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梵文法華経::[24] かんのんさまの章


 

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はじめに

法華経(梵文)第24章(『妙法蓮華経』では第25品「観世音菩薩普門品」(観音経) に対応) (テキストは荻原土田本) の 大雑把訳です。『妙法蓮華経』などの漢訳文献は[SAT][このへん]から見ることができます。 なお妙法蓮華経の25章は[これ]です[妙法蓮華経 しおり]

サンスクリット語やそのチベット語訳のテキストは、とりあえず [ 梵文法華経24かんのんさまの章[資料編] Experimental ]をどうぞ。 サンスクリット(荻原土田本)とチベット訳の内容はほとんど一致しますが、それらと 漢訳、とくに『妙法蓮華経』とは細部が微妙に違ってます。 これは写本の系統の異なりに起因するもので、どっちが正しくてどっちが間違ってるとかいう レベルの話ではないと考えられています。

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大雑把訳

無尽意(akṣayamati)菩薩は、立ち上がり、服を整え、片膝を地に着いて、 仏に合掌しながらこう尋ねました。

「世尊。なぜ観世音菩薩は『観世音』と呼ばれるのですか」
仏は仰せです。--

「この世では、ものすごく大勢の者たちが苦しんでいるが、彼らは 観世音菩薩の名前を聞くだけで苦しみから開放されるのだ。 もし大きな炎に包まれても、観世音菩薩の名前を呼べば、観世音菩薩の威光により 助かる。川で流されたとしても、観世音菩薩の名前を呼べば、川には浅瀬ができる。 財宝を求めて船出した者たちの船が暴風でラークシャスの島に流されたとしても、 一行の誰か一人が観世音菩薩の名前を呼べば、皆その島から脱出できる。 とまあ、そんなこんなで、観世音菩薩は『観世音』と呼ばれるのだ。

 処刑される人が観世音菩薩の名前を呼べば、処刑執行人の武器は砕かれる。 もし世界じゅうがヤクシャ・ラークシャスばかりになったとしても、観世音菩薩の名前を 呼ぶと、その人の姿をヤツらが見ることはできなくなる。 木や鉄の枷で縛られた人が観世音菩薩の名前を呼べば、かれが罪人か否かを問わず、 その枷に隙間ができる。これが観世音菩薩の威力なのだ。

 世界中が武器を持った暴漢・悪人だらけになったとして、その中を、商人の一行が 莫大な財宝を持って進むとする。彼らは、武器を持つ暴漢どもを見て恐れおののき、 自分には何も頼るものがないと思うかもしれない。そのとき一行の主が『恐れるな! 声をそろえて観世音菩薩のお名前を唱えれば、この恐怖から開放されるぞ』と言って、 皆に観世音の名前を叫ばせるとする。『南無南無、恐怖を取り除いてくださる、 かの観世音菩薩様に』と。すると一行は恐怖から開放される。これが観世音菩薩の威力なのだ」

 「欲深い者が観世音菩薩に敬礼すると、欲深くなくなる。憎悪の強い者が観世音菩薩に 敬礼すると憎悪が消える。迷いをもつ者が観世音菩薩に敬礼すると、迷いがなくなる。 観世音菩薩は、これほどスゴいパワーを持つのだ」

 「息子を望む女性が観世音菩薩に敬礼すれば、息子、しかも容姿端麗で愛され善良な息子が 授かる。娘も同様。観世音菩薩の威力は、それほどのものである」

 「観世音菩薩へ敬礼し、名前を呼ぶ者が得る果報は、尽きることがない。 観世音菩薩へ敬礼し名前を記憶する者たち、 62個のガンジス河にある砂粒と同じくらいの数のブッダたちへ敬礼し名前を記憶する者たち、 今ここにおられるブッダに衣・団子・ベッド・薬などの生活品をお供えする者たち。 彼らが得る果報とは、どれほどのものだろうか」

無尽意菩薩は、こう答えました。
「膨大です」
仏は仰せです。--
「多くのブッダたちを崇拝したことによる果報と、 観世音菩薩に一度でも敬礼し名前を記憶することで得た果報も、同様だ。また、 62個のガンジス河にある砂粒と同じくらいの数のブッダたちを崇拝し名前を記憶すること、また、 観世音菩薩を崇拝し名前を記憶すること、このどちらも、それで得られる果報は 長い時間が経過しても、簡単には無くならない。 このように、観世音菩薩の名前を記憶することによる果報は、 はかりしれない」

 そして、無尽意菩薩は世尊にこう申し上げました。

「観世音菩薩はどのようにこの世間を巡り、人々に説法するのですか。 観世音菩薩の得意技とは何でしょうか」
仏は無尽意菩薩に仰せです。--
「観世音菩薩が仏の姿で説法する世界もあれば、菩薩の姿で説法する世界もある。 独覚の姿で説法する世界もあるし、仏弟子の姿のときも、梵天様の姿のときも、 帝釈天‥ガンダルヴァ‥ヤクシャ‥自在天‥大自在天‥転輪王‥ピシャーチャ‥ 毘沙門天‥将軍‥バラモン‥執金剛神の姿で説法する世界もある。観世音菩薩は、 このように、不思議である。それゆえ観世音菩薩を供養せよ。 観世音菩薩は、皆から恐怖を取り除くゆえ『施無畏者』と呼ばれるのだ」

 そして、無尽意菩薩は世尊にこう申し上げました。

「観世音菩薩に、お供えをさせていただきたく」
世尊は仰せです。--
「思い通りにせよ」
無尽意菩薩は、首から高価な真珠のネックレスをはずし、 「どうか、お受け取りください」と観世音菩薩にお供えしました。 しかし、観世音菩薩は受け取りません。無尽意菩薩は言いました。
「私へのお慈悲として、これをお受け取りください」
観世音菩薩は、無尽意菩薩のみならず、仏弟子たち、神様、竜、 ヤクシャ‥など人間・人間でないものたちへの慈悲を示して、 真珠のネックレスを受け取りました。 受け取ったネックレスを二分割し、一つを世尊釈迦牟尼にお供えし、 他方を多宝如来を祀った宝塔にお供えしました。
「観世音菩薩は、このようなパワーを使って、この世界を巡っているのだ」

このとき、無尽意菩薩はこのような詩を唱えました。

--(中略。大雑把訳的には、ここまでの内容の繰り返しなんですけど、 参照したい方はとりあえずこちらへ‥ )--
そのとき持地(dharaṇiṃdhara)菩薩は立ち上がり、服装を整え、 片膝を地面につき、世尊に合掌し敬礼してから申し上げました。
「世尊。観世音菩薩に関するこの章、観世音菩薩のパワーを語った 『普門』という章を耳にした者で、汚い性根を持つものはいないでしょう」
また、この章が説かれたとき、84000もの者たちが、このうえなき悟りへの 心を起こしました。

以上、 法華経のうち『普門』と名付けられた、観世音菩薩の奇跡についての章。第24章。

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「かんのんさま」は南へ西へ

ここで紹介している「かんのんさまの章」、よく見てみると 「もし大きな炎に包まれても」「川で流されたとしても」「処刑される人が」 「欲深い者が」「息子を望む女性が」‥という感じで、なんか現世利益的なことしか 述べられてない感じです。しかし一方では、死後についてのお願いを観音様に 託す人も昔から結構いるようです。        [つづき. 長くなるので別ページ]

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めも

岩本裕(1974)『インド仏教と法華経』(第三文明社レグルス文庫)によれば、 インド仏教における観世音(観自在)菩薩の特徴として以下が 挙げられるみたいです(pp.186--187):

  • 「ほとけ」の中で、数多くの名前と姿を持っている点
  • インド仏教史に、突然登場してくる(2世紀頃)。それが「法華経」
また観音様の祖形は西北インドのクシャン朝の女神様で、それが 男性のほとけとして仏教に取り入れられたのではないかと思われ(pp.191--192)、 千手観音などの派生形の多くはヒンドゥー教に祖形があり(pp.182--184)、 観音の三十三身説は ヒンドゥー教でヴィシュヌ神が魚・亀・野猪などの十種に 権化するという信仰(西暦一世紀頃)と無縁であるとは考えられない(pp.176--177) そうです。 あとついでに、観音霊験譚を集めた経典にKāraṇḍavyūhaというものがあり、これには 散文と韻文の伝本があるが、その散文伝本の漢訳が『大乘莊嚴寶王經』[SAT]だそうです。 これについて岩本は「読んでみて歯のうくような、あるいは尻がむずがゆくなるような霊験譚を 集めたもの」(p.177)と(^_^;;

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