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[memo] 宗教と科学との関係

題 [memo] 宗教と科学との関係
日付 2015.2



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はじめに

いつだかキリスト教の信仰を持っている人と話をしているときに、ふと、 そういう話になったことがあります。 キリスト教の信仰と、科学的思考は両立するものなのか? と。

 そのときキリスト教の信仰をもつ人が語ってくれたこと。 それは「両立は十分可能」というものでした。どう可能なのか? というと。 ‥‥ちょうどそれと関係した話が、平田篤胤翁の本 『霊能真柱』(1812(文化9)年) を読んでいたら出てきてましたので、 私の言葉ではなく、平田翁の言葉で紹介しておきたいと思います。

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引用

因に云ふ。世の蘭学する徒、その学びの正意を非心得して、その窮 理家など名告る輩、すべて理を以ておし考へて、知られざることなしと云ふなるは、西洋人の事物 の理を窮め極めて、その知れざるところは、ゴツトの所為なりと云ひて、厚くその天神を尊む学意 に背へり。(子安宣邦校注(1998)『平田篤胤著 霊の真柱』岩波文庫, pp.192--193) //
ついでにいう。世の蘭学を学ぶ者たちが、学問の正しいこころを誤って心得、その究理家 などと名のる輩が、すべてを理をもって推して考えればわからぬことはないなどというのは、 西洋人が事物の理を追究して、しかもなおわからないことはこれをゴットの所為だとして 厚くその天神を尊む態度にそむいている。(相良亨訳(1984)「霊能真柱」『日本の名著24平田篤胤』中央公論社(中公バックス), p.256a)
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神の領域と、それ以外と

まず「この世の中」というのは2つのものに大別できる、と。 それは「神の領域」と「神の領域でないもの」。 近代以前においては、この世の中のほとんどのものは「神の領域」にあると考えられていた訳ですけど。

 それが近代になり、科学が発展してくるとともに「神の領域でないもの」が結構あることが 分かってきました。たとえば万有引力など。それまでは「なぜ物体が落下するのか」という問いには、 「それは神の仕業である」としか答えようがなかった訳ですけど、 それに別の答えを用意できるようになってきた訳です。これにより「神の領域」がすこし狭まり、 「神の領域でないもの」がすこし広がります。

 こうして近代科学の発展により「神の領域」はどんどん狭まり、逆に「神の領域でないもの」が どんどん広がってくる訳ですけど。このように「神の領域」をどんどん狭めてしまう 科学というもの、そして科学者というもの。それは神の意思、神への信仰に逆らう存在なのでしょうか? 平田翁はそれについてこう仰せです: 「西洋人の事物 の理を窮め極めて、その知れざるところは、ゴツトの所為なりと云ひて、厚くその天神を尊む学意」 (大雑把訳: 西洋人は事物の理を追究しつくす。そして追究しきれなかったところ、それこそが ゴッド(神)の所為であると考える、神への厚い信仰の態度)

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科学とは、神の追究

 つまり科学者は、宗教者とは逆の方向から「神」を追究しているということですよね。 「神の領域」を追究するのではなく、「神の領域でないもの」を追究していく。 その結果、どう考えても「神の領域でないもの」ではあり得ない事物が出てくる。 それはつまり「人智を超えた神の存在」を証明するものとなる、と。

 このことを江戸時代の国学者の平田篤胤翁がちゃんと把握していたというのは、 おお、さすがだな! と感じましたので、ここにメモしておきます。


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