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久保田三十三所 (札打)

The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".


[前] ご詠歌を手がかりにした札打起源考

History // 歴史など(近世篇)

According to Sugae(1754--1829), the route of 33 Kannons of Kubota (Sugae calls it "Kubota-Fudaraku") was established by a wealthy merchant whose name was HIRANOYA Jimbe in 1680s.

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菅江真澄(19世紀)かく語りき

菅江真澄(1754〜1829)という人が19世紀初頭に書いた文書によれば、 「『西国三十三所巡礼』(西の寺めぐり)や、 その秋田県版コピーである『秋田六郡三十三番観音霊場』巡礼(六郡めぐり)を さらに真似して、1680年代初頭に平野屋甚兵衛という豪商(?)が巡礼した、 というのが起源とされています。一応、 菅江真澄による当該部分(私が把握してる分)は以下で全部です。 (右図は、 「久保田の落ち穂」 [APL] の該当部分です。)

[くぼたふだらく]
久保田補陀洛(フダラク)は、西の寺めぐりになずらへて、六郡めぐりそめしに、 またなずらへて、天和(1681〜84)のはじめ、平野屋甚兵衛といふ人、巡礼(メグリ) そめ、中通町の越前屋太治兵兵(ママ)衛政貞、くぼたふだらくの縁起てふものを 作りて、正徳5(1715)年乙未8月15日に、清書なりぬと云(イヘ)り。また、 『久保田名所記』といふものあり。是も越前屋政貞が、慶安4(辛卯)(1651)年作ると いふ。二本ありと云(イヘ)る人あれど、おのれいまだ一本も見ず。いかなるものか、 土屋琴斎ノ云ク、『窪田名処記』といふものは、いといとつたなきものながら、 としと、そのころの風俗(フリ)を見るに足れりと云(イヘ)り。
(「久宝田能おち穂」,『菅江真澄全集 第十巻 随筆』(1974), pp.386-387.) ([注意] 西暦の年に関する記述は、私が追加しました。原文にはありません。)
おそらく「久保田三十三所巡礼」を紹介する記事で、江戸時代についての話まで しているものは上記の菅江の文を典拠にしているのでしょう。

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「ふだらく」は観光ネタ?

 ここで注意しておきたいことは、 菅江は日時についてとか、身内に不幸どうこう、とかいったあたりの話を 全然していないことです。また 「くぼたふだらく」と題された節の半分くらいが実は 『久保田名所記』[URL]という本の話になってること、「くぼたふだらく」に ついて述べた最初の一文でもその後半は『くぼたふだらくの縁起てふもの』 (巡礼ハンドブック?)の話になってるのはどう解釈したらよいでしょうか。

 おそらく菅江が見るに「くぼたふだらく」が属するカテゴリは 「観光」だったのではないか、だから『久保田名所記』の話も ここでしているんじゃないでしょうか[*註]。 んで「観光」が「くぼたふだらく」の主な目的であったとするなら、 今のような「身内に不幸」「一月十六日」とは結びつかず、 当時は普通に「巡礼したい人が、巡礼したい時に廻る」程度のものだった のではないか? という気が、私にはしてくるわけです。

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江戸時代は、よくわからない

さて 「はじめに」のページで紹介した2つの引用文ですけど、 ちょっと油断すると江戸時代からすでに現在のような「身内に不幸」「一月十六日」という 条件がついていたと読んでしまいそうになって怖いですねー。

 厳密に見てみると、 どっちの紹介文も一文目が「くぼたふだらく」の歴史についての説明、 二文目からは話変わって現在の風俗についての説明、と読めないことも ないですから、一概には言いにくいんですけど、 背景知識がなくてこれを読んでしまうと、多くの人たちは 「江戸時代からこういう風習があったのか」と理解してしまわないか? といったあたりはちょっとどうかな、と思うところではあります。 (実際は今と同じだったかもしれないけど、そのことが確認できる史料を 私はいまだ見つけていません。)

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江戸時代の巡礼ルート

 江戸時代(1828(文政11)年)の「羽州久保田大絵図」[APL]に、当時の札所のだいたいの位置を 追記したものを(たぶん)右に示してみます(寺町など、札所が密集している場所は一部抜粋。ちなみに 「御城下絵図(県C-165)」(1742) [APL] から抜粋した [登町〜寺町の札所][寺町〜新寺町の札所])。 御城下の周縁部を、北から東、南、そして西へと時計回りに廻るコースになっていることが 一目でわかります。そしてさらにゴール地点は八橋地区に設定されている訳ですけど。

 江戸時代の八橋地区といえば‥

十八世紀半ばからは、県北を結ぶ国道の観光地として売り出す。‥(略)‥ 八橋は名所尽くしの楽天地。山あり川あり茶屋あり、それから藤、桜、社寺、芝居、人形屋と、 久保田城下のハイクコースとなった。‥(略)‥
八橋をゆけば見世物の旗左に閃き、右は旅芝居の櫓かかりて、いかめしう看板打たり。
                      益戸滄洲『鹿の細道』
 八橋が最盛期にはいった宝暦四年(1754)八月の描写だ。‥(略)‥ 茶屋は八橋入り口の街道両側にあった。名物あん焼きモチは左側のトバぐち、名代お春コ団子の 茶屋があったという。賀藤月篷の狂誌にも出てくる美人茶屋娘お春がいた。
 ♪八橋のお春コ、あん焼き焼くとて……
 ♪おら家のお春コ、めったにないこと… 『秋田音頭』 (秋田魁新報社文化部(1965)『秋田むかしむかし』秋田魁新報社, pp.168--177)
また「その後は衰えたとはいえ、十九世紀になっても、‥(略)‥ 宴会は八橋に決まっていた」(秋田魁新報社文化部(1965) p.169) ‥こんな感じだったようです。

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ゴールは繁華街。は偶然なの?

 つまり江戸時代の「久保田三十三」とは、城下町周辺部を時計回りに一周して、 その最後、久保田城下有数の繁華街であった八橋でゴール。ゴールして周囲を見渡せば 茶屋はあるし芝居もあるし‥という感じだったようです。 このコースをどう考えるか、ですよね。御城下で「霊験あり」とされた寺院を繋げたら、 たまたま城下町周縁部を一周するコースになりました、というよりも。 「がんばって城下町周縁部を回ってお詣りした後、八橋でちょいと遊んで帰るか」という 観光をイメージしたルート作りが行われている気が、してきません[*註] ?

 それと。おそらく一番札所である「泉 熊野山地内」が 天徳寺(藩主佐竹氏の菩提寺) の近辺であること、そして 三十三番札所である「八橋 普門寺」が 日吉八幡神社(いわゆる「山王さま」) の近辺であることも 偶然ではないと思います。たぶん一番札所に行く前に天徳寺にお詣りして、各札所を回って、 最後に「山王さま」にお詣りして締める、そんな感じになってたんじゃないですかね(これは私の妄想です)。 本家「西国三十三」の巡礼者がまず伊勢神宮にお詣りして、その後に各札所を回って、最後に善光寺で締める、というのと 同じパターンがあったんじゃないかと‥。

という話はさておき。ここで私が言いたいことをまとめると、 とりあえず私の現状としましては、何故また何時から 「身内に不幸」の人が「一月十六日未明に限定して」札打を することになったのかについてはわからない、ということになります。

なお『秋田県史 近世篇』にも久保田三十三の起源に関する言及があります。 こちら: ご詠歌を手がかりにした札打起源考 [URL] をどうぞ。

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