Hinduism: Manu Smṛti
マヌ・スムリティの第2章を見てみます。基本文献として、以下の和訳を用いました。
渡瀬信之 訳,『マヌ法典』,中公文庫, 1991.
サンスクリットの原文は手元にないので、京産大の矢野先生のアーカイブ:
ftp://ccftp.kyoto-su.ac.jp/pub/doc/sanskrit/dharmas/ ここにあるやつを
参照しました。といっても訳本で「師」となってる部分が「アーチャーリヤ」なのか
「グル」なのかを確認する程度にしか参照してなかったりして
(^_^;;
ということで、ここの文のほとんどは渡瀬先生の訳文に依ってます。
[Table of Contents]グルは聖なる知識を授けてくれるひと
さて。マヌ法典における師弟関係のありかたについては、第2章に出てきます。
まず以下に引用してましょう。
生徒を導いた後(入門式を行なった後)、ヴェーダを祭式学(カルパ)および
ウパニシャッド(ラハスヤ)とともに教授するブラーフマナをアーチャーリヤと
呼ぶ。(140) // .. //
多少にかかわらずヴェーダの知識を授けてくれる者をも、ヴェーダの知識を
授けてくれることの故に、この世において、グルと心得るべし。(149)
グルとアーチャーリヤの関係について。
149 から、「グル」とは「聖なる知識を授けてくれる人」のように思われますし、
それゆえ正式な「センセイ」であるところの「アーチャーリヤ」も「グル」に
含まれる存在であると理解することができそうですね。
[Table of Contents]グルへの敬意は態度で示すべし
これをふまえて「グル」に対する弟子の接し方を見てみましょう。
再度第2章からの引用です。ここでの「師」はすべて原文では guru となってます。
師に命じられようと命じられまいと、常に、学習と師のためになることに努める
べし。(191) //
身体、言葉、知覚器官(ブッディ)および思考器官(マナス)を制御して、師の顔を
見つめながら合掌して立つべし。(192) //
常に[右]手を[衣の外に]出しておき、行ない正しく、完全に[感官が]制御されて
いるべし。また、「座りなさい」と言われたら師の方を向いて座るべし。(193) //
師の前では常に[師よりも]劣った食べ物、衣服、飾りでなければならない。
彼よりも先に起床し、後に[床に]入るべし。(194) //
[師の命令を]聴くとき、会話するとき、横になりながらしてはならない。また
座りながら、食べながら、立ちながら、顔を背けながら[してはならない] (195) //
[師が]座っているときは立って、立っているときは近づいて、近づいて来るときは
近寄って、走っているときは後ろから走りながら、[命令を聴きまた会話すべし]。(196) //
[師が]他の方を向いているときは[正面に回って]顔を向き合わせ、遠くにいるときは
近くに寄って、横になっているときやそば近くに立っているときは腰を折って
[師の命令を聴きまた会話すべし]。(197) //
師の前では、常に彼の寝台と座席は[師よりも]低くなければならない。
師の視界内では気ままな座りかたをしてはならない。(198) //
[師の]いないところでも、[敬称なしで]彼の名前だけを呼んではならない。
また彼の歩き方、言葉、仕草を真似てはならない。(199) //
師の悪口や非難がなされている所では、両耳をふさぐか別の場所に移るべし。(200) // .. //
[以上の]ことは[アーチャーリヤ以外の]学問の師、血縁、罪行為(アダルマ)を止めてくれる者、
あるいは有益な事を教えてくれる者に対する常の振舞いに他ならない。(206)
うーん。現在の日本でも礼儀としてそのまま通りそうなことが多分に含まれてますね。
個人的に面白いと思ったのは 2-200 にある「師の悪口や非難がなされている所では、
両耳をふさぐか別の場所に移るべし」といったあたりですね。
口論させるんじゃなくて、両耳をふさがせる。まあ知識が足りない人間が代理戦争しても
事態はぜったい悪い方向に進みますからねー。経験則的に上策であることは確か。
[Table of Contents]父と母と師に仕えることは最高の苦行
また、同じ第2章には、こんな記述もあります。
ここでの「師」は原文を見ると「アーチャーリヤ」になってますので、「師」の
後にそれを示す (a) という記述を追加しておきました。
師(a)はブラフマンの現身であり、父はプラジャーパティの現身であり、母は大地の女神
プリティヴィーの現身である。一方、自分の兄は自己の現身である。(226) //
人の誕生に際して母と父が耐える苦痛は、何百年たっても償われ得ない。(227) //
常に彼ら二人にとって、また常に師(a)にとって好ましいことをなすべし。彼ら三者が
満足するとき、いっさいの苦行は完成される。(228) //
彼ら三者に仕えることは最高の苦行であると言われる。彼らの許しを得ないで
他の功徳を積むための行為を行なってはならない。(229) //
なぜならば、彼らこそは三界(天・地・空)であり、彼らこそは三アーシュラマで
あり、彼らこそは三ヴェーダであり、彼らこそは[シュラウタ祭式の]三祭火である
と言われているからである。(230)
うーん。弟子における師(a)の絶対性がわかっていいなあ、と思ったりしますが、
これはグル一般について言ってることではないのでイマイチ.. と思っていると、
続きがあります。(これも第2章から。為念)
父は実にガールハパティヤ祭火であり、母はダクシナ祭火であり、師は
アーハヴァニーヤ祭火であると言われている。この祭火の三つ組は非常に
重要である。(231) //
家長はこれら三者(父、母、師の三者および三祭火)に対して[奉仕を]怠らない
ときに三界を征服し、神々のように、自らの姿によって輝き、天で楽しむ。(232) //
母に対する信愛(バクティ)によってこの世界を、父に対する信愛によって中間の世界(空界)を、
しかしこのように師に仕えることによってブラフマンの世界を獲得する。(233) // .. //
実に、彼ら三者[が仕えられるとき]、人の目的は完成される。これは明らかに
最高の生き方(ダルマ)である。他は二次的生き方であると言われる。(236)
ここでの「師」は guru 。とゆーことは、たぶん、上の師(a)も実質は guru のことと
解釈してよさそうですね。とゆーことですので「グルはブラフマンの現身なので、
その存在は絶対的である。よって尊敬の心を絶やすことなく、つねに専心して
仕えるべし」というのが、あるべき師弟関係といえそうです。
[Table of Contents]グルの彼方に最高神(ブラフマン)あり
ちなみに、なぜ guru が
「ブラフマンの現身」という非常に偉い存在とされるかといいますと..
ヴェーダ(シュルティ)に述べられる良俗および[ヴェーダを知る者たちの間に]
伝承されるそれこそは最高の生き方(ダルマ)である。それゆえに自己を保持する
ドヴィジャは日々いかなるときもこれに専心すべし。(1-108)
と天啓聖典(シュルティ
[*1])
の絶対性が背景にあって、それで、その
絶対なるものを教えてくれる人がグルなので「ブラフマンの現身」と呼ばれてるわけで、
とゆーことは「グルに逆らうこと == ヴェーダという絶対的なものに逆らうこと」
という展開になってることは間違いないと思われます。けど、もっと直接的に
「guru の言葉は何があっても疑ってはならないし、その命令には従わねばならない」
みたいなことがモロに書かれている箇所は見当たりませんでした。んー、残念。
そのかわりと言ってはナニですが、こういう表現を見つけました。
ヴェーダの復唱、苦行、知識、感官の制御、不殺生、グルへの服従は、至福をもたらす
最高[の行為]である。(12-83)
この「グルへの服従」の原文は
guru-sevaa
。2-233 に「師に仕える」とあったけど
これは
guru-^su^sruu.sayaa
なので、訳し分けてるみたいですけど、
動詞の語源的解釈は苦手なので何もコメントできません。でもこの服従というのは
私にとりましては、なかなか心惹かれる言葉ですね:) 服従しないとどうなるんだろう???
[Table of Contents]グルを捨てるのは準大罪
とりあえず、こんな記述を見つけました。
.. 師、母、父、[日々の]ヴェーダの独詠、祭火および息子を捨てること (11-60) //
.. // .. -- 以上は準大罪(ウパパータカ)である。(11-67)
うーん。ここでの「師、母、父 . . を捨てること
(guru-maat.r-pit.r-tyaaga.h
)
」は「師の言葉を疑ってはならない」を破った行為と見てよいのか? マズいのか??
‥そのへんはちょっとよくわかりません。
[Table of Contents]グルの告発、非難などは大罪
グル絡みでもっと重い罪はどんなか? というのをちょっと見てみます。
[不勉強による]ヴェーダの忘却、ヴェーダの非難、... はスラー酒を飲むことに
等しい。(11-57)
この「スラー酒」というのは何だかよくわかんないんですけど、
「スラー酒」を飲むことは ブラーフマナ殺し/[黄金]泥棒/グルの妻と交わること/
上記の罪を犯した者たちと交際すること と並ぶ「大罪」とされてます(11-55) から、
かなりワルい感じのものなんでしょう。
グルは最高神(ブラフマン)の方向にある御存在、ということを考えれば、
たぶん師を非難する行為もこの「スラー酒を飲むこと」と同程度になってるんではないかと‥‥あ。
やっぱ、こんなのもありますね。
嘘でグルを告発することばブラーフマナ殺しに等しい (11-56)
この「ブラーフマナ(バラモン)殺し」は「スラー酒を飲むこと」と同等の罪と定義されてましたから、
「嘘でグルを告発」「ヴェーダ(聖典)の非難」「グルの妻と交わること」「ブラーフマナ殺し」、
これらが「スラー酒を飲むこと」と同じ大罪と位置づけられてるみたいです。
「嘘でグルを告発すること」が大罪、「グルを捨てること」が準大罪。
‥‥つまり、こういうことですね。お世話になった人を見捨てて、そっと失踪するんだったら準大罪。
お世話になった人を見捨てるだけじゃなく、損害を与えようとするなら大罪。
‥なんか、一般にありがちな、わざわざ調べるほどでもないレベルの話になっちゃいました(^_^;
註
- *註1
-
天啓聖典(シュルティ)‥人が作成したものとは異なり、神(?)の声(?)をそのまま記録した
とされるテキスト。ヴェーダ聖典など。他方、古の聖者などによって作成されたテキスト群は
「スムリティ」。聖者といっても所詮は人間が作ったもの(という位置づけ)なので、
シュルティよりも格は落ちる。本ページで参照している「マヌ法典(マヌ・スムリティ)」など。