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[book] 高山彦九郎(1790)「北行日記」にみる天明飢饉

題 [book] 高山彦九郎(1790)「北行日記」にみる天明飢饉
日付 2014.10
備考 書きかけ、というかメモです



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はじめに

高山彦九郎(1790(寛政2))「北行日記」 (『日本庶民生活史料集成〈第3巻〉探検・紀行・地誌』(1969),三一書房) を パラパラと見る機会がありました。じっくり読むことはできなかったんですけど。 なので、この本における描写などを一応メモしておきます。

 この「北行日記」は、このちょっと前に起きていた「天明の大飢饉」 (1782(天明2)年〜1788(天明8)年)に関する記述があるということで ときどき言及されているものです。なので興味は自然と 「東北地方における天明の大飢饉の様子」になるんですけど。

 しかし「北行日記」をパラパラと見て気になったのが、飢饉に関する描写が 出てくるのが、ほぼ津軽、南部領に集中していることです。 「北行日記」は往路は現在の福島から米沢、山形、出羽三山、酒田、本荘、秋田、 弘前‥と進み、復路も八戸、久慈、盛岡から仙台経由で‥と進んでいくんですけど。 秋田県、宮城県などを通過するときに飢饉の話はあまり‥というか、 ほとんど見かけないんですよね。それが 津軽に入った途端、飢饉の話が急増しているように見えます。 冷害の被害が今でもムチャクチャ大きい 太平洋側の八戸あたりはともかく、津軽と秋田だと気候的にはそんなに 大きな違いはないはずなので、この両者の相違はかなり気になるところ。 Wikipedia で書かれているように、津軽は人災の面が大きいのかも。

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秋田絡みで出てくる飢饉関連の話

 そんな中、私がたまたま見つけた秋田での飢饉関連話を紹介します。

 日本海沿いに北上して ちょうど久保田御城下(現在の秋田市)に入った あたりのところで、仙北地方に関する伝聞(仙北は通らなかったので‥)として こんな話が:

小野村の辺に孝童あり、八年前飢饉の年盗賊多フく入り其父母を 搦めて巨魁童子をあなどりて居れるを童女十五なるが小刀を以て一盗を 殺し、十三の童男手鑓を提けて巨魁を殺したりける、其余の賊皆ナ恐れ て逃げ去る、候より扶持を賜ふて賞せらるるとそ。 (p.165a 19日)
小野村というのは、 例の小野小町の里のあたり、雄勝町のあたりだと思います。 その近辺で8年前の飢饉のとき、ある家族が盗賊団に襲われた。 両親が縛られたことで盗賊団が油断したその隙に、15歳の少女が小刀で 盗賊の一人を殺し、13歳の少年が鑓で大男を殺した。盗賊団の者どもは 逃げ出した、この子どもらの武勇に恩賞が出た、と。

 パラパラと本を見ていて、そのときに見つけた秋田での飢饉関連の話は、 この程度かなー。飢饉の話というより、飢饉のときに起こった孝行息子・ 孝行娘の武勇伝ですから、純粋な飢饉話とは違ってます。

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津軽における飢饉話

それが津軽に入り、浪岡に入ったあたりで記述がずいぶん変わってきます。

 これは ひょっとして浪岡のあたりから「中嶋村榊村水木 村増館村下十川村三上宅次郎なる代目付なるが世話して人を出だす」ことになり、 その同行人が何かの影響を与えているのかもしれません。 つまり同行人がやたらと飢饉の話をしてくるので、自然と 興味を持ったのかなー、と。

板橋を渡りて八幡の宮左に有り、是れ より壱丁斗にして右に館の跡有り、浪岡大膳太夫なる人の城跡とぞ、土 人浪岡御所と称す。浪岡より十五六丁にして五本松村爰にて又継く、飢 饉の前迄は三十六軒の所なりしが死絶へて六軒のみ残れり、(p.168a)
通称「浪岡御所」の近くにある五本松村、飢饉の前は36軒あったのが 大勢亡くなって6軒に減ってしまった。 2割も残ってない、というのはかなりスゴい話だと思いますけど。

 さらに文が続きます。

右に加茂大 明神の社あり、山間に入り坂を登り行く。加礼沢村家十一軒浪岡より艮の 方壱里半、此所も三十三軒の所四軒残れり。其後又タ集りて家を成して 十一軒にはなりぬとぞ、餓死の年には馬を食ふものあり又タ犬を食ふて 生るものもあり。此所二百四十人余なりけるが今は四十人には満たず三 ヶ一は生きぬるなるべき歟といへるに中々三ヶ一までには及ばじと語る。(p.168a)
加礼沢村も同様に飢饉で33軒が4軒になったが、その後なんとか11軒に戻した。 飢饉のときは馬や犬を食べる者がいて、それで何とか生き残った。‥と、 これと似たような記述が随所に見られるようなります。

‥しかし、こちらも33軒が4軒というのはスゴいですね。1/10近くしか残れなかったと。

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南部(三八上北)地方は かなり‥

飢饉の話は、舞台が三八上北地方に移ると、いよいよ酷くなってきます。

大野より巽小道十里、是れより久慈へ二十里の所也。飢年に は野草禽獣も食ひ尽し親は子か死せは食はん事を思ひ、子も又た親の肉 を食んとす。候の制禁を出たされて人の肉を食ふものをは捕へて刎首す、 され共人の肉にて命をつなぎ今に存命のものもありと聞ゆ。是れより二 十里西の方苅米の辺大沢といへる所にては人の肉を食ふ事の役人へ聞へ 捕手のもの来り捕ふ、家に死人十二俵貯へ置きたり。一軒には二俵あり、 一軒五人暮にて二軒にて十人暮しなりけるを役人立合にて打殺し其の家 に其侭埋めもせで置かれしよし。八ノ戸在孫を失ひたるもの有りける。 あるもの二人来りて其亡孫の死骸を乞ふ。与えずは事にも及はんと恐れ て許したりけれは葬埋の所より掘り出だし食ひけるに壱人は死す一人は 生きて今に徘徊す。孫食はれたるもの其のものの面体を見れはうらめし く思ひぬると村上氏へ語りしとそ。人の肉食ひて今に存命するもの幾許 といふ事を知らず。人は五穀にて養ふもの故か味ひ是れに勝るものなし と人食ひたるもの語りしとあるじか咄也。(p.??b. メモったページ番号紛失)
大野から久慈へ。飢饉の年は野草も動物も食いつくし、死んだ家族でも 食べたくなる有様。人肉を食ったら死刑、との禁令にもかかわらず、 人肉を食べてなんとか生き残った者もいるようだ。ここより西の大沢と いうところでは、人肉を食べる者がいるとの通報があって役人が 駆けつけると、家に死体が12俵分 置かれていた。それで10人が暮らしていたが、 それを皆死刑とし、死体は埋めもせず放置したとのこと。 八戸では、孫を失った人のもとに人が二人訪れ、孫の死骸を譲ってくれと言った。 断ると何されるかわからん、と思って許可したら、二人は埋葬した孫の死骸を掘って食べた。 その一人は死に、一人はまだ存命。孫を食われて爺さんは 悔しそうだった、とのこと。人肉を食べて生き延びた人数は 不明である。人間は五穀を食べるからか、その肉は いちばん旨い‥と 人肉を食べた者は言ってました、とはオヤジの咄。

 でも津軽は秋田より相当ひどかったらしいと上で書きましたが。 南部地方は津軽どころではなかったみたいですね。

 ということで。ついに人肉の話が出てきてしました。 爺さんが、亡くなった自分の孫を食べようとは思わず、 埋葬したのを掘り出されて食べられたのが悔しくて仕方ない。 ‥孫の屍体を掘り返して食べた人たちのことを思うと、 暗澹たる気持ちになりますけど(しかもそのうち一人は、 人肉を食べてまでもなお(たぶん)餓死してしまったという‥)。 でも爺さんが、自分の孫を 食べようとは思わなかったことは、まだ(我々にとっては) 救いのようにも思われます。

小児をは生るを川へ流すもの多フし、人死すれは 山の木立ある所へ棄て或は野外に棄て川へ流すもあり。猪鹿狗猫牛馬を 食ひ又は人を食ふものも有り、子のありて其の親の屍をは其の子埋れ共 其余は皆ナ埋むる事なし、埋めたるを掘発して食ふものもあり、山中野 外の屍を食ふものもあり。煮ても焼ひてもなまにても食ふ。今マ其人に 尋ぬるに馬の味は猪鹿に勝り人の味は馬に勝ると語れり。己れが小児を 殺して食ひしものも有り人にして鬼の如し。当村にても二十軒斗り死絶 へたり、生るもの半はに過きぬ。十軒七八軒の村には壱人も残らす死失 たる所も有り。人の肉を煮るに水飛んで火中に入れは忽ち燃へ上る油の 甚だしき是れに過るはあらじ。(pp.178b—179a)
生まれた幼児を川へ流すもの多し。人が死んだら山の木立に隠すか、 川に流す者もある。猪鹿など動物を食べたり、人を食う者もある。 子どもがいれば屍体は子どもが埋葬してくれるが、そうでもないと埋葬 されない。埋葬されても掘り出して食べる者もいるし、棄てた屍体を 食う者もいる。煮ても焼いても生でも食べる。馬は猪鹿より美味、 それより人肉が美味とのこと。我が児を殺して食べる者もいて、 まるで鬼のようだ。当村でも20軒は死絶え、生き残ったのは半分ほど。 10軒程度の村だと、全員残らず死絶えた村もある。人肉の油が火中に 入ると燃え上がって、それはすごい。

 ‥なんか、だんだん人肉食のことが気にならなくなってきましたね。 事例が多すぎて (^_^;

 我が児を殺して食べてしまった人も出てきてしまいましたけど。 正直その人のことは責められないですよね。 飢饉というのは、それほどの状況ということなんでしょう。

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人肉は美味?

 それはそうと。 人肉は美味、というのはどうなんでしょうか。それほどまでの飢餓状態にあるから、 そりゃ何食っても美味だよ! ということなんでしょうか。 あるいは「禁断の、背徳の味」なんていう淫靡なノリ‥どころじゃないか。

 ちなみに。杉浦日向子『百物語』(新潮文庫1995)を見ていたら、 屍体の肉を食べる僧侶の話(23:人肉を喰らう話)が出ていたので紹介します。

「増上寺の僧侶が 屍肉を喰い荒して いたという話は ご存知かな」
という感じで始まるんですけど。
ある檀家の葬儀の際、亡くなった人の湯灌の 作業中、ある僧侶が ついうっかり頭の肉を削ってしまった。 このミスを同僚に見られそうになった僧侶は 咄嗟にその肉を自分の口に入れて隠した。そしたらそれが案外美味だったのか、 すっかり病付きになってしまい‥
もとより羞恥心から 発したことであろうが それから無上の快味を  覚えてしまった ということだ。 (杉浦日向子『百物語』(新潮文庫1995); 23人肉を喰らう話, p.165のあたり)
この話のネタ元が何なのかは不明ですけど、飢饉とかとは関係のないレベルで 「人肉は美味らしい」というのが定説になっていたんでしょうか。

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1784(天明4)年の様子

卯の年の八月頃より離散して仙台宮古の 方へ行くもの多フし、子有り親ある類イは止りて九十月迄蕨を掘り食ふ、 気力薄き人は九月頃よりも早や餓死す、十月に至りては子を縊りて棄或 は川へ流して離散するものもあり。辰の年閏正月より二三月迄餓死甚だ しく四月に至りて麦作実のるになんなんたりを苅取りて食ひ食傷して死 するも有り。四五月頃より疫病流行して死するも多フし、七月迄に餓死 疫病にて死果てて八九月は諸作実のりよく草木の実も多フくなりけれど、 食ふ人もなく希れに生き残りたるもの珍らしく食ひける故に俄に肥太り てぞありける。其れ迄人の牛馬を奪取食ふものもあり、人の穀を奪ひ取 るものもあり、奪はれざる用心すれば火を懸けて取り、谷間二三軒の所 は悉く奪ひ取らる、家続きの所は用心厳しく奪はるるも少なし、誠に混 乱恐ろしき事也。(p.179a)
卯の年とは、たぶん1783(天明3)年。この年の8月頃から一家離散して 仙台や宮古に逃げる者が増えた。家族ある者は逃げずに9〜10月まで 蕨を掘って食べたが、気力のない者から餓死していく。10月になると 子どもの首を締め殺して棄て、一家離散する者が出た。翌1784(天明4)年 1月2月3月は餓死者が甚大。4月、刈り取った麦を食べて食あたりで死ぬ者も。 4月5月は疫病が流行し、7月まで餓死疫病で大勢亡くなった。8月9月は 豊作で草木の実も多かったが、それを食べる人はもう死絶えていた。 わずかな生存者だけそれを食べるので、今度は一転、肥え太ることに。 それまでは他人の牛馬を奪って食べる者や 他人の穀物を奪う者がいて、 かなり強引で暴力的な輩なので、 谷間にあるような小さな集落はどこも攻め滅ぼされ、 大きな集落だけ生き残れた。大混乱とはじつに恐ろしい。

天明4年4月というのは、現在の暦では5月19日〜6月17日。なので現在の 暦でいうと、1月末から5月中旬まで餓死者が甚大。6月に入った頃、 麦を食べて食あたりする者も。6月7月に疫病が流行、そんなこんなで お盆頃まで大勢亡くなった。秋に入ると豊作で一息つくはずだったが、 もう皆死んでしまって食物を食べる者なし。わずかに生き残った者らが 食べ過ぎて太ってしまうほど — と。10月に子どもを殺して一家離散した家というのは、 8月は一家離散せず踏みとどまった家が、頑張ったけど破綻してしまって‥という 感じだと思いますので、それは かなり切ないですよね。

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人肉は、一度食べたら 食べ続けるしかない

当村に娵ある家三十軒斗り皆ナ親元へ帰へす、私は娵 二人有りぬれ共一人をも帰へさす。私も男子両人よろしけれはこそ生き 延びたり、悪しき子を持ちたるものは子に棄てられて餓死するもの有り 。子共常には鉄砲をは業とせられ共飢年には鉄砲をもちて鹿を打て食と す、鹿一にて二貫より四貫迄致せり、其年は鹿甚だ多フく有りし神々の 与え玉ひつるにや。首の所を赤ねの左リ縄にて結ひたる鹿なと有りしと 承はる、奈良よりも来りたるや又タ異国よりも渡りつるや只事にはあら ず、只今にては鹿甚だ希れ也。人を食ふたるものは十にして七分は死し たり。何れの家にても死なさる家はあらず、私シ所にても二歳の小児乳 りの事なれは是れも餓死の内也。飢年に恐れて其の後はならの木の実を 貯へぬ、ならの実は味ひ栗に次げり。庄屋と酒造家此の二軒の人のみ壱 人も死せず。酒造家にて七年或は十年季にて二十人斗り養ひつれとも恩 を忘れて豊作の後半は迯ぐ。(p.179ab)
当村で嫁のいる家は30軒ほどあったが、皆親元に返した。 ウチは嫁2人いるけど一人も返さなかった。ウチは息子が二人とも善人だから 生き延びた。悪い子をもつ親は、子どもに棄てられて餓死だからな。 うちの子は鉄砲を持ってたから、それで鹿を撃って食べた。この年は 天の恵みか(奈良とか異国からやって来たのかも)、鹿が多くて助かったが、 今は鹿はほとんどいなくなった。人を食う者は7割ほどは死んだ。 死人が出ない家はほとんどない、ウチも2歳の幼児をなくした。 飢饉以降は ならの実を備蓄している。ならの実は栗に次いで美味だから。 庄屋と酒造家だけは誰も死ななかった。 飢饉のとき酒造家では20人くらい養っていたけど、 豊作になった途端、ヤツらはその恩を忘れて逃げ出しやがった。

 「人を食う者は7割ほどは死んだ」‥つまり、他に食べるものがない、 ギリギリの状態で人肉を食べてしまうという状況を考えると。 たとえ人肉を食べて その日一日を乗り切ったとしても、やっぱり翌日には 人は腹が減ってしまうわけです。なので「一回だけ人肉を食ってしまった」という 感じでは、飢饉の中を生き延びることはできないわけですよね。 翌日も何か食物を食べる‥ 適当な食物がないときは (すでに人肉を食べるほど追いつめられている訳ですから、その翌日に 「適当な食物」なんてものが登場する可能性はほとんどないですよね)、また 人肉を食べるなんてことを繰り返さないと、数日後まで生き延びることはできない。 そんな感じで、場合によっては 飢饉が終わるまで毎日のように人肉を 食べ続けないといけない、そんな状況なんですよね。

 人肉を食べ続ける。それができないときは、そこで自分の生命が終わる。 ‥‥ううう。

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人肉食っても生き残れない男

いや、事態はそう簡単ではないかもしれません。他の記録によると以下:

飢渇の人、死人の肉を喰候由の所、男は喰候者とも多死候由。女は 喰候ても不死、生残り候由、(田村三省(1785(天明5))「孫謀録」; 森・谷川編(1970)『日本庶民生活史料集成7飢饉・悪疫』三一書房, p.385a)
このようにあります。つまり人肉を食べてしまった人のうち、 ある人は生き残って、ある人は死んでしまう訳ですけど。生き残るのは女が多く、 男は人肉食っても大抵は死んでしまった、と。‥んー、理由はよくわからないですけど。 女のほうがやっぱり生命力が強いということなんでしょうか。

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八戸御城下もやはり‥

卯の年六月迄年貢を納め辰の年は丸壱年 上納せず、十年の間に上納致すべきに命ぜられたり。八ノ戸長者山の辺り へ候より三間に七八間に小屋を二つ立てて飢人に粥を賜ひけれとも、後 には人多フくなりて続かさりけれは飢人共強きは弱きを殺して食ひ、或 は馬を取り入れ食ひなどし生き延びたるも希れにはあり、後に小屋へ火 を懸けて焼きたる跡を見るに人骨馬骨山の如くありける。卯の年八月頃 馬子か語るに、今日二十斗りの乞食小児の手を噛みて居るを見つると聞 て身の毛もよ立つ斗り也しが翌年辰正月には爰にも人を食ふもの有りし。 草やところを掘りに女などは恐れて出るを難たん(ママ)じたりと語れり。平助 次男久右兵衛又タ語りけるは、飢年二三年前より鉄砲を求めて習はしけ るが一度も獣類殺せる事もあらねど稽古せしこそ飢年の幸い也、鹿を打 て食とし親をも養へり。 (p.179b)
卯の年、つまり1783(天明3)年は6月までは年貢を納めた。翌1784(天明4)年は 年貢上納はできず、十年以内に払うよう命令された。八戸の長者山のあたりに 小屋が二つ用意され、そこで粥が配給されることになった。しかし人が殺到したため 早々に配給は中止され、飢えた人たちは強い者が弱者を殺して食べ、 あるいは馬を捕まえ食べるなどして なんとか生き延びた者たちもいた。 小屋に放火した跡を見ると、人骨馬骨が山のようにあった。 1783(天明3)年頃、馬子が 乞食が幼児の手を齧っているのを見た、と言うのを 聞いたときは身の毛がよだったものだが、翌年1月には 周辺の人が人を食っていた。 それゆえ女たちは食糧調達のため外出するのを嫌がる、とのこと。 平助の次男によれば、飢饉前は 鉄砲の稽古をしても殺生することはなかったが、 飢饉のときは役立った、鹿を撃って家族を養うことができた、と。

 食糧不足はたぶん田舎よりも都会のほうがキツいですよね。田舎だと、 裏山とか原野に行って何か‥ 蕨とか木の実とか根とか動物とか魚とか、 自力で何かを見つけることもまだ可能だとは思いますけど。 住宅密集地だと、自力で行ける近場に何があるかといえば、 他人の持物と、他人の肉体くらしかないですからね。そうなるとできることは まず他人が持っている食物を奪うこと。そして次に、他人が持っている肉体を 奪って食物にしてしまうこと。‥‥ううう。

 ただ御城下の場合、治安維持部隊がそれなりにシッカリしているはずですから、 農村部のような強盗団による襲撃事件というのは起きにくくなっているはず ではあるんですけど。でも問題は、どこまで食糧が回っていたかですよね。 殿様とか家老職にある人たちとか、上層の人たちの食糧は問題なかったと思うんですけど。 治安維持のための実動部隊の人たち、その人たちに どこまで食糧が回っていたかが 問題ですよね。実動部隊の人たちに満足な食糧が回らなかったら、とてもじゃない ですけど 御城下であっても満足な治安維持なんて できないでしょうから‥。

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[ふろく] 秋田における天明飢饉

本ページで紹介した「北行日記」を見るかぎり当時の佐竹領、いわゆる「秋田六郡」 における天明飢饉の被害はそれほどでもないように見えてしまいます。 別資料から見るとどうなんでしょうか。

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「秋田魁新報社文化部2004」をみると

 ということで紹介させていただくのが以下:

 「秋田県史」によると、藩 政時代約二百六十年間に七十 一回の凶作があり、中期、後 期にはおよそ三年に一回の割 合で頻発。三年以上続き、大 飢饉となったのは▽寛永十七 (1640)年から三カ年▽宝 暦三(1753)年から五カ年 ▽天明三(1783)年から四 カ年▽文化九(1812)年か ら三カ年▽天保二(1831) 年から六カ年−の五度ある。
 宝暦、天明の大飢饉に遭遇し、農 民の苦しみを目の当たりにして防ぐ 手立てを探ったのが、七日市村(現 鷹巣町)の肝煎・長崎七左衛門と浅 舞村(現平鹿町)の玄福寺の僧侶・ 釈浄因の二人。農書の中で現実を直 視し、警鐘を鳴らしている。
 宝暦三年八月二十日(新暦では九 月十七日)。収穫前の田んぼに降雪 があり、稲穂が種をまいたように落 ちた。凶作は領内全域に及び、人口 三十八万八千人のうち三万二千人が 餓死したとも伝えられる。それから 三十年後の天明年間に、またしても 四年連続の大凶作に見舞われる。七 左衛門は次のように記している。
 天明三年は正月から東風が吹きま くり、凶兆ととらえた農民の間に不 安が広がった。決定的だったのが九 月九日(新暦十月四日)から十日に かけての大雪。十月初旬に再び大雪 となり、山間部を中心に収穫皆無の 地域が続出した。
 飢饉もひどかった。領内の六千人 と津軽・盛岡(南部)領から流れ込 んだ一万人とが餓死したと伝えられ ている。 (秋田魁新報社編集局文化部編(2004)『時の旅 四百年 佐竹氏入部』秋田魁新報社. pp.237a--237c.)
1783(天明3)年9月(いまの暦だと10月4日)に降った大雪! 早っ!! ‥それで収穫期を迎えていた農作物がかなり被害を受けたということですね。 それで山間部を中心に収穫皆無の地域が続出か。 津軽とか南部の有様は、まったく他人事ではない感じですよね。 ‥‥これってやっぱ、アレですかね。「北行日記」を書いた高山彦九郎氏は 象潟、本荘、秋田という羽越本線ルートを通ってきたから、 収穫皆無の山間部を通過してこなかったから、だから飢饉の様子を見てなかったという ことなんでしょうか。

 でも、それより気になるのは 「飢饉もひどかった。領内の六千人 と津軽・盛岡(南部)領から流れ込 んだ一万人とが餓死した」という記述。 領内の約6,000人と、津軽南部から逃げ出して来た人々 約10,000人の合計約16,000人が佐竹領で餓死したということだと思うんですけど。 つまり領内で餓死した人の6割以上が、津軽南部の窮状に耐えられず 秋田に逃げて来た結果に亡くなった人たちということ。 ‥‥ううう。秋田も かなり悲惨であったものの、 やっぱり津軽とか南部とかとは比較にならないほどマシだったという ことでしょうか。

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その他の情報

あちこちで目についたものを雑多な感じで並べてみます:

「冷い病背(やませ)(東風)の被害がなく、七分作の秋田」(『日本庶民生活史料集成7』, p.284b)
「『小安年代記』によ れば領内人口三十九万六千人中、秋田三郡三千人、仙北三郡三千人、他領よりの 流入乞食一万人、合計一万六千人の餓死者を見たと伝えている。」(『日本庶民生活史料集成7』, p.334a)
「此邊は他領とも違作毛も相応に出来、其上米値段よろしく前 々と違奴僕も見仕、家内潤沢に候」(田村三省(1785(天明5))「孫謀録」, p.380b; 湯沢の話)
「あちこちで目についた」といいながら、上の3例はすべて同じ書物からの情報です^^;

 秋田六郡は七分作、作況指数70くらいの感じですから、現代的枠組でみると 「著しい不良」であることは間違いないですし、それは秋田六郡の内部だけでも六千人(総人口の1%弱)の餓死者が出てしまってることからもわかります。けど。収穫がゼロに近い状態になってる八戸などと比較すると 比較にならないほど恵まれていて、しかも他地域が超大凶作だったことからか 米がずいぶん高値で売れたこともあり、いいとこの家だと逆に「家内潤沢」なところもあった、と。 そんな感じみたいですね。‥んー。 (ちなみに「平成の米騒動」とも呼ばれる1993(平成5)年の大凶作の秋田県の作況指数は83 [冷害発生の実態]。被害的にはけっこう近いですかね)

 ちなみに。「天明の飢饉」については上記のように秋田六郡は(七分の不作でかなりキツいものの) 周辺地域よりかなりマシな状況だったと言えそうですけど。 その50年くらい後にくる「天保の飢饉」は直撃しちゃうんですよね‥

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