[前] 蒲松齢『聊斎志異』(17c)に見る道士とその敵対者 |
清代の大詩人だったらしい袁枚という人が18世紀後半に著した『子不語』という本があるんですが、 その続編がここで取り上げる『続子不語』です。 『子不語』はかなり有名な書物で、あちこちから翻訳が出ていますけど、 一緒に『続子不語』も翻訳されてるのか? というのは、正直よくわからないです。
んで、この書物の中に「外道」が出てくるのです。
[Table of Contents]申し訳ないことに、孫引きなんですけど。ある本の中にこう書かれているのを見つけました。
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これはつまり「普通の中国人は、大詩人といえども、チベット僧を見たことがない。しかし、 かなり尾ひれがついた噂として、何やら怪しげな術を身につけた あやしい者たちだ、という 印象を 勝手に持っている」ということが言えそうですよね。 そして、あろうことか(罵倒の意図もないのに)「投灰外道」と彼らを呼んでいます。 チベット僧を仏教僧だとは思ってなかったということなんでしょうか。そのへんの 詳しいところはちょっとわからないのでアレですけど。
ちなみに、同じ『続子不語』には「西蔵有僧二人来滇」 (チベットから二人の僧が雲南にやって来た) (巻八 番僧化鶴) (黒田真美子・福田素子(2008)『閲微草堂筆記・子不語・続子不語<清代III>』(中国古典小説選11), 明治書院. pp.391--392.) という表現があります。この「西蔵有僧二人」というのと 「チベットの紅衣喇嘛」(原典は未見。チベットが「西蔵」なのかも不明)を、 同じものと理解してよいかどうかで ちょっとこの話は変わってきそうなんですけど。 でも正直、今のところ、私には そのへんはよくわかっていません。
[Table of Contents]でも、じゃあ、この「投灰外道」って何? というのが気になるじゃないですか。 そこでさっそく SAT大正新脩大藏經テキストデータベース [URL]で検索してみました。検索の結果見つかったのは、なんとたったの2例だけ。
「與先梵志裟毘迦羅所談冥諦。及投灰等諸外道種。説有眞我遍滿十方。有何差別。」 // (大雑把訳) さっき梵志の婆毘迦羅のところで仰せであった冥諦、 そして投灰など外道どもの真我遍満十方説。なにが違うのでしょう?
「投灰等即苦行外道。裸形披髮。鞭纒棘刺。五熱炙身也。」 // (大雑把訳)「投灰等」とは、つまり苦行外道のこと。 全裸で、ボサボサの髪型で、鞭を身につけ、棘を刺し、五熱で身体を炙るものなり。
18世紀の中国人が、チベット僧を仏教僧とは思っておらず、それゆえ「外道」‥という可能性を、 いちおう考えることも可能とは思いますけど。 しかしたぶんチベット僧の話は、何というか、取って付けた感じの話なんだと思います。 つまり。 中国人にとってのチベット僧のステレオタイプなイメージというのが たぶん「なにやら不可解な妖術をもちいる、不思議な人たち」というのがたぶん最も大事で、 彼らなら 生き物の生死を自由に操る、そういう秘術を持ってても不思議じゃないよね? という 程度のことかな、と。
なのでここでの「外道」のポイントはたぶん、「投灰外道」とやらが行なうというその術の内容、 すなわち「生き物の生死を自由にコントロールできる秘術」、生死、 そのあたりが「外道」と繋がってるのかなー、と、 そういう気がしています。仏教かそれ以外かとか、「悪いヤツら」的な意味とは関係なしに。
このうち「悪いヤツら」に関して言えば。『子不語』の中に「世有妖僧悪道。借鬼神為口実、 誘人修斎打醮」(世の中には妖しげな僧や邪悪な道士がおって、鬼神の名を口実にして、 人々を惑わせ、物忌して祈禱させたりするのじゃ) (巻一 鄷都知県) (黒田真美子・福田素子(2008)『閲微草堂筆記・子不語・続子不語<清代III>』(中国古典小説選11), 明治書院. pp.190--191.) という風に、そういう目的のときには 「妖」とか「悪」とかいう語を使う例があるみたいですので、「外」を使った「外道」で 「悪いやつら」を表現したりはしないだろうな、というのは感じます。 ‥‥ただ、それ以外の点については、「なんとなく、そういう気がする」レベルを 出ない感じなのが、ちょっとアレですね‥。