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では、果たして誰が、いつ頃この「秋田六郡」を設定したのでしょうか。 ‥答は霧の中なのですが
「六郡順礼記」[URL]の写本の一本に、 以下のような記述(『秋田叢書』8巻, pp.6-7.)があることが目に止まります。
となると、1698年(鈴木らの『六郡順礼記』の 約30年前あたり)の横手光明寺住僧白道和尚ら、もっと正確に引用すれば
上記推測はどの程度ありそうな話なのか。 上で紹介した横手光明寺住僧白道和尚らが1698年に巡礼したという記録、 この記録がいつ書かれたかについてですけど、 たぶん享保18年(1733)頃じゃないかと思います。その理由として、 錦仁(2004)『小町伝説の誕生』角川書店. に 「享保18年(1733)に追記された『秋田六郡三十三観音巡礼記』(広本)」(p.16) という記述があるのですが、ここで「追記」と書かれたものの中に 横手光明寺住僧白道和尚らが1698年に巡礼したという記事も含まれているのでは? という 気がするからです。「気がする」程度なのでアレなんですが、 これ、写本一本のみにしか書かれていない記述らしいですので‥。 んで、もしこのあやしい推測が正しいとすれば、1733年に 「1698年に横手光明寺住職白道和尚らが順礼」と書かれたことになります。 この35年差というのをどう見るか、ですね。ここに100年くらいの差があると、 なんだ、ほとんど根拠のない伝説じゃん、と思ってしまえそうなんですけど。 35年というのは、真偽を考えるうえで微妙ですね。それなりに事実に近い感じ。 (ただ、その部分の記述が本当に1733年に書かれたのか、さらに後代そこだけ追記された 可能性はないのか、という話になると、それについて判断する材料を何一つ持ってないです。 なので「最短の場合、35年」という程度の話であることには注意する必要はありそうです。)
「汁講話」という本があるんですけど、その中に、 秋田三十三観音の起源について「南比内小猿部沢の内七日村之長崎七左衛門といふ老人」 (「汁講話」,『第三期 新秋田叢書(12)』.p.58)が始めた、という記載があるのを 見つけました。私が取ったメモが、走り書きなのでちょっと記述が間違っているかもしれませんが、 たぶん「南比内小猿部沢の内七日村」というのは 現在の秋田県北秋田市七日市のことかな。また 長崎七左衛門といふ老人については、Webで検索してみると、すぐに出てきます。 Wikipediaにも「長崎七左衛門」という項目 [URL] があるほどです。 もしこの長崎さんが秋田三十三の起源とした場合、Wikipediaには1731年生まれとありますから、 『秋田六郡三十三観音巡礼記』の広本の成立とされる1733年頃には、まだ満2歳‥‥んー。 同時代人の偉人ということで、この開祖(?)として長崎七左衛門氏の名前が浮上してくるのは、 まあ、自然といえば自然な成り行きではありますけど。 でも、ちょっと無理ですね。残念。
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