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[仏説地蔵菩薩発心因縁十王経 (発心因縁十王経、地蔵十王経)]

地蔵十王経について

成都府大聖慈恩寺沙門蔵川述
『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』(12世紀?)
(発心因縁十王経、地蔵十王経)

に関する「めも」です。


 

かんたんな、しょうかい。

人は死んだらどうなるのか。

 ‥本当のところは、よくわかりません。でも昔の人は、こう考えることが多かったみたいです。 肉体と魂が分離して、魂がどこかに移動する、と。 そしてその魂は 身体から離れて、どこに行くのか。 これは地域や時代、人ごとに考え方が違います。

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仏教の死後観

 仏教はどうだったか。一口に仏教といっても、その考え方は地域や時代ごとにバラバラで、 「仏教では、こうだったみたいだよ」と簡単に一口で説明することはできません。 たぶん基本は輪廻思想だとは思うんですけど。しかし、たとえば先祖供養を主目的とする 「お盆」行事 [URL]は輪廻思想とは合わないですから、そんな行事を昔から ずーっと続けている日本人は 輪廻思想を(知識としては知っているものの)信じていたとはとても言えないでしょう[*1]。 そして、そんな感じに いろいろある考え方の一つに「十王信仰」というのがあります。

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十王信仰

 十王信仰については、たぶんそれが大きく発展したのは10世紀くらいの中国で、 その起源については中国で当時盛んだった道教の影響か、あるいは大穴として ペルシャ(イラン)のゾロアスター教あたりが起源になっているかも、と述べる人もいますが、 このあたりの詳細については たぶんもうわからないままだと思います。 そして、10世紀頃に中国で盛んになっていた十王信仰が日本に入ってきたのは たぶん12世紀頃。平安時代の後期から末期の頃ですよね。 それが日本における十王信仰のスタートになります。

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冥途と追善

 十王信仰とは。人は亡くなると どこか別の世界(死天山?)に行き、そこで 寒さと渇きと飢えに苦しみながら七週間(七七日)以上、たぶん三年(三回忌)のあいだ、 その別世界にいる「王」たちのもとを歩いて廻り、それぞれの王宮で 生前した行為についての裁きを受ける。‥と、そういう死後世界に関する想定が前提となります。 なかでも最大のポイントが五番目(五七日)に待ち受ける閻魔大王で、 そこで 同生神、浄頗梨鏡などにより 生前の行為が綿密にチェックされるという エピソードは割と有名みたいです。

 そしてこの判決の際に、もし遺族による「追善供養」があれば、 判決の結果が良くなることが言われています[7:太山王]:

「我々の 遺した財産 けちらずに 追善作善 我を助けろ」
つまり十王信仰とは、死者たちが死後体験するとされる苦難についての設定を受け入れ、 その苦難を和らげるために 遺族は必要な対処(追善供養)をすべき、とする信仰体系です。

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十人の王たち

 ここで出てくる「十王」ですけど。はっきり言ってしまうと、初期のものに ついては、それぞれの王はキャラ立ちしていません。ほとんど名前だけで、 それぞれが何をする王なのか、どういう姿なのか、性格は‥など、とにかく 個人情報的なものに関する説明が ほとんどありません。ビックリするほどです。 たとえば中国産の『預修十王経』の十王。 なので本ページでは、このそれぞれの王について個別に紹介することは できません。 王の順番と、名前の一覧をつけることくらいですね[URL]、できるの‥。

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十人の仏たち

 あと、それぞれの王には「本地仏」というのが付けられています。 「本地仏」とは何かといえば、要するに「正体」です。「初江王の本地仏は釈迦如来」はつまり、 「初江王とは(あの)世をしのぶ仮の姿。本当のお姿は釈迦如来」という意味になります。

 この「本地仏」の設定もやはり十王信仰の最初期になかったものが、いつの頃からか 各王に割り当てられるようになったものです。このことは 中国産の『預修十王経』(11世紀?)には 「本地仏」は全然出てこないのに 日本国産(?)の『地蔵十王経』(12世紀?)だと 「本地仏」が割り振られていることから確認できます。

 しかも『地蔵十王経』を見るかぎりでは、 それぞれの本地仏は ほとんど名前しか登場しておらず、 この十王世界でそれぞれの仏たちがどういう役割なのかとか、 そういう種類のことも全然わかりません。名前がよく知られた仏とか菩薩とか明王とかを 思いつきで並べたようにしか見えない感じです。

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十王信仰のその後

 ちなみに十王信仰の発展形態をまとめるとこんな感じっぽいです:

  • 「十王たち」の信仰ができる。この段階で日本に。
  • 十王それぞれに「本地仏」が割り当てられる (日本のみ?)
  • 王たちの影が薄くなり、本地仏たちに注目が集まって「十仏信仰」ぽくなる
  • 「十仏」が拡張されて「十三仏」になる。これが室町から江戸期?、そして現在に至る
やっぱり本地仏がつくと 十王よりも仏様のほうに注目が行ってしまうみたいで、 それゆえ今では完全に「十三仏信仰」として伝わっていますよね。 十王はたぶん昔も今も、ムチャムチャ影が薄いままです。

(概略おしまい)


 なお、どうでもいいことですけど。なんか「五道転輪王」などの検索語でこのページに 来る人が結講いるみたいで、それがちょっと不思議だったんですけど。 ‥‥念のために書いておくと、本ページは江口夏実さん作「鬼灯の冷徹」というマンガ・アニメとは 一切関係ないですので、お間違えなきよう、お願いします。(まあ、そんなことわざわざ 書かなくても、勘違いする人はいないとは思いますが、念のため‥)

*註1
だって輪廻思想に従うかぎり、「ご先祖様」は一定期間を過ぎるともう生まれ変わって 別の生命を生きるわけですから、ご先祖様に手を合わせても そこには誰もいないはずですから。 というか輪廻思想に従えば、我々も ひょっとしたらお盆とかお彼岸に まったく見知らぬ人たちに 墓掃除されて供物あげられて合掌されている可能性もある訳ですから‥。 つまり「ご先祖様」に手を合わせる世界観というのは「ご先祖様は輪廻しない」ことを 前提とした世界観になっているという訳です。
 では実のところ、大多数の日本人はどのような「あの世」観を持っているのでしょうか。 これについて以下のような記述を見つけました:
1997年の夏、山梨県道志村に四日間滞在して数人の人に話を聞く機会があった。葬儀 の仕方や先祖の記憶などははっきりしているのに、死後の世界のイメージについての質問には、 あまりはっきりした答えが帰ってこなかった。 ‥(略)‥ I.Mさんは ‥(略)‥ 死んだらどうなるかなんてわからないと断言した。 ‥(略)‥ あとはお迎えが来るのを待つだけだというが、 夫がいるあの世がどんなところかなんて考えたこともないという。 じゃ、お迎えが来てあっちへ行ったらご主人が待っているかな、と尋ねると、 そんなことわかるもんじゃない、一体どこで待ち合わせられるんだ、 と逆に問い返されてしまった。地獄も極楽も、そんなもんわかりゃしないというのである。 ‥(略)‥ 死者はどんなところにいるのかは知らない。 しかし、毎年お盆には家に帰ってくるというのが、 伝統的な死者と先祖についての考え方のようである。 (新谷尚紀(1997)「あいまいな日本人の「あの世」」『季刊仏教41来世の探求』,pp.40-41)
たぶん この「あの世」観というのは、私自身や、私の周囲の人たちがもつ「あの世」観と 非常にピッタリ来るのではないでしょうか。仏壇なのか、墓なのか、山の向こうなのか、 地獄の釜の中なのか‥「何となく、そのへんのどこかだよね」という感じですよね。
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