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中国古典にみる外道ども

中国古典にみる「外道」の用例です。といいながらインドとの区別は曖昧‥


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はじめに

中国での「外道」についてですけど、調査がまだ全然及んでいないのですが。 とりあえず、状況はいろいろ複雑みたいです。 とりあえず儒教についてのみ。(道教については、まだ全く手つかずなので‥)

儒教

 中国における仏教以外のメジャーな宗教(?)として挙がるのは、やはり儒教でしょう。

 仏教の「戒」と儒教の「礼」との関係をどう捉えるか。これが似ている、あるいは、 ほとんど一緒じゃないか‥と考えると、中国に太古より伝わる儒教は仏教に近いものと 解釈され得ます。そういう立場からは儒教は「外道」呼ばわりされない訳ですが。 他方、仏教と儒教は全然違うじゃん、という話になると儒教は一転「外道」呼ばわりされる 可能性が出てくる訳です。速水1961は、大屋徳城『寧楽仏教史論』を援用しながら、 このあたりの状況について以下のように紹介しています:

すでに聖徳太子『十七条憲法』には「篤敬三宝」という仏教思想の一面、「以礼為本」などの儒教的条文も見られ、 「仏儒併行」の精神がその基調をなしているが、これが進むと単に併行に止まらず、「仏儒帰一」を企てるようになる。 かかる仏儒帰一の思想は当然大陸にまず興った。礼と戒の帰一を図る思想が東晋時代から芽生えていたことはすでに 述べたが、北斉・北周から隋代に生きた顔之推はその代表者であり、「内外両教本為一体、漸極為異深浅不同」として いる。ところがこうした思想は、六朝・隋朝に盛んだったにもかかわらず、唐代においてはむしろ衰え、三論、法相、 律、華厳などの諸派は、儒教を無因・邪因の外道と貶したという。 速水侑(1961)「律令社会における弥勒信仰の受容」 (宮田登編(1984)『弥勒信仰』, p.120.)(オリジナルは『南都仏教』10)
隋代(〜7c)までは「内外両教本為一体」、つまり内教(仏教)と外教(儒教)は もとは一体だった、と。 唐代(7c〜)になると一転、儒教は「無因・邪因の外道」に転落してしまった、と。 詳しい状況がよくわからないのでアレですが、だいたいこんな感じなんでしょうか:
  • 中国に仏教が流入してきたとき。中国人もやはり 「仏儒帰一」、つまり両者を一緒にできないかと考えた (南北朝時代、隋まで)
  • 唐代に入って仏教が盛んになると「仏教の正しい理解」が重視され、 儒教は仏教とは違う との意識が高まり、儒教は「無因・邪因の外道」視され貶された。
なお。速水1961では、それに続いて日本での状況が語られています。日本では中国の隋代までの 流れ、つまり仏儒帰一な考えが、聖徳太子から奈良期、のみならず院政期(平安時代)までも 続いていると述べています。その理由として、日本の支配体制は 「儒教による官僚制」と「鎮護国家仏教」の両立を 強く望んでいたから、 だから儒教と仏教のどちらを切ることもできなかったから、だそうです。

 さらに曰 「儒道二教を排した空海さえ、五戒と五常は「名異義融」としているが、それは大 屋氏の説かれるごとく「これ唯当時の大勢に順応したもの」であるとともに、 律令国家のかかる思想への接近なくして 新仏教の勢力拡大が不可能であったことを示しているともいえるであろう。(p.121)」 ‥つまり。弘法大師空海も 自身は儒教と道教を否定していたものの、 彼自身がめざす「新しい仏教」を広げるための妥協策として、 「儒教の『五常』(仁義礼智信)は仏教の『五戒』と同様に大事だ」と心にもないことを 説いていたくらいだ、と。それほど平安初期の日本では儒教的価値観は 必要とされていたのだ、と。

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