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久保田三十三所 (札打)

The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".


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ご詠歌の微妙な違い

前ページで「久保田三十三のご詠歌は、西国三十三のものをそのまま」と書きましたが、 実は つねに『西国三十三カ所そのまま」ではなく、ところどころ細部が 微妙に異なっています。 たとえば久保田三十三の十一番はこれ:

逆縁ももらさで救ふ願なれば じゆんれいどう(巡礼堂)は頼もしきかな
ここで「じゆんれいどう(巡礼堂)」という単語が 出てきますけど、西国三十三ではそれと同じ箇所が「じゆんていどう(准胝堂)」に なっています[*1]。この「まちがい探し」的な違いをどう解釈したらよいでしょうか? ‥まあ、普通に考えれば、近畿と久保田(秋田)の間には相当な距離もあるし、 ご詠歌を近畿から久保田まで運ぶ途中で、 運ぶ人が間違って伝えてしまったんでしょ、どうせ。‥という感じに単純に 理解しちゃいそうになるんですけど、事情はそんなに簡単ではないかもしれません[*2]

 何故かといえば。 「観音霊験記」(1860年頃,江戸)(国際日本文化研究センター)というページ[URL]を見ていただきたいのです。 このページから19世紀中頃の江戸において流布していた御詠歌の内容が わかるのですが、この資料の西国十一番札所の御詠歌の中身を見てみると 漢字で「巡礼堂」と書かれてます。この部分、近畿では「じゆんていどう」、 久保田では「じゆんれいどう」となっており、この部分は江戸と久保田は同じ、 近畿がそれらと異なっている、ということがわかります。 また他の箇所、つまり西国三十三と久保田で相違がある部分が 江戸でどうなのかというのを見てみると、 江戸での記述は概して久保田に近いことがわかります。 また江戸と久保田以外にも、たとえば山形県の最上三十三観音の十五番札所でも 「巡礼堂」の語を使っているようです。このことから、 「巡礼堂」をはじめとして、いまの近畿地方に伝わった伝承とは ちょっと異なる伝承が、東日本の広い地域に流布していた、ってことでしょうか。

*1
なお、西国三十三所の醍醐寺には准胝観音堂があります(‥けど、 2008年に落雷により全焼、2012年再建予定のようですので、厳密には この文を書いている2010年現在は存在してないのですが、まあ、そのへんは‥)ので、 准胝観音堂の存在を知っている近畿では「じゆんていどう」、それを知らない 地域では「じゆんれいどう」が伝わった、という可能性もありそうです。
*2
伝承のとおりに豪商の平野屋甚兵衛が札所もご詠歌も持ち込んだ‥と考えた場合、 さらに気になることも出てきます。この平野屋さんについてよく調べてないので憶測なんですけど。 久保田(秋田)に限らず、江戸時代の日本海側の町での「豪商」の多くを占めているのが 北前船オーナーと思われます。つまりほぼ毎年、北海道から日本海航路をとって能登、門司、瀬戸内、 そして京大阪を往復して商売をする人たちです。そんな平野屋さんが秋田に「ご詠歌」を 持ち込んだとした場合。ご詠歌はたぶん京都大阪で行なわれているものがほぼそのまま、 直輸入で入ってくるはずで、(当時の)京大阪とまったく同じものが使われるのが自然のはずです。 それを考えてみると、少なくとも、秋田に「ご詠歌」を持ち込んだのは平野屋氏とは 違うのでは? という気が、なんとなく、してしまいます。
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