[みちのくプチ巡礼情報 :: 秋田県]

秋田三十三観音

The 33 Kannons of Akita. // 秋田三十三観音。

[前] 札所 No.31-33

[附] 巡礼記と小町伝説

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はじめに

錦仁(2004)『小町伝説の誕生』角川書店(角川選書364) という書籍で、 秋田県雄勝町に伝わる小町伝説の発展についての分析に「巡礼記」を使っているのを 見つけましたので、紹介させてください。

全国に数多ある「小野小町ゆかりの里」の中でも、ぶっちぎりの知名度をもつ 秋田県雄勝町における「小町伝説」、 この伝説の発展の過程を考えるうえでの重要な資料として「巡礼記」が利用されています。

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伝説は平安時代から

 まず、雄勝町が小町の古里であるかどうかについてですが、言ってしまうと、 それを裏付ける証拠は何もないわけです。雄勝町には、小町の父・良実の屋敷跡とされる 場所がありますけど‥

  • そもそも小野良実という人は架空の人物くさい、
  • 屋敷跡とされる遺跡も江戸期以前とは思えない(p.27)、など。
ただ藤原仲実『古今和歌集目録』(11c末? 小町没年は900年頃ぽいので、没後200年弱)に 小野小町が「出羽郡司の女」と書かれていますので、平安時代末期の京都のあたりでは すでに出羽国、つまり今の秋田か山形の生まれらしいぜ、という伝承があったのは 確からしい、という程度ですよね。また
  • 小町は年老いてから みちのくに行った、また
  • 小町はみちのくで野垂れ死にしたらしい
こんな感じの伝説も平安時代からすでにあったことも 確かなようです(p.262)。また晩年に皮膚病を患った小町が、 薬師如来に治してよと歌を詠んだら薬師如来が治してくれた‥という伝説も雄勝町のみならず 全国各地に残っているようです。これについて錦2004は、小町という一人の人が 伝説のベースとなっているのではなく、以下:
「醜い姿を人に見せ、薬師の効能を説き、 喜捨を仰いでいた。そういう女が各地の薬師堂を旅して歩いていた、というのが研究者たちの 一般的な理解である。(p.268)」「近世になって、村に薬師堂を建立した。あるいは御堂が 荒れ果てたので再建した。そこで由来と効能を説く縁起が必要になり、既存の有名な話を 採用したのではなかろうか。(p.270)」
このように、名もなき数多の(老?)女たちの存在が最終的に「小町伝説」として 結実していったのではないか、そして各地にある お堂の維持管理費工面の口実として「由緒」があったほうが有利だったため、 各地につたわる「由緒」に 小町伝説などの既存の有名な伝説が吸収・引用された結果 「小町のふるさと」が全国各地に登場することになったのではないか。 ‥このような指摘をおこなっています。それら「小町のふるさと」の中で 最も知名度が高いのが、羽後国(秋田県)雄勝ということになります。

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小町=雄勝説の強まりは江戸時代?

 いずれにせよ、そんな感じで各地に残る自称「小町ゆかりの里」の一つにすぎなかった雄勝町が、 なぜ全国レベルの名声を勝ち取ることができたか。錦2004は高橋武多之助(p.166)(1602年頃没(うろおぼえ))という男に注目します。

 もと最上義光の家臣だった高橋は戦国時代最末期、関ヶ原の戦いが終わった直後の頃、 雄勝が最上氏の支配下にあった わずかな時期に、 雄勝の村民たちと一緒に最上に反旗を翻し、討死します。 その息子が修験者となり、覚厳院という寺院を中興し、この覚厳院・小野寺が小町伝説を整備し 流布させたとの読みです(p.182)。 (近場にある 「川原毛霊場」にあった 奪衣婆像を「小町像」として小野寺に持ち出し(p.203;右図のへんから?)[*1]、 のち、いかにも「小町」のイメージに近い姫姿の像(現在、神像として小町堂に.p.220)を 用意して、奪衣婆像と取り替えたのではないか、とも。p.216)

 そして、この地に残る小町伝説に藩主佐竹氏、また藩内の文人たちが 強い関心をもち、事あるごとに江戸などで小町伝説を吹聴して回ったのではないかと(p.112)。 それが俳諧ネットワーク等で広がっていき、 その結果、もとは単なる民間伝承レベルだった雄勝の小町伝説が 文化的な、文芸の次元の伝説となり、18世紀末から19世紀初の頃には 全国レベルで小町といえば雄勝、という感じになっていったのではないかと(p.206)。 (また、戦国時代まで雄勝一帯を支配していた小野寺氏は、 祖先の一人が小野篁(伝説では小町の祖父)が 建立した寺院に住んでいたゆえ、小野の寺、小野寺、と名乗ったのが起源という伝説もあり、 それゆえ地元 雄勝にあった小町伝説を大切にしていたのでは、とも。p.195)

 (ところで松尾芭蕉『おくのほそ道』では1689(元禄2)年旧暦5月に 雄勝町の割とすぐ近く 新庄まで来ているのに、雄勝は素通りでした。当時すでに雄勝町が「小町の里」として有名だったのであれば 芭蕉は雄勝町に訪れている方が自然ではないか?‥と考えてみると、 17世紀末は「小町の里」伝説はまだそんなに有名ではなかった? あるいは秋田六郡(佐竹領)には 入れなかったんでしょうか??)

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小町伝説の初期形態を伝える「巡礼記」

 さて。ここでようやく「巡礼記」です。そんなわけで、雄勝町と小野小町に関する 資料をいろいろ集めてみると、その最古のものが『奥羽永慶軍記』(1698?)で、その中に 「1600年に戸沢盛安の子息と妻が小野の廟所の前を通った」という感じの記述(p.118)が あるようです。ただこの記述はあまりに簡潔であり、その頃の小町伝説がどんなものだったかが そこから推測できるレベルのものではありません。

 それなりに詳しく小町遺跡・伝説を紹介した、現存する最古のものが この「巡礼記」(1733)の 七番札所の紹介記事のうち、「一本」と書かれているもの [URL]だそうです(pp.119-122. に、 錦による校合文が掲載されています。秋田叢書のテキストよりも信頼性が高そう。)。 「巡礼記」の内容を、錦2004は以下のようにまとめています(p.122)

  • 小町伝説は、七番札所の小野寺に深くかかわる話である
  • 小野寺は千手観音を本尊とし、慈覚大師のいた庵の跡地に小野良実が建立した
  • 慈覚は、小町の古書(手紙の類)を集めて小町百歳の像をつくり小野寺に納めた。この像は(「巡礼記」作成時基準でみた) 現在、横手市金沢の城跡付近にある
  • 小町は、ここで生まれて上京し、年老いて帰ってきた。それより没するまでの小町につ いて語るストーリー性のある歌語り・歌物語的なものがあった
  • それは深草少将とのいきさつを述べたものだった。九十九本の芍薬の園があり、その一 本ごとに小町と少将の歌が伝わっていた。また、桑ヶ崎御堂(現在、磯前神社(右図)境内)の薬 師如来は少将の持仏を、山田薬師の十一面観音は小町の持仏を祀っており、二人の伝承は 薬師・観音信仰と深いかかわりをもっていた。
菅江真澄(1785) 『小野のふるさと』[『菅江真澄集』しおり] が描く小町伝説の中身は、この「巡礼記」の内容がかなり 参照されている(p.44)ことから、これが18世紀初めの頃の代表的な小町伝承の内容とみて 間違いなさそうです。菅江1785では、地元の伝承として以下:
  • 小町の母親が鹿だとか、父娘と知らずに通じてしまった(p.44; 菅江1785)とか、
  • 小町と芍薬と雨の関係(p.55,64; 菅江1785)
こんな「巡礼記」では述べられない伝説も紹介されています(p.44)ので、 「巡礼記」には採用されなかった伝承もあったことは確かです。しかし 基本的な部分はほぼ「巡礼記」で網羅されていると見てよさそうです(p.76)。

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 そしてその約40年後、 同じ菅江真澄(1822?)『雪の出羽路・雄勝郡』が描く小町伝説を見てみると、 同じ菅江が1785年に書いた『小野のふるさと』の小町伝説とは内容がずいぶん異なっている ようです。

 『雪の出羽路・雄勝郡』(1822?)が描く小町伝説を見てみると、 小町伝説から「性愛と罪障のまがまがしい 印象を与える話が完全に消えた。村人の農耕生活に密着し信仰の対象としてあった小町の姿も 影を薄め」(p.85)、そのかわり「父、母、養父母をめぐる小町の出生と成長、小町が 雄勝から京都へ上る話」(p.87)が追加され、そこに伝承が物語として整備されていく過程を 見ることができる、と錦2004は指摘します。また淀川盛品(1815)『秋田風土記』にも 類似の物語がある(p.91)ようですが、いずれにせよ、この時期に 物語は徐々に整備されていき、 なかでも最初はまったく出ていなかった小町の母親の名前が出てきて、その名前はどこから?と なると覚厳院が云々‥(p.102)というのはさておき。とにかく文化年間(19c初)、藩主佐竹義和公が 「小町の里」に強い関心を抱いたことで小町関連で いろいろ整備が進み(p.109)、 それが現在のような状況に繋がってきたんじゃないか、ということらしいです。

 読んでて「おー、すげー」と思ってしまいましたので、ちょっと紹介しすぎた感じがありますが、 「巡礼記」はこのように江戸期初期における、各地の伝承のありようを知るための資料として 重要視されているようです。


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[余談] 小町はやはり雄勝出身?

ネタ元がよくわからないんですけど、小野小町は小野滝雄という人の娘だった、という説があるそうです。 私がたまたま目にした文書を引用してみます:

 出羽国雄勝郡の郡衙に下向してきた小野滝雄は現地妻を持ち、その娘が小野小町である。美しく 才能に優れた少女小町は父に伴われて京に上り、小野氏の子女として、当時、氏の長者であった 小野篁の第(屋敷)に入り、さらにその才能を磨かれ、仁明天皇の後宮に更衣として仕える。 ‥(略)‥
 角田文衛博士は、小町の本名は小野吉子で、承和九年(842)正月八日に正六位上を授けられたと 考証している(『王朝の映像』)。天皇の寵を得ても皇子女を生まなかった小町は、 「花の色はうつりにけりないたづらに」の心境から後宮を退出。やがて生まれ故郷に帰ったものであろう。 そうした状況を考えると、小町が秋田生まれで、秋田美人の代表であることがはっきりしてくる。
 世を捨てた小町の消息は遠い出羽国からはなにも都に届かず、徒に落魄伝説ばかりが後世に残る ことになった。 (野添憲治編(2002)『秋田県の不思議事典』新人物往来社.,p.58 (この項の執筆担当:小野一二))
小野滝雄という実在の人物に吉子という娘がいたのは本当なのか、というのはよくわかりません。 ここで私がものすごく気になったのは角田文衛という人の名前が出てることです。この文をよく読むと、 角田博士が言ってるのは「小町の本名は吉子で、842年に官位を授かった」ということだけなんですけど。 そして それ以外の部分については、私の調査では「そういう話もある」といった程度の話のはずで、 ですからそれをいくら重ねても「小町が秋田生まれで、秋田美人の代表であることがはっきりしてくる」 ようには思えないんですけど、それを何でこの小野さんという人はここまで言いきっているのか。 しかも、この小野さんの思い込みを補強するかのように見せかけて、 小野さんの思い込みとは直接関係ない角田博士の名前を出してるのは何なのか (というか出典を出してるのがその角田博士の部分だけというのは何なんだ??)、 というのは非常に気になるところです。‥‥何かウラがあるのかなー、と勘ぐりたくなってしまいますけど。


*註1
私が錦2004を読んで、非常に気になったことの一つに、奪衣婆のことがあります (奪衣婆については、とりあえず仏説地蔵菩薩発心因縁十王経 [URL]をどうぞ)。 雄勝の例に限らず、小野小町と奪衣婆が結びつけられてる例って、結構あるんですよね。 でも、なんで絶世の美女とされる小野小町と、三途川のほとりにいる奪衣婆が結びつくのか。 柳田国男は奪衣婆と「姥神」とを対応させていて、川村2000の言を借りれば柳田は「おそらく近世頃に、 仏教--地獄観の全国的な普及を通じて、姥神が奪衣婆へと名を変えたといっているにすぎない。」 ‥(略)‥「姥神信仰の奪衣婆信仰との複合(習合)、あるいは奪衣婆信仰による姥神信仰の簒奪が、 柳田の結論だったといえる」(川村邦光(2000)『地獄めぐり』筑摩書房(ちくま新書246). p.157.)、 また「「山姥奇聞」の終わりで、柳田は「山の神が女性であり、山にあって子を産む」という 信仰が山の神信仰の核心だと指摘し、山の神祭祀による多くの獲物の収穫という多産性・豊穣性を、 姥神--山姥--山の神という"女神"の本性としていたようだ」(川村2000,pp.158--159)、 そしてまた実際に「奪衣婆の像が姥神に、あるいは逆に姥神の像が奪衣婆に転用されていることが 多くある」(川村2000,p.164)ようです。これらのことを強引につなげると、奪衣婆は 単に着物を剥ぐ鬼みたいなのではなく、 多産性・豊穣性という女性のある種の理想を体現する神、つまり女性のひとつの理想像としての 側面もあり、だから なかば神格化された伝説の女性・小町に重なってイメージされた、という 感じなんでしょうか。私なんか、小町という人からは 多産とか理想的な人とかいうイメージは 全然受けないんですけど。でもそれは近代以降はそれなりにちゃんとした情報が我々庶民にも 届くようになったからで。江戸時代の庶民レベルでは、おそらく小町に関する具体的な 情報はほとんど得られず、ただ「なんか都で名をあげたスゲー女」程度の情報しか持ってなかった 可能性もありますからね。それなら、まあ‥。

中野純(2010)『庶民に愛された地獄信仰の謎--小野小町は奪衣婆になったのか』講談社+α新書. [URL]という本もあるようですが、未見です。
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