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「切支丹宗門来朝実記」。
今回私が参照した 国書刊行会編纂(1907; 参照したのは1970(昭和45)版)『続々群書類従 12』国書刊行会. には以下:
文献の作成年については、いまいち よくわからないんですけど。 『続々群書類従』にあるテキストの末尾には 「永禄十一戊辰年より宝暦五年迄凡百八十八年」(p.569)とあり、 ここにある「宝暦五年」が作成年とすれば 1755 年。さらにその後に 「寛政元酉年黄鐘十七日写之」(p.569)とあり、 旧暦1789年11月17日(現在の暦だとたぶん翌1790年1月に相当)に 書写されたように書いてますから 1750〜1790年頃、年代的には18世紀後半ということに なるんだと思います。
[Table of Contents]この本の中に、京都南蛮寺の「はびやん」という名前の知事と、 かつて比叡山にいたが病気により還俗した白応居士との 宗教問答についての描写がありましたので、それを紹介します。
時代は秀吉公の御世。秀吉公にキリスト教好きになってもらって、 キリスト教の勢力をもっと強くしたい。--- そう考えた南蛮方は、 一人の男に目をつけます。男の名は中井半兵衛。秀吉公が たいそうお気に入りの大工であり、修理大夫との名をも持っていました。 この男をキリスト教に入れることができれば。 秀吉公も、そして天下の大工衆も皆キリスト教に近くなるにちがいない。 こう考えた はびやん は、修理大夫へ接近を計ります(p.561b)。 狙ったのは修理太夫の母親。偶然を装って親交を深め、キリスト教への 改宗を勧めます(p.562)。困った母親は、自分に仏法を教えてくれる 居士(これが白応居士)と問答してくれ、それに勝った方につきます、と答えます。 かくて舞台は整いました(p.563a)。 頃は天正十三(1585)年九月十三日。
[Table of Contents]先攻は、はびやん。デウス(伝宇須)様は未一物もなき時出世し、森羅万象を造られ‥と、 簡単にその世界観を紹介します(p.563b)。そして仏教への攻撃。阿弥陀も釈迦も人間じゃん、 人間に人間を救えるだって? 釈迦なんて家出した親不孝者じゃん! ‥など。そして 個人的に「おお!」と思ったのが次。
ちょっと、はびやん、やりすぎ‥。いくら改宗をせまるためとはいえ、 こういう暴力的なことをやると大抵の場合は 周囲の反感を買うだけで うまくいくはずのものも失敗しそうですけどね[*1]。
[Table of Contents]白応居士が反論します。そのデウスとやらは、わざわざ人間を作り出して、 人間の地獄行きを憐れんで、天国行きの用意をしてやる --- アホか。 人間なんて作らなきゃいいのに、それをわざわざ作って、その人間のために 苦労するなんて自業自得もいいとこだ。というか どの仏教書見ても デウスなんて書いてない。つまりそれって‥
やりすぎてしまった はびやん を逆に 「猫とか鼠とかの畜生と同類の外道」扱いにすることで、 言いくるめてます。この対決につきましては、 仏教がキリスト教に勝った! ‥のでなく、あくまで ちょっと勇み足がすぎた はびやん に、 沈着冷静な白応居士が勝った、と。 そういう感じになるかとは思いますけど。
ここのところ、はびやん のやりすぎの様子は、読んでててちょっと 反感を持ってしまいましたから、それをスマートな形で 白応居士が やりこめる様子というのは、なかなかの爽快感がありました。
[Table of Contents]さて。本書において「外道」はどんな感じで使われているでしょうか。
まず、ここで描かれている問答 --- いや、問答になってないですね。 はびやん は最初から仏法を見下していて、問答するのもバカバカしい、 一方的に自分の主張を言って、それが通らないと見るや サッサと帰ってしまってますから。この本の記述による限り、 この はびやん は相当に傲慢な態度で布教活動をしていたように思われます。 (‥けど、そんな態度で布教しても信者が増えていくはずないですから、たぶん、 切支丹を悪役にするため 事実よりもかなり悪人にして描写してるんだろうとは 思います。論拠ないですけど。)
その切支丹に対する本書の敵意がこの「外道」に込められているのは明らかですよね。 白応居士が実際にあのような言葉で、あのような問答をおこなったのか? というのは よくわからないですけど。とにかく本書では切支丹を「外道」として、その外道は
本当に猫や鼠などの畜生と同類と思ってるのか? --- となると、これはたぶん 典型的な「売り言葉に買い言葉」というやつで、 はびやん が あまりにも無謀なことをするから、それに反論する形で 必要以上に刺激的なことを言ってしまったという感じだと思います。 ‥だって猫や鼠と本当に同じと考えていたら、 そもそも論争なんて話にさえ ならないですから。 論争する気があったということはつまり「畜生も同じ」なんてことは 本当のところは思ってないということだと思います。
それよりも前者の「(外道は) 仏弟子等と問答する事度々、しかし論争では仏に負ける」というのが、 本書における「外道」の意味内容かな、と。そういう風に思います。 初期インド仏教文献で見ることができる、非常に素朴で原初的な意味で使われているのには ビックリです。
やはり実際に目の前に「外道」の言葉でしか表現できないような対論者(伴天連)が立った、 という舞台設定が大きかったんでしょうか。 「外道」という言葉のルネッサンス的な感じ? ‥でもこんな感じの復古的な「外道」の用例も、国内から伴天連の姿が消えてしまうと、 その伴天連の姿とともに消えてしまったんでしょうけど‥
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