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古典日本にみる外道ども

「外道」が日本においてどのように受容されてきたかを調査してみます。 すでに暴走の域に入ってしまってます (^_^;

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はびあんの暴走

「仏法を信じぬ儂には罰が当たるはず、その証拠を見よ!‥と、 三部経、法華経などの経文を破り捨て、踏みにじり、鼻をかみ、 仏像に小便をかけたあとで座に戻り」‥このような はびあんの行為はまさに 暴走としか言えない感じのものなんですけど。

 これ、戦国時代のキリシタンたちにおいては割と普通に行われていた行動だったみたいですね。

キリシタン大名の領国では寺社の破壊や僧侶な ど仏教徒の迫害が公然と行われていたことは以前からよく知られていた。こうした仏教勢力への迫害 は、キリシタン大名の指示を受けたキリシタンの手によって、そして宣教師たちの容認ないし教唆の もとに行われていた。‥(略)‥ フロイスの『日本史』によると、大村純忠が隣領の伊佐早氏との抗争に勝利した時に、宣教 師ガスパル・コエリョは、「デウスの恩恵に報いる奉仕として、殿の領内からあらゆる偶像崇拝を根 絶するに優るものはないから、努力し領内に一人の異教徒も残らなくなるよう全力を尽くすべきであ る」と純忠に説いた(『日本史』第一部第一〇四章)。この少し後、宣教師の説教により人々は、まるで 宣教師が「寺を壊せ、偶像を焼け」と命じたかのように「偶像」を襲い、「偶像」とその家とを破壊 した(同上)。 (神田千里(2010)『宗教で読む戦国時代』講談社選書メチエ, pp.159--160)

日本の在来宗教を徹底的に破壊してキリスト教王国にするため! そのためにはあまり手段を選ばなかった様子が伺えます。ひどいなー(-_-)

 そして。この強引なキリシタンたちのやりかたは、当時の日本には合わなかったみたいです。何故なら 戦国期は「天道」なるものが重視されるようになってきていたらしいのですが。この「天道」について:

「天道」に適うためには神仏への信仰が不可欠となる。ところでここでいう「神仏」と は一体何であろうか。‥(略)‥ 戦国びとの書いたものには、単に「神仏」と書くものが一般的に多い。よほど宗教の 教義に詳しい専門家を除いては、かなり教養のあったはずの人々も「神仏」で済ませているようなの である。‥(略)‥ 日本の神仏をまるごと信仰し、崇拝することが「天道」に適う、というのが「天道」の観念の第二 の特徴であろう。 (神田2010, pp.58--59)
このような考え方が多くの人たちに広がっていたため、 信長や秀吉、また他の戦国大名たちにおいても宗教政策の基本は「諸宗派共存」であり、 異教徒への攻撃が激しすぎるキリスト教は そういう点で「空気よまない」存在であったようです。 (ちなみにこの「天道」というやつ、神田2010を読むかぎり、キリスト教のいう「デウス」と ずいぶん似た感じだなあ、と当時の日本の人たちも、宣教師たちも、思っていたようです。)

 そして。「空気よまない」キリスト教が既存の宗教勢力を攻撃し続けて勢力を伸ばし、 日本人たちの反感を買い続けた結果、 豊臣秀吉の時代ついに「伴天連追放令」(1587)が出てしまうわけですけど。

この追放令を素直に読む限り、それは教義の内容で はなく、仏教諸派への攻撃・迫害と信仰強制のことを言っているとしか考えようがない。すなわち、 キリスト教は「邪法」である、なぜなら仏教諸派を攻撃・迫害し、信仰を強制するからであり、 それは「神国」「日本」にはふさわしくないというのが秀吉の論理なのである。 (神田2010, p.157)
日本のあちこちでキリシタンたちが はびあん が行ったような暴走を 繰り返した結果、多くの日本人たちが「もうキリシタンはうんざり。出て行け」となり、 それが秀吉の追放令に行き着いた‥といった感じのようです。

まあキリシタンにとっては自業自得としか言いようがない展開ですよね。

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