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久保田三十三所 (札打)

The 33 Kannons of Kubota (Akita City) and "Fuda-uchi".


[前] 久保田名所記(1720頃)

秋田紀麗(1804頃)

菅江真澄と、たぶん同時代の人になると思うのですが。 蕉雨人見藤寧という人の手による「秋田紀麗」という書物があります。 その書物に、おそらく久保田三十三と思われることに関する記述があるので紹介させてください。

(七月) 九 日
此夜三十三番の札打とて、城邑の商民等幾隊と云ふなく、補陀楽の御詠歌とて物哀シなるを唱え諷ふて笑ひさざめき、暁を侵して其声たえず。今宵一夜が、人間一生五十年に向ふとなん。
 此頃より山樵、門火の松木と榧(かや)しやうびを売る。いづれ盂蘭盆会の用也。
 此頃墳墓祭掃の女伴多し。雑菜を調し荷葉(はすのは)に(つつ)み、あらよねと號(なつ)く。小方燈を製し目はぢきとよぶ。
 赤飯と茶湯を同じく墳前に盛り備ふれば、其時しも棚経読とて雛僧来り、口裡模糊して何やらを唱ふ。此事十三日を限る。
(「秋田紀麗」,『秋田叢書(5)』(1930), p.24.)
ここで紹介されている行事、 「三十三番の札打」「補陀楽の御詠歌」ということで、たぶん「久保田三十三」だと思われます。 おそらく これとほぼ同時期に始まっている 「秋田六郡三十三」[URL]の可能性も捨てきれなさそう ですけど、さすがにあれは一日で回るのはムリです[*1]から、 「此夜」なんて書き方はできないと思いますので‥。

 ここで気になったのは、まず「御詠歌とて物哀シなるを唱え」と書かれていること。 御詠歌そのものは特に物悲しいものではない‥と私は思いますので、となると、 「追善」の行事ゆえに御詠歌も物悲しく聞こえるという意味かも、と。 ‥まあ、観音様順礼をはなれた場所における「御詠歌」の使われ方を調べてみると、 全国的に、追悼行事で忌日ごとに唱えられるという風習が あるようです [*2]から、単純に そのイメージで語られている可能性はありそうですけどね。‥‥でも、いずれにせよ、 久保田三十三は久保田御城下の人たちにとっては「追善」的意味合いをも含み得る 行事であったらしい、ということは言えそうですね。

 そしてもう一つ気になったこと。これが非常に重要かもしれないですけど。日付です。 「七月九日」となってますよね。1/16と全然違う! [*3] 日付的に、 お盆 [LINK] の入りの行事という位置づけであれば、たしかに「追善」が前面に出てくるのは 理解しやすくなりますけど。でも現行の札打ちとの関係はどうなんでしょうね。 行事に関する記述だけ読むと なんか現行のルーツと言えそうな感じはするんですけど、 これだけ日付が違っているとちょっと‥ (^_^;;;

 また巡礼・札打はあきらかに夜行われています。 深夜に行われてるという点 [LINK]、 しかも前述のとおり お盆行事という点から これは先祖祭の一部、 追善・追悼的色彩をある程度は含んだ行事として行われていたんだろうな、 というのはそんなに外れてないかもしれませんね。 ‥‥あとは、日付に関する問題か。現行の「札打ち」のルーツとした場合、 なんで7月にやってたものが1月になったのか。いくら何でも変えすぎでしょう、と。

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