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久保田三十三所 (札打)

The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".


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Hymns // ご詠歌

Pilgrims of 33 Kannons of Kubota use the hymns of the Saigoku 33 Kannon.

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はじめに

巡礼・札打ちの際には、単に用意してきたお札を所定の位置に貼付けていくだけじゃなく、 それぞれの巡礼箇所ごとに決められた「御詠歌」を唱えて お参りしていきます。

 「えー、でも「ご詠歌」を唱えろと言われても、そもそも歌詞知らないんですけど」 ‥大丈夫です。札所に行けば、見えるところにちゃんとご詠歌が掲示されてます。 達筆すぎたり字が小さすぎたりして ときどき読めない漢字があったりしますけど、まあそれはご愛嬌‥。 節回しについては‥ んー。正直、私も自己流でメチャクチャなので アドバイスできないんですよね。とりあえず、こちらで→ [*1]

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五七五の和歌?

この「御詠歌」そのものについてですけど、何ということもない、 五七五七七より成る 単なる(?)和歌です。鉦をたたいて独特の節回しで唱えるので、 何となく呪術めいた雰囲気はあります[*1]けど、 歌詞そのものからは 全然呪術的な要素は感じないどころか、逆に晴れ晴れと明るい感じの ものが多いんじゃないかなという印象すら受けます私は。 人によっては「ねんぶつ」と呼ぶこともありますけど、んー、まあ 厳密には違いますね。歌詞の中に仏様出てこないので「ねんぶつ」の「ぶつ」を 満たすことができません。じゃ何で念仏? といえばたぶん、 以前行われていた「念仏講」(今のウチじゃもうその伝統は途切れて しまって もうやれない)で御詠歌を唱える風習があったので、 その「念仏講」で唱えられるものを「ねんぶつ」と呼んだんだろうと思います[*2]

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和歌は経文と同等

ところで。なぜ巡礼の際に「観音経」 (『妙法蓮華経』25章「観世音菩薩普門品」を独立させたもの)のような「お経」ではなく、 仏教とは直接は関係してないはずの「和歌」が出てくるのか。この点について‥

和歌そのものが仏教における「真言」と同じであり、一首詠むことが一仏建立の功徳と 等しいという思想が中世以降行なわれ、作歌諷詠ということが仏道修行の大切な手段となった。 したがって、聖地あるいは本尊を巡礼する風が盛んになると、その巡拝の祈りに己れの感慨を歌 にしようとする気風がにわかに起ってきた。‥(略)‥  なお、この巡礼歌を唱えることが死者の霊魂の遊行に結びつくという信仰が、地方に残ってい るという。それは死者すなわち新仏ができると、四十九日の満中陰の日まで毎晩御詠歌を霊前であ げる風習である。そして、各札所の御詠歌をあげる ごとにお線香を一本供え、二十四番中山寺にくると 仏前に供えたお茶を上げ替えるのだという。これは 「野をもすぎ里をもゆきて……」という歌詞から、 死霊が山路を越えるのにのどが乾くことへの思いや りであるらしい。このように御詠歌の詠唱は「追善 回向」の功徳にも直結しているのであるから、詠者 は真剣に奉詠するわけでもある。 (清水谷孝尚(1983)『観音巡礼のすすめ』朱鷺書房, pp.250--252.)
どうやら中世の頃から和歌を「一首詠むことが一仏建立の功徳と等しい」、つまり、 和歌を一首詠むことと 仏像を一体作ることの功徳は同じほど大きい、という思想が 出てきたので、和歌が盛んに作られるようになったということみたいですね。 また引用では省略してしまいましたが、1810(文化7)年『西国巡礼細見大全』などでは、 巡礼者において御詠歌は観音経と 同等の存在と見なされています(清水谷1983, p.251)。

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仏教的というより日本的?

また庶民においては、御詠歌は短くて覚えやすいこと、それと唱和する際の節回しが 印象に残りやすいことなどから、「お経」の代用品のような感じで 葬送儀礼において使われてきたのも確かなようです。上記の引用では二十四番のところで 「死霊が山路を越えるのにのどが乾くことへの思いやり」があると述べられていますが、 つまりこれは「死出の山路」信仰 (関連:[地蔵十王経][冥途]) との 結びつきということなんでしょうか。和歌にせよ「死出の山路」にせよ、どちらも 「仏教的」というよりは「日本的」な感じがします。 日本人的な死後観に対する供養は やっぱり日本人的な「和歌」で‥‥という形が、 もっとも自然な成り行きのようにも思えてきます。

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話を久保田に戻すと‥

ちなみに久保田の場合は、近畿地方に伝わる「西国三十三所巡礼」で使われる 御詠歌をそのまま(‥といいながら、細部が微妙に異なってます。後述)、 「西国三十三」のお寺の名前も入れたまま使われてます。 たとえば西国三十三の二番札所は「紀三井寺」で御詠歌は「故郷を はるばるここに 紀三井寺 ‥(後略)」 ですが、久保田の二番札所・闐信寺でもそれと全く同じ 「故郷を はるばるここに 紀三井寺 ‥」を使っています。 「きみゐでら」も「てんしんじ」も同じ5文字ですから、寺の名前の歌詞のところ くらいローカライズしても良かったのに、とは思いますけどね。

 ただ。豪商が、自分の趣味で、関西の流行を久保田に持ち込んで始めてみたものが そのまま一般にも定着 という流れだとするなら、 御詠歌も独自のものではなく、西国のやつをそのまま流用したのが定着、というのも、 まあ、そうなっちゃうかな、と思ってみたりしました。

[「ご詠歌」のみの一覧は、こちら]

*註1
どこから回ってきたのか、よくわからない^^;我が家に伝わる カセットテープのうち、 一番札所のご詠歌部分だけ、参考のため用意してみました。==> [MP3]
*註2
ただ なぜ御詠歌を「念仏講」、物故者の追悼行事などで忌日逮夜お盆などの時に 唱えるのかについては今のところよくわかりません。 「西国三十三」は最初は追悼目的だったのが観光行事化した歴史があって、その最初期の 風習が地方に伝わって‥という図式を作りたいところではありますけど、んー。 「観音順礼にわざわざ出かけるほどの契機って何だろう?」と考えると、やはり、 身内の死者供養が一番ありそうには思うんですけどね。思うんですけど。

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