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秋田三十三観音

The 33 Kannons of Akita. // 秋田三十三観音。

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第一世代(1):: 保昌房と三十三観音

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資料は江戸期のものだけ

 「秋田六郡」に関して言及している資料は江戸時代以降のものがほとんどで、それ以前の現存 資料は、たぶん、ないのではないかと思います。つまり、第二世代(江戸時代)の資料で「昔は‥」と 書かれている部分から察することしかできない、と。このあたりには注意する必要があるでしょう。

 ということで。秋田六郡三十三観音の由来についても、おそらく、 江戸時代になってから作成された鈴木・佐藤の 「秋田六郡三十三観音巡礼記」(以下『六郡巡礼記』『巡礼記』『順礼記』など) が 一級の情報源になってるんではないかと思います。

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保昌房の時代といえば「後三年の役」

 そこでまず、その「六郡巡礼記」の中で、鈴木らが保昌房について、また、 三十三観音の由来について語っている部分を以下に引用します:

出羽国雄勝、平鹿、仙北、河辺、秋田、山本。右六郡の内観音巡礼三十三所は、平鹿郡御嶽山鹽湯彦尊の臣 卜部大連氏致の後胤、満徳長者保昌出家して保昌房と号し、人皇六十九代後朱雀院の御宇長久年中紀州 熊野に参詣して、霊夢の告を蒙り都に登り、西国三十三所を順礼して観音の像を大仏師定長に作らせ、 比叡山阿闍梨教円禅師に開眼供養を受取て本国に帰り、右六郡の山々嶽々寺院等に、彼の仏像並に順礼 の縁起を書かしめて奉納せしなり。其後都より阿闍梨教円禅師尋来り、彼の順礼所の仏々に歌を詠ず。 即ち御嶽山鹽湯彦神社の内、御嶽山湯の嶺白滝観音を第一番と定め、秋田郡比内の庄根の井岩本山を三 十三番として、教円禅師と保昌房同行して札打納め帰京し給ふ。時に人皇六十九代後朱雀院の御宇長 久年中なり(それより今百十五代今上皇帝の御宇享保十六[辛亥]まで六百九十余年になる)。 (「秋田六郡三十三観音巡礼記」(『秋田叢書』第八巻, 1931), p.1.)
西暦でいえば1040年頃ですかね。1040年といえば平安時代後期、 奥州十二年合戦(「前九年の役」とも)の開始(源頼義の奥州赴任)が1051年、 後三年の役が1083年開始ですので、そのちょっと前になります。 岩手県南部では安倍氏が奥六郡を支配して大勢力を誇り、 秋田県でも清原氏が仙北三郡を支配していたとされる時期ですね。

 清原氏の本拠といえば今の横手市、その北部にある金沢のあたり(のはず)。 JR後三年駅近辺ですね。その東、山中にある御嶽山鹽湯彦神社の途中、御嶽山湯の嶺白滝観音は 「平鹿郡御嶽山鹽湯彦尊の臣卜部大連氏致の後胤」であるらしい保昌房にとっては 所縁の場所だったようです。ですので、そこを一番札所として以降三十三番札所まで、 保昌房と、都より教円禅師にもわざわざお越しいただいて、二人で札打初めを行ったという伝説です。

 なお「山と川のある町 歴史散歩」というページの1-2章[ここ]によれば、「六郡順礼記」以外にも いくつか情報源があるようです。菅江真澄「雪の出羽路」(19世紀前半)にもあるのか‥ (なお『出羽六郡三十三所巡礼札所并縁起』と呼ばれている資料ですけど、それって、 『六郡巡礼記』 [URL]で 「(備考)一本に左の如く見えたれば参考の為に附記しぬ」と書かれている、その「一本」ですね。 『出羽国雄勝郡平鹿郡仙北郡河辺郡秋田郡山本郡、右六郡三十三所順礼札所并縁起』という 章名? を見ることができます。)

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事実でないとして、なぜ11世紀起源に?

 もし11世紀起源が根拠のない後代の創作だった場合、なぜこの時代になったのか?

 ‥‥無論、わからないですけど。わからないですけど、可能性としては、この「六軍巡礼記」には ときどき、義家公ゆかり とされる霊場が登場してきます。 つまり、義家公ゆかりの霊場があるとすると、義家よりも前の時代に「秋田六郡」が 創設される訳はありません。義家公創設の伝説を守りつつ、 なるべく古い時代を設定するとしたら‥‥などと考えてみると、ちょうど、義家と同時期、 11世紀ということになりますよね。まあ伝説によれば 保昌房が最初の札打ちをしたのが1040年頃、 義家が東北地方に来たのが早くても(義家の父・源頼義が奥州赴任した)1051年ということで、 義家よりも札所設立のほうが微妙に前になってるんですけど。 これはまあ、たぶん、誤差じゃないかと‥ (^_^;

 それと、義家時代から戦国時代までの間の400年ほどで、 義家公ほどの知名度と威圧感をもった人が秋田六郡にいなかったとか、 江戸時代の秋田六郡は 源氏の名家・佐竹家の領地でしたから、源氏つながりで 義家公は重視されたのでは? とか(志立正知(2009)『<歴史>を創った秋田藩』笠間書院.pp.17,254)。 いろいろな事情は考えられそうです。

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