長いこと秋田の人たちに恵みを与えつつ、洪水の被害も与え続けてきた 暴れ川・雄物川。
雄物川をいかにコントロールするか。これについては17世紀、 藩主佐竹氏の家老であった梅津氏による治水事業があり、 これにより四ツ小屋・仁井田地区については それなりに効果があったように 思われます。 (関連: [ 大野村の1696年 ] )
しかし。それよりも下流、茨島とか川尻のあたりについては、 当時はほとんど手付かずのまま。20世紀になってからようやく着手された 雄物川改修工事(1917(大正6)〜1938(昭和13))と、その最大の成果である 雄物川放水路の完成(1938(昭和13))、それによってようやく 下流でも(日常的な)洪水の恐怖からようやく解放された、そんな感じになる訳ですけど。 (関連: [ 雄物川放水路とふるさと秋田の発展 (秋田河川国道事務所) ] )
その20世紀の大工事が行われる前はどういう状況だったの? について、 なんか情報を見つけたらここにメモしていきたいと思います。
[Table of Contents]大正末年の川 尻村の川は、現在のように治水工事によってコントロールされ ておらず、大きく異なった、でっかい顔つきをしていた。
川尻村の川とはもちろん雄物川であるが、この大河に注ぐ二 つの支流、つまり旭川と太平川が川口のあたりで大きく中洲を 作ってそれに合流していた。人工の手がほとんど加えられてい なかった当時の雄物川は、人間の力ではどうにもならないほど 毎年のように暴れまわり、洪水をくり返していた。梅雨の末期 や真夏の頃に上流の雄勝、平鹿、仙北の雨を集めて大水が襲っ てくると、人々はこれを「仙北水」がやって来たといって怖ろ しがった。茨島の一帯では、毎年のように、どこまでが川でど こからが陸地なのか分からないほどのはんらんがくり返された。 てっとり早くいえば、茨島は大河の河口に大自然が作り出した 巨大な池(遊水池)で、洪水を大自然が調節する役目を果たし ていた。「仙北水」がやってくると、人々は耕作していた田畑 を呆然と眺めているだけだった。現在の柳原新田から開(ひら き)の一帯などでは、八月の出穂の時期に冠水すると、穂は水 をかぶり枯れたようになり、稲はよく稔らなかった。
「仙北水」は茨島から牛島にかけて水で埋め尽くしたばかり ではない。水は旭川と太平川に逆流し、泥水は楢山を水びたし にした。楢山のケツヒタシである。 (『村から市へ 川尻村秋田市合併70周年記念誌』1996, p.20)
毎年のようにやってきて一帯を水びたしにする、おそろしい「仙北水」。 この被害がどの程度のものだったかが それなりにわかる資料がありました。 『村から市へ』p.21 に紹介されている写真です。
ここには、こうあります。![]()
「(明治四十三年九月四日大洪水) 南秋田川尻村上野畷ヨリ秋田市馬喰町方面ヲ望ム」おそらく現在の高清水醸造元・蓮入院のあたりから、 ジェイマルエー旭南店・旭南小学校のあたりを撮影した写真と思われます。 完全に水没してますね。これだと寺町のへんまで水没しててもおかしくないですよね。 楢山のあたりも完全に水没したようです。‥恐ろしい‥ (ちなみに。 [ 雄物川放水路ができるまで ] のページを見ると、どうやらこの1910(明治43)年の大洪水が 20世紀の「雄物川改修工事」の直接的契機となったように思えます。)
(つづく ?!)