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[チラシの裏]

森達也(2001)『スプーン 超能力者の日常と憂鬱』

著 森達也
年 2001
表題 『スプーン 超能力者の日常と憂鬱』
発行 飛鳥新社



スプ-ン [ 森達也 ]

スプ-ン [ 森達也 ]
価格:1,836円(税込、送料込)

[Table of Contents]

概要

本書は、超能力という、いかにも「いかがわしい」とされる事象に関する人たち、 なかでも「超能力者」と呼ばれる3人の人物に焦点をあてたTVのドキュメンタリー製作の 裏話‥が中心になっている。

 超能力は、あるのか、ないのか。「超能力者」が見せる「超能力」は、 ガチか、あるいはトリックか。私自身は「肯定か否定か、とにかく 直接体験したことないし判断できない。けど、スプーン曲げるのが精々というなら、 別にあってもなくてもどうでもよくね?」というもの。 他に喩えれば「1と0.9999999999‥の関係についてどう考えるか」と言う問いに対して 「どっちも量的にはほとんど同じ」という考え方と、 「質的には完全に別モノ」という考え方があって、その前者を採用してる感じかな。 でも「超能力が実用としてどうか」という視点をいくら貫いたとしても、 「超能力は本当か」という問題は解決しないわけで‥。 んで、この本を読むと(そして著者が書いてる内容がウソじゃないと仮定すると)、 だいたい以下のことがわかる訳です。

  • 「超能力者」の家族の人たちは身内の超能力を確信していること、
  • どうやら「清田君」はトリック(我々が「トリック」と考える方法)なしでスプーンを曲げてること、
  • 超能力以外のオカルトとの結びつき。 秋山、清田など一部有名「超能力者」は宇宙人と心霊の存在を確信(というか本人的には「確認」)してること。 (清田家には「髪が伸びる日本人形」まである!(p.147))
この最初の点、本人だけじゃなくて、家族が確信してることはポイント高そうですね。 やっぱ、身内はダマせませんから (逆に言うと、両親が信じてしまってるから本人も今更引くに引けない‥となってる可能性も ある、とも言えるかな?)。 他方、気になるのは他のオカルトとの結びつきです。 オカルト系の番組って、どうして超能力とかUFOとか心霊とかごちゃ混ぜにして語るのか、 それぞれ別カテゴリの話題じゃねえの? ちゃんと別にして論ずればいいのに‥と思っていたので、 超能力に関する話題の中心にいる人たちが、まさかそんなに普通に宇宙人を語るのは、 正直どうよ‥というのはあります。なので著者が
「僕にはやっぱり宇宙人の話は信じることはできません。普段、僕が知っている秋山さんの口か ら、六百回宇宙人に会ったとか、そんな言葉を聞くとその温度差には戸惑います。率直に言いま す。やっぱり頭がおかしい人なのだろうかと思います」(p.281)
と本人に直接言った、その内容には完全に同意ですね。というか、基本的に、 「超能力」に対する私のスタンス、というか接し方、というのはこの筆者の森さんと かなり近い気がして、そのへん、森さんに感情移入して読んでしまいます。筆者の思う壺?

 それはそうと。清田氏があちこちでスプーンを曲げてみせる、そこに居る人たちは、 その「奇跡」を目の当たりにして驚く、というより感動する、という場面は、どうやら 日常的に起きてる光景らしい。でも、なぜか、 それで終り。単に清田君らはすごいなあ、本物だよなあ‥と、人々はその時は感動するけど、 ユリゲラーの頃から 何十年経過しても、その繰り返し。そこから先に行かない。何故? と思ってしまうけど。 それはやっぱ、何というかな。プロ野球の公式戦を見に行ったときの感じに似てるかも。 試合を実際に目の当たりにして盛り上がって、その展開も結果も知ってる。 でもやっぱテレビで試合経過のVTRを見て改めて試合を追体験しないと落ち着かない感じ? いや、それよりも、あの大震災の時の体験のほうがいいか。あの大津波の痕跡を見て、 その光景をどう理解していいのか、どう表現していいかわからない、敢えて言うなら 「何だこれは」としか言えない感じ‥。それで混乱した気持ちのままテレビで同じ情景を見て、 そこではじめて「ああ、とんでもない大災害なんだ」と理解できた感じ? それに似てるのかもしれません。メディアから情報を受け取るのに慣れすぎちゃってて、 テレビなどで確認しないことには、自分が直接体験する(非日常的な)モノを素直に受け入れられない感じ。というより、目の前にあるものをどう解釈するのが妥当かを 自分一人では決められなくて ただ呆然とするしかない感じ、といった方が妥当か。 そして、自分の体験自体が まるで夢のような、宙に浮いてる感じ‥。 それがスプーン曲げを目の当たりにした人たちの素直な感情だとすれば、なんか、 超能力が存在どうこうという話が、いつまでたっても先に進まないのは、 わからないこともないですけどね。そのへん、どうなんでしょうか。

 それとあとはアレですね。「どうせトリックがあるに決まってる」と理解しないと バカだ、と思わなければならない、そんな内的な圧力(自制心?)。 やっぱ今だと大槻教授が口から唾飛ばして喚き散らしてる様子が脳裏に浮かんできますよね。 うっかりこれを「信じてる」と公言しようもんなら、世間の人たちに、あんな感じで バカバカ言われそうだよなー、なんて、どうしても考えてしまいますから。 そのへんで、大槻教授が果たしてる役割というのは、かなり大きいと思います。 ただ大槻教授はなー。この本を読んでも、やっぱそうかという感じなんですけど、 「まともにやる気は全然ないけど、社会の需要があるみたいだから ちょっと顔出してやるか、程度で」というのがミエミエな気がするんですよね。 大学の先生が、「超能力というものに顔をしかめる、一般社会の良識の代表者」という 役を無邪気に演じるのはどうなのか? というのは、ちょっとアレですよね。 「有名大学の物理学の教授さま」という肩書きを利用されてるだけ、というのは わからないはずないと思うんですが‥。でも、いずれにせよ、

「あんなトリックをどうしてテレビで放送するんだ? とか、テレビ局もインチキに加担している とか、子供たちへの影響力を考えろとか、」 ‥(略)‥ 「怖いくらいにヒステリックな抗議」(p.303)
「演出する側は常にニュートラルにいるべきです。この企画では特にその視点が重要です。もし 超能力が実在するという前提に森さんが立ってしまったらこの企画は破綻します。」(p.66)
というのが一般良識として確定してるのは確かなようです。ここで面白いのは、 「超能力が実在すると信じないこと」がニュートラル、という点ですね。 筆者も言ってるような気もするんですが、超能力については 信じる(全肯定)か、信じない(全否定)か、という選択肢しかない状況なのですが、 それはつまりニュートラルという立場は存在しない、という ことのようにも思うんですが。 人々(すくなくとも、マスコミの人たち)はそう考えてはいないみたいですよね。 ニュートラルって何? という話にもなっていくと思われますし、それはたぶん 筆者のその後のオウム真理教話(『A3』など)にも繋がっていくんでしょうけど‥。

 このような状況の中、皆に「あるわけない。嘘つきめ」と、さんざん言われ続けながら、 でも自分は確かにその能力を持っている、と確信している人たち。

「これだけの体験を経ても、超能力を盲目的に「信じる」というスタンスには未だに立てない。 でも三人の男は信じる。彼らが決して自分に嘘をついていないことだけは、僕は胸を張って断言する」 (p.344)
正直に生きるというのは、実のところ、そこまで難しいのか‥とも思いますし、 いややっぱり彼らは妄想‥いや、実際スプーンは曲がるみたいだし‥‥ やっぱ、どうしてもちょっと悶々としてしまいますね。

職業欄はエスパー [ 森達也 ]

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価格:843円(税込、送料込)


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つぶやき

この本を読みながら、そういえば確かに最近はこのテの番組、全然見かけないなー、と 思っていたら、こんな記述が。

「以前は、あるかどうかわか らないけど興味があるという層が大半だったんですよ。そしてこの層がメインの視聴者だった。 ところが最近は、検証なんかしなくたってこういう現象はきっとあると全面的に肯定する層と、 たとえ目の前で見てもあるわけがないと頭から否定する層に二極化しちゃった」(p.305)
以前は「いかがわしいもの」は一杯あって、本当かウソかわからない、でも、だからこそ楽しい? なんて感じで皆が見ていたものが結構あったと思うんですが。(プロレスとかもそうですよね。) その手の「いかがわしいもの」を皆がテレビで見なくなったのは、 それを信じる人がいなくなったということではなく、 全肯定する派と、全否定する派に 人々が完全に分かれてしまったため、というのは面白いですね。 でもこれって別の見方をすれば、 (証拠不十分な状態であるにもかかわらず) 本人的には「本当か」「ウソか」の判別が済んでいれば、 つまり「信じるか」「信じないか」の態度決定を済ませてしまえば、 第三者的な検証、「それが本当かどうか」を検証することに興味がない、という人が 最近増えてきてる、ということですよね。 んで、これはたぶん、オカルトに限った話ではないんじゃないかという気がしています。 ‥何でかといえば。インターネットができてから以後、 世界を流れる情報量が爆発的に増大してしまったため、一つ一つの情報を いちいち検証なんてやってらない、だからもう、検証しなくても いろいろ呑み込んじゃうぜ!、という人が増えてきてもおかしくないんじゃないか、 いや、たぶん実際に増えてきていて、その一端がこのオカルトの視聴率低下にも 出てきてるんじゃないかと考えるからです。 もしそれで合っているとしたら、 ちょっと、いや、かなりヤバい匂いがするんですが、そのへんどうなんでしょうか。


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オカルトは何でもあり?

本書で不思議に思ったことの一つが「なぜオカルトは全部ごっちゃになってるのか」と いうことがあります。つまり「超能力」を持つ人・信じる人は大抵は心霊もUFOもUMAも 全部信じてることが多いということ。普通に考えれば、それらトピックは全部切り離して 別物として捉えないと、わかることもわからなくなるんじゃね?? と思ってしまうんですけど。

これに関して、ある本を読んでたらこんなことが書いてありました。 過去にあった心霊写真ブームの頃に関する話の中で:

 74年に出版された中岡俊哉編『恐怖の心霊写真集』(二見書房)は、絶大なる影響力を持 ち、中岡の同年の著書『狐狗狸さんの秘密』(二見書房)も大ヒット、彼こそが日本の心霊 ブームのキーパーソンであったことは疑い得ないだろう。‥(略)‥  今思えば、中岡は、子供ならではの感受性を心霊と結びつけたのだ。そればかりか、彼は、 心霊も超能力もUFOもすべて同列に語った。つまり、ある特殊な能力に目覚めれば、スプ ーンを曲げ、霊と交信し、UFOも呼べるというのだ。 (前田亮一(2016)『今を生き抜くための70年代オカルト』光文社新書799, pp.147―148)
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つまり、この頃ブームになっていた「心霊写真」に心惹かれた多くの少年少女たちは たぶんこの「ある特殊な能力に目覚めれば、スプーンを曲げ、霊と交信し、UFOも呼べる」と いう世界観を何となく丸呑みにしてしまってたんでしょうかね。

 そして。なにせ話題が、一般常識が通用しないオカルトの世界だけに 「そういうのはキチンと分けて考えないと、解決しないんじゃないの?」的な 近現代の科学的アプローチの洗礼を受けることなく、 人々の中で「子どもの頃のまま、ごっちゃのまま」来てしまったんですかね。 それでいいのかはよくわかんないですけど。 そう考えると一応それなりに腑には落ちるんですけどね。


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