[Most contents are written in Japanese Language] [Always under construction]

[チラシの裏]

[メモ] 秋田における神仏分離

題 [メモ] 秋田における神仏分離
日付 2014.2



[Table of Contents]

秋田は廃仏が激しい?!

たまたま、見つけたんですけど。

札幌市役所のサイト(?)に、 「悲願の本願寺道路」[URL]というページがあるんですけど、その中にこんな文が:

明治3年(1870)2月10日比叡(ひえい)おろしの吹く京都を出立、"人をして蝦夷地(えぞち)に行くを楽しましむの歌"を道中歌にして越中(えっちゅう)・越後(えちご)・酒田と北上し、「廃仏思想」の根強い秋田は海浜で青森に上陸ふたたび津軽の海を渡って函館には7月7日到着した。
たしかに言われてみると、幕末から明治最初期にかけての新政府による かなりムチャな宗教政策の思想的背景を考えるうえで、平田篤胤という人の存在はとても大きいですし、 しかも平田篤胤といえば秋田出身、最晩年も秋田で隠棲したのち逝去。‥そんな感じですから、 ふつうに考えれば 秋田で篤胤の影響が強くないわけないですよね。

[Table of Contents]

廃仏毀釈とは

秋田の話をする前に、廃仏毀釈についての一般的な話から。

 話は、新政府によって1968(明治元)年に神仏分離に関する通達が出されたところから始まります。 王政復古するから、宗教についても太古の昔のように祭政一致でいくから、それゆえ神社から 仏教色を排除せよ‥‥そんな内容の通達です。通達はあくまで「神と仏を分離、つまり 両者の線引きをキッチリと行え」というもので、とくに仏教をツブすという 意図はないような感じではあったみたいなんですけど。

【送料無料】神仏分離の動乱 [ 臼井史朗 ]

【送料無料】神仏分離の動乱 [ 臼井史朗 ]
価格:2,484円(税込、送料込)

[Table of Contents]

廃仏毀釈の背景

 しかしこの通達が引き金になって、それまでの社会矛盾が あちこちで爆発したようです。 しかし、どこで何が爆発するというのか。どうやら爆発したのは、 自分たちの身分が認められた神社の職員たちだったようです。ある本に曰:

これらの布告を契機にして、時まさに来れりとばかりに、天皇の命令という権威をかざして、 積年の私憤をはらそうと、社人どもが立ち上がったのである。‥(略)‥ 一例を京都の石清水八幡にとってみよう。社領は、六千五百五十七石余もあり、祈禱料の収入だけ でも、莫大なものであった。社内にある四十八坊の中で、幕府の祈願所として富裕をほこった豊蔵坊 のごときは、朱印三百石、それに祈願料が入るのだから、実際の収入は、どれほどあったかわからな い。しかし、こうした富裕も、これが実権を僧侶がにぎっていたことが、社人どもの私憤のもととな り、これが鬱積することとなっただけの話である。
 結局、諸坊が実権をにぎり、これが山上に君臨し、神職を山下に見下していた。神職たちへの配分 はきわめて少なかったのである。積年の私憤とは、経済問題にあったとみるべき (臼井史朗(2006)『神仏分離の動乱』思文閣出版, pp.21--23)
また仏教に対する為政者たちのムードとしては「仏教僧侶を養うには金がかかりすぎる」という のもあったようです。薩摩藩87万石において、寺社にかかる費用は約10万石 (臼井2006,p.27)という話もあります。太平の世ならいざ知らず、 風雲急を告げる幕末の頃に、藩の収入の10%以上を寺社にブチ込むなんて、どうよ? と思うのが普通ですよね。鵜飼2018も以下:
薩摩藩の廃仏毀釈は藩主が国学に傾倒するなどイデオロギーの影響は認められ る。だが、第一義的な目的は、寺院が保持する金属の徴収にあったと見てよいだろう (鵜飼秀徳(2018)『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』文春新書1198, p.56)
このように経済的な理由が最も大きかったと述べています。‥ただなー。そのために以下:
寺院や仏像、什物類、過去帳、文献のほとんどが、廃仏毀釈時にきれいさっぱり焼 却されていたからである。 (鵜飼2018, p.49)
ここまで徹底的にやるのは何なんだろうとは思いますけどね。

 社人の私憤、為政者の思惑、いずれにせよ廃仏毀釈の裏には経済問題が隠れているようです。

[Table of Contents]

奈良・興福寺の場合

この神仏分離に対する反応は、寺院ごとにバラバラだったようです。 政治的に非常に重要なものとして位置づけられていた寺院、たとえば奈良の興福寺は トップには代々皇族貴族出身の人を迎えていた訳ですけど。そういう寺院の トップの人たちは 篤い宗教心ゆえに出家したのではなく、いろいろな政治的な状況に基づいて 出家していることが多いため、神仏分離令が来たら割と簡単に還俗して神官になってしまう パターンも多かったみたいです(臼井2006,p.113; さらにこの興福寺の状況について 「奈良の町民たちは、まったくの無関心な状態にあった」(臼井2006,p.120)とも)。 世俗的繁栄を謳歌していた鶴岡八幡宮も同様に、 トップの人たちは あっさりと神主化したようです(臼井2006,p.103)。


 興福寺が割と簡単に還俗した理由の一つとして、鵜飼2018は その直前に滋賀の日吉大社で起こった神官らによる最初の廃仏毀釈暴動を挙げています(鵜飼2018, p.195, p.19)。

[Table of Contents]

富山藩の場合

他方、為政者の経済事情絡みで、単なる神仏分離を行うだけでなく、ついでに 社寺の整理・統廃合までしてしまおうという動きもありました。 なかでも有名なのは1870(明治3)年の、富山。富山藩庁は、神仏分離のついでに 寺院の大幅な統合をおこなって、藩内においては一宗派を一寺にする、 そんな かなり無謀な計画をたてたみたいです。特にスゴいのが浄土真宗で、 富山藩内には真宗の寺が1320程度あったみたい(臼井2006,p.135)ですから、 それを一つにまとめるなんてどう考えてもムチャですよねそれ。 ちなみに、この富山藩の企みについては、結局は翌1871(明治4)年の廃藩置県によって ウヤムヤな解決になったみたいですけど‥。

[Table of Contents]

佐渡の場合

それと佐渡でも廃仏は激烈だったみたいですけど、これもやはり行政の思惑があったみたいです。 明治維新の時期の佐渡は、人口約8万、寺院数がなんと539寺! つまり平均すると、一寺あたりの人口は約150人ということになります。一世帯4人とすると、 40世帯弱で寺を支えるのか‥ (臼井2006, p.140)。 そこで当時の判事の奥平という人(長州出身)が、この539ある寺を ほぼ1月のうちに80に統合せよとの指令を出して、大混乱‥ (1868(明治元)年11月〜12月)。 それ以外にも「説教をしてはいかん、法要をつとめてはいかん、出家をすすめ てはならん、仏殿や仏堂をつくってはならん、仏像はもちろん、木像といえども新規の造営はいっさ いまかりならん。自分の子供を出家させてもいかん。葬儀をやって火葬にしてはならん……但し僧侶 と穢多非人は別だ……というのだから、徹底した宗教の弾圧だったのである」(臼井2006, p.147) ‥と。それほどの弾圧をしたにもかかわらず、寺院の合併は予定どおりは進まず、 結局135寺の合併(それでも寺院数を1/4にまで圧縮)で終わったとのこと。

 奥平判事が出した火葬禁止(土葬)令、これについては‥

だが、佐渡は冬場は豪雪となる。この土葬命令には、島民は困惑し、後に願書を出 している。(鵜飼2018, p.146)
つまり「冬に雪積もってる状況で、どうやって土葬しろというのか!」ということで、 まあ、奥平の命令は現実無視の性急な暴走であることは間違いないですね。

 また佐渡の寺院の中には、奥平のあまりの強引さに、京都の本山に泣きついたところも あったみたいですけど「隠岐の国の廃仏ときたら、もっと凄惨をきわめて、とても佐渡の比では ないのだ」(臼井2006,p.155)と返されたとか‥。 (隠岐国では「農民までが、仏教排撃に味方することになってしまった」 「仏像木像石像残らず御首を落とし」「仏像には糞尿をかけて汚涜し、 これを広場につみあげて、経巻とともに焼き棄てたのである」(臼井2006,p.158)‥ 一時期は こんな状況だったようです。ちなみに隠岐ではもともと尊王攘夷志向が強かったことも あり、京都で儒学を学んだ中沼を中心とした「正義党」が自発的に 廃仏毀釈を徹底的に断行したようです。鵜飼2018, p.140)  しかし陳情の効果はあったようで、奥平は約一年ほどで罷免されたみたいです。

[Table of Contents]

そして秋田はどうか。

 ここまで仏教側が一方的弾圧されている例をいくつか紹介しましたが、  場所によっては、たとえば三河や福井などでは、行政側の あまりの暴政に対して怒った民衆が 暴動をおこす地域もあったみたいですけど。

 ‥じゃあ、篤胤の出身地であるところの 秋田ではどうだったでしょうか。冒頭で紹介した文のように、 あの、廃仏毀釈が激しかったとされる越中(富山藩)、越後(佐渡)に匹敵するほど、 いやいや、それよりもっと激しい廃仏毀釈が行われていたりしたのでしょうか。

[Table of Contents]

為政者の立場から

 秋田に神仏分離令が届いたのは1868(慶応4・明治元)年3月28日 (田中秀和(1997)『幕末維新期における宗教と地域社会』清文堂出版, p.269)のようです。 しかしその時期の東北は会津藩討伐するかしないかで緊迫していた時期であり、 この翌4月には奥羽越列藩同盟 [Wikipedia]、そして7〜9月には 秋田戦争 [Wikipedia]‥と続いており、この時期の藩には 割とどうでもいい(?) 神仏分離令に対処する余裕は なかったようです。 実際に藩が神仏分離に向けた調査を開始したのは おそらく翌1869(明治2)年に入ってからで、 その際には、秋田藩を奥羽越列藩同盟でなく新政府軍側に加担させた原動力と目される、 平田国学の影響を受けた下級藩士らのグループ(通称「砲術所グループ」?)が、 当然ながら 影響を与えたようです。

[Table of Contents]

古四王権現の神仏分離

ここで注目されたのが秋田市寺内にある古四王権現社。 「古四王権現は氏子中でも聖徳太子が全国に建立した四六ヶ所の四天王寺の一つとしての縁起を 持っており」(田中1997, p.280)、つまり、神社というよりは寺院に近い由来を持つと 考えられていたようですけど[秋田33-24]。 ここで砲術所グループの小野崎通亮という人が中心となって、 古四王権現から仏教的要素を全部削りとって「古四王神社」とし、さらにそれを正当化するため(?) 「古四王神社考」(秋田叢書3; [NDL];コマ番号261〜) なる書物まで出してしまいます(1870(明治3)年)。ここで「四天王寺と聖徳太子に付会するのは後世のもので、 古四王は越王で神であるとの見解を打ち出す。この序文で小野崎は天皇が神仏分離をするのは 祭政一致の根元であり、異教を予防する干城なのだと述べる」(田中1997, p.281)。 ‥んー、さすが平田国学に影響されてるだけありますね。宗教の中に「政治」を見てます。 古四王神社における神仏分離を、秋田藩における神仏分離のモデルケースにしようとする意図でもあったんでしょうか(1869(明治2)年〜1871(明治4)年)。

 ちなみに、この「祭政一致」について、臼井2006は「尊王と攘夷が、政治の指導理念だった明治維新初期の段階では、鼻いきがあらかったが、すでに新政府となり、積極的に開国し、文明開化の方向に 時代が大きく変わってゆくようになると、もう無用の理論となり」 「尊王攘夷から開国進取の方向へ新政府の方向が変わってゆけば、もはや、具体的な政治理論としての 指導性をうしなってしまう」‥と述べています(臼井2006, p.185)。 「祭政一致」という、仏教伝播以前もどの程度 本当に行われていたのかよくわからない、 非現実的とも思える方針は、 既存の伝統をブチ壊すという点では ものすごい破壊力を持っていたわけですけど。 現実的に新しい「何か」を作り上げていくのには ちょっと向いてなかったんでしょうか。

[Table of Contents]

民衆からみた神仏分離

このような 上の人たちの行動を、庶民はどう見ていたか。 ‥結論から言ってしまえば、ずいぶん冷ややかに見ていたようです。

[Table of Contents]

廃仏毀釈の噂は出ていた

 当時の状況についてですけど。菅元弘『飛耳記』によれば、1869(明治2)年7月頃に、こんな:

一、修験山伏真言宗迄坊主にて衣を着し候処、御一新に付皆々髪を立て、俗名に名を改め 院号・寺号一切に御停止之事
一、追々諸寺院も御停止神道を祭る様に相成候事 (田中1997, p.27; 元は『秋田県史 資料 明治編』下484-1 らしい) // (大雑把訳: 修験山伏や真言宗の坊主は、御一新ゆえ、剃髪をやめ俗名を名乗るべし。 院号寺号はすべて停止される。そのうち寺院も全部停止し、神社となる。)
こんな噂が流れていたらしいことです。つまり寺が全部廃止されて神社になるらしいぜ、との噂です。 藩が神仏分離について具体的な施策を施す前の段階で すでにこんな噂が出ているのは何故か、 というのはよくわかりません。国学派の人たちの考えが漏れてきたのか、 「秋田戦争」で佐竹方に加勢に入った新政府側の各藩の人たちが言っていたのか‥。 それに対する庶民の反応はどうだったか、というと。

[Table of Contents]

「平田先生は偏執」

 たとえば。大久保在住の菅原源八という人は、以下のように書き残しています。

儒神仏の三道は昔より鼎足の如しとあれども、伊勢の本居宣長以来近来平田大学先生より、我朝ハ神国なる に儒仏を信じ神道に入る者なきを深く心中に憤り、儒仏を弊廃せんと色々誹謗の書を著述して神道に引入れ んと欲すれども、千年以前より染ミ着たる儒仏の道なれバ容易にハ洗濯なるべからず。是を強て事するハ偏 執のやう也。(田中1997, pp.277--278から孫引き。大元は「放言雑記(2)儒仏神鼎足の事」『菅原源八遺作全集 上巻』) // (大雑把訳: 昔から儒教神道仏教はセットであったが、伊勢の本居先生・平田大学先生のあたりから 「わが国は神国なり。なして儒教仏教だけ信じるか」と憤り、儒教仏教を排斥して、 神道を盛り上げようとしている。儒教仏教はもう1000年以上から人びとに馴染んでいるから、 除去するのは無理でしょ常識で考えて。それを強引に行うなんて、偏執的だ)
儒教も仏教も日本に入ってからもう1000年以上経過していて、完全に日本文化と一体化している というのに、なんでそれを無理無理と排除しようとするのか。 無理に決まってるじゃん。‥こんな感じに言ってます。 いま私たちが思いそうなことと同じようなことを思ってますね。 また他の箇所でも「平田先生ハ大道を往かずして求めて小道を行ふ人也」 「大学先生は高名にも似合ぬ器量の狭き人なり」(田中1997, p.227から孫引き) と言っているらしく、 藩内の平田派の人たちに対しては、かなり冷ややかな見方をしていたことがわかります。

[Table of Contents]

「ババアどもは死んではならぬ」

この他にも、神仏分離に関して、1870(明治3)年に「仏信心之婆共へ」という戯文が出たそうです。 その中身といえば:

今般御一新に付地獄極楽被廃置候、就而は乍不便以来死申間敷事。
一、前件に付釈迦・阿弥陀之類渡世可差支故、日雇家業申付候間、其方勝手に召遣可申候。日給は是迄之通、 鐚銭三文、ブンヌキ一本たるべき事。 (田中1997, p.279から孫引き。大元は『秋田県史 資料 明治編下』490) // (大雑把訳) 「仏教を信じるババアどもへ。--- このたび御一新により、地獄極楽は廃止することとなった。よって不便とは思うが、 死ぬことは禁止とする。--- 上記の件につき、釈迦、阿弥陀などが失業いたしたゆえ、めいめい 勝手に日雇いで雇用すべし。日給は従来どおりビタ三文、ブンヌキ一本とすべし」
‥‥上のほうが行おうとしている 廃仏毀釈に対する、かなり思い切った皮肉ですよね。 廃仏毀釈について、庶民はかなり冷ややかに見ていたことが伺えます。

(※ 右のバナーは、本文とは関係ありません。広告です^^;)

 この庶民の冷ややかな心情は、実際に「それ以後明治六(1873)年に至っても神社社地内へ 仏塔が建てられ、神社から排除したはずの仏像の神体が信仰され、民俗的な石碑などの 建立が続けられた。村中では神仏混淆の様相は容易に変わらなかったのである」(田中1997, p.279) という感じの行動からも裏付けられます。 たしかに 水神社 [URL]とか、 主祭神は「水波能売命」とされているみたいですけど、それは誰がどう見てもダミーで、 実質的な ご本尊は千手観音様ですしねー。他にも 薬師神社(一時期、少彦名神社とした時期もあった模様) [URL]とか 薬師神社(三十三観音あり) [URL]とか、 観音社 [URL]とかもありますけど、これらもやはり 上からの圧力を、庶民がテキトーにやりすごした結果という感じになるんでしょうか。 (ただ鹿角は佐竹領になったばかりのはずですから、ちょっと雰囲気は違っていたかもしれませんけど)

[Table of Contents]

[おまけ] 信心のババア

どうでもいいことですけど。

 平田篤胤翁(1812(文化9))『霊能真柱』の中に、老婆の信心についての ちょっと触れている箇所がありましたので、紹介しておきます。

世の古学する徒、おほかたは、‥(略)‥ また、その率こられぬ徒は、所見いと狭 くて、吾師を尊むも、老婆が仏をたふとむ如く、その実に、吾師は、潮の八百重の留ま るかぎりに、唯一人と坐す、学びの大人におはすることを、熟弁へて尊むならねば、こ れも亦、ともすれば、魂に柱なきことをもいひ出づめるは、いとも慨くかなしくこそ。 (子安宣邦校注(1998)『平田篤胤著 霊の真柱』岩波文庫, pp.198--199;太字は引用者、すなわち私による) //
そもそも世の古学の徒は、だいたい ‥(略)‥ また、邪悪の道に引き入れられな い者は、そのこと自体はよいことではあるが、ただ一般 に、ものの見方考え方が狭く、我が師を尊ぶことも老婆 が仏をたっとぶ様にちかい。つまり、この者たちは、こ の世界でただ一人の真実な学者であるということを、よ くわきまえた上で師宣長を尊んでいるのではないため‥ (相良亨訳(1984)「霊能真柱」『日本の名著24平田篤胤』中央公論社(中公バックス), p.259b--260a; 太字は引用者、すなわち私による)
‥「盲信」の典型例になってる! 江戸時代からそういう扱いかッッ!! (^o^;

[Table of Contents]

簡単な、まとめ

 こんな感じで、藩の中には平田系の人たちがいて、発言力を持っていたにもかかわらず、 藩全体としてみると、神仏分離も、廃仏毀釈も、かなり骨抜きな感じで行われていたようです。

 これってやっぱ、その直前にあった「秋田戦争」の被害がデカすぎて、そこからの復興を まずしないといけない状況があった、というのが結講デカいのかもしれませんね。 王政復古の新体制か、あるいは奥羽越列藩同盟かといったイデオロギー対立の結果が 秋田を主戦場とした秋田戦争であった、と。そして ようやく戦争が終わって、 ようやくイデオロギー対立から解放されるかと思ったら今度は 「仏か神か」というイデオロギー対立が持ち込まれてきた。さすがにそれだと 「もう、そういうのは、いいよ」という気分になりますよね普通。それがこの庶民たちの 冷淡な視線に表れてるんじゃないかと思ってしまいます。


関連(?)情報

[Total pages] [Prev][Next]