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古典日本にみる外道ども

「外道」が日本においてどのように受容されてきたかを調査してみます。 すでに暴走の域に入ってしまってます (^_^;

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内科本道・外科外道

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外科は外道?!

たぶん江戸時代の用例で、どこまで遡れるのか見当つかない状況ではありますけど。

 お医者さん関連なんですけど。今でいう「内科」を当時は「本道」と称し、 今でいう「外科」を(本道と対比させるように?) 「外道」と呼ぶことがあったようです。

なお,腑分は医師ではなく,身分の低い者の担 当が常であった。またまれに行われる手術も「外道 (げどう)」と称し,本道(内科)の指示の下に実施さ れていた(110)。 (吉澤,高橋,北林,渡辺,福田,齊藤,片倉,金子,東京歯科大学の歴史・伝統を検証する会(2015) 医科歯科一元二元論の歴史的検証と現代的意義(1) 前史 -- 「医は賤業」からの脱皮と新時代への模索, 歯科学報 115(1): 51-70 [LINK]; p.62b.

ここでは典拠として以下:
  • (110) 梶田 昭:医学の歴史,pp.287-293, 講談社,東京2003.
これなる書籍が挙げられてます。ちょっと見てみたのですが、ここですかね:
『蘭学事始』によると、その日、小塚原での実際の解剖は、予定した「穢多の虎松」 が病気になり、その祖父「よはひ九十歳」という老屠(老解剖手)が行った。その老 屠がいわく、「ただいままで、腑分け(解剖)のたびに、その医師がたに品々をさし 示したれども、だれ一人、それは何、これは何々なりと疑はれ候御方もなかりし」。 (梶田昭(2003)『医学の歴史』講談社学術文庫, p.291.)
実際に執刀したのは穢多、つまり身分の低い人であったことはわかります (というか死体を実際に処理する職業というのは穢多の人らの専権事項だったんでしょうか。よく知りませんが‥)。 でも(本ページ的に肝心な)本道・外道の話は、探してみたのですが見当たりません。んー、空振りか‥。

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でも、なぜ外道? (妄想篇)

 でも、なぜ外科が「外道」なのか。いろいろ可能性はあると思います。

  • 今でも「外科」というように、体内からのアプローチではなく 体外からのアプローチだから「外からの道」ゆえに「外道」 (単なる区別)
  • 内科が「本道」、つまり正統的・保守本流的なアプローチなのに対し、 決して正統的ではない、あえて言うなら邪道なアプローチだから「外道」 (価値観が入ってきた)
  • 「邪道なアプローチ」と関係してそうですけど、上記引用によれば 「腑分は医師ではなく,身分の低い者の担当が常であった」んだそうです。 つまり外科的アプローチが邪道のみならず、そういう邪道的アプローチを 取る人たちも蔑視の対象となる人たちだった? (差別的な価値観が入ってきた)
  • 蔑視の対象という点では上記引用に 「本道(内科)の指示の下に実施されていた」とあり、何というか 「同心」と「目明し」の関係みたいなもんか? と思ってしまいますよね‥ (「邪道だから蔑視」ではなく、「汚れ役」なので低い身分の人らの仕事、と そもそも最初から決まってた?) (詳細は不明)
‥ と、こんな感じで いろいろな可能性を妄想してみるんですけど。 どこから話を進めたらよいか悩んでるところです。

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本道>外道だが、本道も身分的にはイマイチ

ちなみに。「外道」をおこなう人らの身分は かなり低かったのでは? と書きましたが、 江戸時代の「本道」の医者たちの地位はどんな感じか? というと以下:

江戸時代の人々は, 封建社会における固い束縛から脱するために,祿を 失った武士や家督を継げる可能性の乏しい次男,三 男,また町人の中からも,身分的拘束のない医者を 目指す者が多数現れるようになった(75,76)。
 徳川幕府になっても相変わらず無免許体制という 基盤が,それを可能にしたことはいうまでもない。 (吉澤等2015, p.54b)
こんな感じ、やりたい人が勝手に自称しても通るのが普通、と、 こんな感じだったみたいです。なので明治初期は「医師」でなく 「医士」だったとか、いろいろ紹介されてますけど、 いずれにせよ江戸時代の医者の地位は現在とはまったく違ってたのは 確かなようです。

 そして外道(外科)はその内科の医者たちに従属していた、と。んー。

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外科的な「外道」の起源は?

全然わかりません。 どうやら「太平記」(14世紀?)に「外道」ではなく「外科」と 書いた用例があるみたいで、今のところこれが日本における「外科」の初出かな?

「外科」の初出らしきものを いちおう紹介しておきます。以下:

四五日有(あつ)て後(のち)、足利左兵衛(さひやうゑの)督(かみ)の北方(きたのかた)、相労(あひいたは)る事有(あつ)て、和気(わけ)・丹波の両流の博士(はかせ)、本道・外科(ぐくわ)一代の名医数十人(すじふにん)被招請て脈を取(とら)せらるゝに、或(あるひ)は、「御労(おんいたは)り風より起(おこつ)て候へば、風を治(ぢ)する薬には、牛黄金虎丹(ごわうきんこたん)・辰沙天麻円(しんしやてんまゑん)を合(あは)せて御療治候べし。」と申す。 (太平記巻第二十五; 宮方(みやかたの)怨霊(をんりやう)会六本杉事(こと)付(つけたり)医師(いし)評定(ひやうぢやうの)事(こと) S2502. 太平記(国民文庫) [LINK]; [ 関連: [Wikisource]; [太平記 総目次] ]
[大雑把訳] それから4,5日の後、足利直義公の奥方の具合が悪くなり、和気・丹波の博士たち、本道・外科の名医数十人らが呼ばれました。脈を取らせたところ ある者は「風邪ですかね。牛黄金虎丹と辰沙天麻円をお飲みいただきましょう」と申します。

 ここでは「本道・外科の名医数十人ら」(大雑把訳)とされていて、 「外科は本道より劣る」という感じはあまりしないんですけど。‥というより、 ここでの「外道」って、本道(内科)以外の雑多な人たち、といった感じの 用例のような気もしてきますけど、でもじゃあ「内科」以外の人たちって どんな人たち? と考えてみると、実質いまの「外科」と似たような意味になるんでしょうか。

 そのへんのことは集合かけられた「本道・外科の名医数十人」がどんな診察をしたか 見ればわかるかな? とも思ったんですけど。 その後の医師たちの診察結果を見ると内科的な治療法の提案、 つまり薬の服用に関する話ばっかりで、 外科的な処方を言い出してる人が皆無ですね。 呼ばれはしても本道系以外の人らに発言権はなかったんですかね。 そういう点では やはり「本道以外の医者たちは全部添え物」という感じだったという ことでしょうか。 しかしそれ以上のことは用例が少ないので何とも。

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[余談] 本道でさえ「さかしら」

山折1996によれば、日本古来の「治療」について『玉の小櫛』巻2で 本居宣長はこう説明しているそうです。(以下、山折1996の現代語訳の引用):

『源氏物語』に登場する人物が病気になった場合、まず治療のために呼ばれるのは「験者」で あって、「薬師」ではない。験者(祈祷師)による病気直し、すなわち加持祈禱がもっぱら重要な 対応策とされ、医師による薬の調合、投薬は二の次、三の次のことであって、ほとんど問題にも されない。それというのも、病気になった場合、まずもって「神・仏」のしるし(効験)を仰ぎ、 験者の力をたのむことこそが、何となくおおらかな態度をあらわし「あはれ」な対処の仕方であ るからだ。それにたいして、「薬師」を呼んで薬を用いるなどということは「さかしだった」振 舞いで、みていて見苦しく、「あはれ」な治療とはとてもいえない。 (山折哲雄(1996)『近代日本人の宗教意識』岩波書店, pp.57--58.)
本道、つまりここでは薬師ですよね。その治療なんてものは「さかしら」(こざかしいこと)であり、 「あはれ」ではない、と。‥これはやはり、 当時は病気の重要な原因の一つに「もののけ」があると確信されていて、 それゆえ「病気治癒」と「もののけ退散」がほぼ同じことと考えられていて、それなら やっぱ神仏のご加護を受けることこそが最良、つまり「あはれ」であるということですよね。

 この「祈禱こそ あはれ」という考え方は、近代以前のことですから意外というより むしろ当然、とも思うんですけど。でも上にあげた「太平記」の例を見ると、 足利直義公の奥方の具合が悪くなったとき いきなり「本道・外科の名医数十人」が 呼ばれてるんですよね。んー。平安時代よりも「もののけ病原説」が衰退したんでしょうか。 でもじゃあ、かわりに何が(説得力ある)病原と考えられるようになったんでしょうか。 代案ないまま「もののけ病原説」が衰退したんでしょうか。んー、わからない‥。

(これより先の調査は 絶賛放置中^^;)