宝文堂, p.97)
このように述べています。ここにも 「住宅地として臨時に使用」と書かれていますけど。しかし、どうやら それは「仙台市側の一方的な言い分」ということになるんでしょうか‥

 なぜなら。この仮設住宅をめぐって住民と仙台市が大モメとなってしまうからです。 その詳細は正直私もよくわかっていないんですけど。どうやら 住宅を提供した当事者である「住宅営団」が1946(昭和21)年にGHQによって 強制的に解散させられてしまったのが大きかったみたいです。 つまり、その解散後に団地の管理主体が仙台市に移ったんだろうと思うんですけど、 でも営団と住民たちが具体的にどのような契約をかわしたのかを 仙台市は把握していなかった、そういうことなんでしょうね。

 仙台市としては もともと仮設住宅のつもりだったから、 そのうち住民はいなくなるはず → 余計なインフラを整備しても近々ムダになるから整備しない、と。 住民としては「いや、俺はこの家をカネだして買ったんだから!」と。‥‥ そんな感じで住民と行政が真っ向から対立してしまって、 しかも公共インフラも整備されない。このへんのことにより、 川内追廻地区には 他の地区にはない、 なんか一種特殊なムードが生じてしまったのは事実だと思います。

 そんな中、2013年現在の段階では かなりのお宅が立ち退きに同意したみたいで、 かなり空地が目立ってきています。立ち退いた元住民の人たちの多くは、 心おだやかでない人たちも多いとは思いますけど、とりあえず 行政と住民のあいだのイザコザが解消されたことは良かったと思います。

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[余談] 動物園になっていたかも

1936(昭和11)年4月、評定河原に仙台市初の動物園が誕生します。しかしこの動物園は 戦争による社会情勢の悪化により 1944(昭和19)年に閉鎖および動物の殺処分、 そして1945(昭和20)年には空襲で焼失してしまいます。

 戦後、動物園が復活したのは1957(昭和32)年の三居沢の「子供動物園」。 しかしここは敷地が狭く、はやくも1961(昭和36)年には、子どもたちから 「もっと広い動物園にしてほしい」との声が出たみたいです。当時の島野市長が この声に答えるべく、新動物園構想を立ち上げるんですけど。

 さて、新しい動物園の候補地は三カ所ありました。 ひとつは、川内の追廻住宅のところです。かつて陸軍 の練兵場があり、終戦後は戦災で家を焼失した市民に 仮設住宅を建てて提供していました。あとのふたつは 八木山でした。この中で、環境、広さ、値段と三拍子 そろったところが今の場所でした。せちがらい時代に、 土地の所有者紅久株式会社が結果的には十五町歩の土 地を無償で市に寄付したからです。 (石澤友隆(2000)『八木山物語』河北新報社, p.157b)
1961(昭和36)年の動物園移転構想の候補地にあがっていたというのはつまり、 当時、仙台市は「追廻の仮設住宅の土地は、そのうち空く」と 考えていたということですよね。‥‥んー。ものすごく早い時期から、 市側と住民側のあいだで「ボタンの かけちがえ」があったんですね。

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[ふろく] 仲ノ瀬橋?

川内追廻近くの橋といえば「大橋」ですけど。その一つ上流にあるのが 仲ノ瀬橋。たぶんその仲ノ瀬橋1950年頃の写真らしきものを 紹介しているサイトがあったので、紹介しておきます。 [ 水害で橋が流された後、粗末な仮橋を渡った (広瀬川の記憶 1) ] です。 現在の 巨大な仲ノ瀬橋と比べると、なかなか‥。


関連(?)情報

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