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久保田三十三所 (札打)

The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".


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ご詠歌を手がかりにした札打起源考

『秋田県史 近世篇 下』に、御詠歌を手がかりとした 久保田三十三の起源に関する言及がありましたので、ここで紹介させていただきます。

久保田城下の三十三ヵ寺については、天和年間(1681〜1683)、平野屋氏の肝煎によつて設定されたという伝えがある。しかし、こ こで詠唱される御詠歌は西国三十三所と同じものであり、西国三十三所のそれが、寛文から延宝にかけて(1660年代〜1670年代)漸く整 つたものであるから、この天和年間という時期はすこし早すぎ、若干下げるのが適当であろう。いずれにせよ、藩内、及び鹿角郡下 の三十三ヵ所が、或る程度その寺院にふさわしい詠歌を備えているに反し、久保田城下のそれが西国三十三ヵ所と同一のものを詠 唱したことは、結局久保田城下の札所が、自らその土地において長い間かかつて出来たものでなく、特定の人の強い肝煎によつて 設定されたことを意味している。なお久保田の三十三ヵ寺は終始同一でなく多少出入りしているが、これは経済的理由からくる寺側 の政策によるものである。 (『秋田県史 近世篇 下』, p.732.)

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ご詠歌の作成流布年代を手がかりに

個人的に、いろいろ引っかかるところはあります。 まず本家の「西国三十三所」の御詠歌が出揃った時期が1670年頃という点については、 前のページで紹介した 速水1980の「巡礼歌の歌体は、 十六世紀はじめの『閑吟集』に似ており、この前後に成立したと 考えられる」(p.270) とほぼ合致しているのでOKでしょう(‥といいつつ、100年ちょっとも誤差ありますけど)。 そして「西国三十三」そのものはそれ以前、伝承のとおり花山法皇(10世紀末)創設と いうのはかなり眉唾ですけど、しかしご詠歌ができたとされる時期よりもずっと前から 存在していたのは確かでしょう。つまり、ご詠歌ができる江戸時代の頃までは 「西国三十三」の札所はあったがご詠歌はない、つまり、 その時期までは観音様巡礼においては御詠歌はなくても普通ということですよね。

 つまりそれは「久保田三十三」ができた時に、札所と一緒に ご詠歌まで 用意される必要は特になかったということに他ならない訳で。そうすると、 『秋田県史』で書かれている「『西国三十三』のご詠歌ができたのは 1670年代だから、 『久保田三十三』の成立は1680年代では早すぎる」の「だから」が成立しなくなりますよね。 伝説どおりに天和年間(1680年代)に久保田三十三が作られ、 ご詠歌は後からつけ足された、という可能性を 否定できないのでは? という疑念を、どうしても持ってしまいます。 (もちろん、今となっては よほどの新資料でも出てこないかぎり、 真相は誰にもわからない訳ですけど‥。)

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誰かの肝煎? 自然発生的?

 他に気になる点として「西国三十三のご詠歌と同じものを使っているので、 『久保田三十三』は ある特定の人の強い肝煎によって設定されたのではないか」と指摘している点です。

 私個人の考えとしましては、そもそも観音霊場を33個選定するという行為自体が かなり作為的、「特定の人の強い肝煎によつて設定」されないととてもできない 行為であって、オリジナルの御詠歌なんてものは、その「特定の人」か、 その近くにいる人たちが作ろうと思えばいつでも作れるものですので、 御詠歌がオリジナルかどうかで観音霊場の成り立ちを推測しようとするのは、 ちょっと勇み足がすぎてやしないか、と危惧してしまうのですが‥

 ‥というか。よくよく考えてみると。 「特定の人の強い肝煎によつて設定」される場合、その「特定の人」というのは、 それなりに政治力とか資金力とか文化的素養とかの社会的影響力をもつ人である ことが想定されますよね。そんな人であれば、たぶんそのブレーン的な人が オリジナルなご詠歌を用意できるはず。それに対し、特別な政治力も資金力も 文化的素養もない人たちがご詠歌を用意しようとした場合。きっと ご詠歌の自作もできなければ作成依頼もできないでしょうから、既製品をどこからか 持ち込んで使うしかないという話になりますよね、どうしても。 つまり。オリジナルのご詠歌でないことが、『秋田県史』の推測とは逆に 庶民の素朴な宗教行事であることを裏付ける証拠になったりしないのかなー。 ‥そんな風に思ってしまいましたけど。どんなもんでしょうか。

 でも念のために言っておきますと、この『秋田県史』で書かれていること、つまり、 「久保田三十三」の本当の起源は「平野屋創設」となっている伝説よりも 後の時代である可能性がある点、また「特定の人の強い肝煎によつて設定」された 可能性がある点につきましては、確かにありうる話だ、否定できる要素は何もない、 そんな感じに思っております。

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