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『大野の撫斬』

元禄九年、出羽国河辺郡二井田村支村大野邑にて起こりし惨劇につき。


[前] はじめに

大野村の1696年

 撫斬事件の話をはじめる前に。 撫斬事件が起こったその時期(1696(元禄9)年)の、その地域がどういう状況だったかについて 簡単に紹介するところから話を始めたい。

[Table of Contents]

暴れ川、雄物川(1616年まで)

 戦国の世が終わって江戸時代、太平の世となって約100年。仁井田地区に関して言えば、 じつは重要な節目となっていた時期である。仁井田は雄物川下流域に位置する村であるが、 雄物川は所謂「暴れ川」であり、石見川合流地点、すなわち今の四ツ小屋より下流の地域は‥

蛇行が著しく暴れ川そのものだった。かつて仁井田は雄物川が数年ごとに氾濫し、そのたびに川の流れが変わる沼地、低湿地であった。 (400年の歴史…仁井田堰と新田開発(1))
つまり 仁井田を含めた雄物川下流域一帯は地形の高低差も少なく、それゆえ すぐ川が氾濫して洪水になるため、ろくに人も住めないし耕作もできない‥。 それゆえ江戸時代に入った直後の頃の様子といえば‥
仁井田、四ツ小屋、牛島一帯は、荒漠たる原野で、わずかに大野、仁井田部落あたりに三々五々農家が点在しているに過ぎなかった (400年の歴史…仁井田堰と新田開発(1))
ほんのちょっとの地形の高低差などにより、雄物川の流域にならずに済んだ場所が ところどころにあり、 そこに農家が点在していた、そんな状況だったらしい[*1]

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雄物川との戦い(1616〜1695年)

 そこで。雄物川下流域の治水および利水をおこない、この地域一帯を開発することになったのが 佐竹家の家老であった「主家梅津氏」。 1616(元和2)年から雄物川の治水工事に着手し、なんとそれから4代にわたって 治水事業を続け、その一大プロジェクトが完工したのが1695(元禄8)年。 つまり、この撫斬事件の前年である(参考: 400年の歴史…仁井田堰と新田開発(1) [URL]。現在、雄物川は四ツ小屋から新屋のあたりにかけて ほぼ真っすぐに流れるようになっているが、 それはこの当時の大土木工事の成果の一部らしい(相場1981,p.23)[*2]

(それはそうと。「主家梅津氏」の初代・梅津憲忠公が雄物川の治水工事に着手したのは1616(元和2)年だけど、 その2年前の1614(慶長19)年11月には 「大坂冬の陣」[Wikipedia]「今福の戦い」[Wikipedia]で獅子奮迅の活躍をして 「佐竹の黄鬼」という異名で呼ばれた [URL] [Wikipedia]ほどだったらしい。なんたる文武両道!(^o^))

 なお、それよりさらに下流域にあたる茨島、新屋、川尻臨海地区(現・秋田運河の近辺)の治水・大土木工事については、 なんと20世紀、1938(昭和13)年の雄物川放水路の完成 [URL]まで続けられた(放水路の風景)。 この放水路完成によって雄物川が洪水を起こす確率がグッと下がったため、 人々は洪水の不安からようやく解放されたのである。 雄物川って、それほど すごい暴れ川だったということ。 (関連: [ [memo] 20世紀初頭の雄物川下流事情 ] )

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治水工事が終わった頃(1696年)

 菅江真澄が1800年頃に描いた『勝地臨毫 出羽国秋田郡5』(秋田県立図書館蔵,[DA]) 中の「大野ノ湖」の項、それにいろいろ情報を追加した図を右に紹介しておく(「湖」と書かれているが、 淡水のはずなので 現在の定義では「湖」ではないはず)。 事件が起こった1696年は大治水工事が終わったばかりの頃なので、 これよりも民家や田圃は少なかったと思われるが、おそらくこれとほぼ同様の風景が広がっていたであろう。

 上記のとおり、撫斬事件が起こったのは雄物川治水という大プロジェクトが完工した直後。 それによって仁井田地区の開墾が進み、仁井田地域一帯がぐんぐん発展しつつあった、そんな時期。 おそらく主家梅津氏と領民たちとの間に かなり深い「思うこと」があったであろう時期に起こっている。 つまり。主家梅津氏に対しては「梅津様には足を向けて寝られない」という雰囲気が あっても当然のように思われるが、 その下についていた武士の人たちとは 実際に顔を合わせることも多かったのではないか? それで いろいろ溜まっていることもあったのではないか? ‥このへんのことは、無論、わからないが、あってもおかしくない話ではある。 いずれにせよ、そんな時期の話。

*註1
大野、仁井田以外の地域が、治水・開拓事業以前はどうだったかという点について。 四ツ小屋については、その由来が 「四ツ小屋という地名は、寛文12年開墾の目的で雄物川の川岸にあった4戸の農家が移住したことからその名が付いた」[URL]とあり (寛文12年=1672年)、つまり、17世紀後半に入るまではほぼ無人の原野だったことがわかります。 そしてその移住から約60年後の1730(享保15)年「六郡郡邑記」(『秋田叢書2』[NDL] p.90;コマ59)には 「四十一軒」とあります。ちなみに大野村は「廿二軒」とあります。‥江戸期以前から集落があった大野村、新興の四ツ小屋村に すでに抜かれてる(^_^; というか、四ツ小屋村、発展早い‥。そしてさらに この四ツ小屋一帯を発展させたのが高橋武左衛門(平鹿郡下境出身)という人で、1783(天明3)年に藩命で 四ツ小屋地域を検田し、続いて御野場一帯の開拓事業を始めて、その結果 19世紀初めに 四ツ小屋一帯はさらに発展したようです。むむむ
*註2
約100年かかったと言われる治水・利水の大事業ですけど。なんで100年もかかったかといえば‥
「仁井田堰の資料によれば、資金を蓄えるためと記されている」 [URL]
つまり。事業資金の調達がうまくいかなかった時期があり、それで工事が思うように進まなかった という事情はあったようです。雄物川の流域変更そのものについては 「わずか3年足らずで完成させ」[URL]と書かれています。早ッ!
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