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志立正知(2009)『<歴史>を創った秋田藩』笠間書院. という書籍で、 秋田県仙北三郡などに伝わる義家伝説の展開についての分析に「巡礼記」を使っているのを 見つけましたので、紹介させてください。
「巡礼記」の中に、私が知ってる歴史的事実とは、ちょっと合わない記述が見られる箇所があります。 たとえば13番 [URL]。 「八幡太郎義家公城の跡、金洗城又厨川の城とも云り」とあります。 義家・厨川とくれば奥州十二年合戦(前九年合戦)の舞台、 盛岡市北部の厨川のことかと思うのですけど、 私は何となく「ああ、金沢のへんも厨川というのか。よくある地名なのかな」なんて思った程度でした。 また17番[URL]の 「一本」にも「源頼義公、同義家公」の霊地とありますけど、これも 後三年の源義家はともかく、その父の源頼義はここに来てないはずだけど、まあ、 義家公の父親だから‥と、あまり深くは考えていませんでしたし、 その次の18番[URL]の 「一本」などにも義家公が登場してきますが、やはり、あまり気にしていませんでした。
[Table of Contents]しかし志立2009を見ると、それは決して見過ごしてよい問題ではない、というか、 それをそんな感じで見過ごしたら面白くないよ、ということがわかります。 どういうことかというと。秋田仙北地方を主な舞台とした 『金沢安倍軍記』(1678頃;第三期新秋田叢書12;p.93)という、 あまり知られていない書物があるのですが、 どうやらそこで書かれている内容が、この「巡礼記」に影響を与えているようなのです。 では、その『金沢安倍軍記』の内容とはどのようなものか。 概略を簡単に紹介すると以下:
志立2009は、この物語の謎を解明するため いくつかのポイントに注目します。 まず、この『金沢安倍軍記』は実は独立した書物ではなく、もともと 『御領分神社仏閣縁起』という書物の後半部分であったこと(p.59)。この 『御領分神社仏閣縁起』は雄物川町にある沼館八幡宮の縁起を記した書物なのですが、 藩からの命令により1677年に藩に提出されたものであること(p.71)、また この沼館八幡宮は戦国時代の領主・小野寺氏ゆかりの場所(p.98)であり、江戸時代には 藩主、また家老の梅津半右衛門が深く関与していたこと(p.105)。これらのことから、 源氏の名家である佐竹家と、義家由来の沼館八幡宮を関連づけようとする 何らかの動機があったのではないかと。
(佐竹家は、八幡太郎義家ではなくその弟・新羅三郎義光の末裔なんですけど、こと秋田においては 八幡信仰を強調し、義家との関係を強調していたらしいです。pp.17,254)
[Table of Contents]別のポイントとして、『金沢安倍軍記』では、 小野寺(架空の沼館家の家臣として)・戸沢といった、戦国時代に仙北三郡を支配していた 大名たち、またその有力家臣たちの祖先とおぼしき人たちが登場し、義家公に加勢し、 その結果、仙北郡にそれぞれ領地をいただいた、という展開になっています。 これを志立2009は以下のように分析します:
これら2つのポイントから、おそらく、藩主や家老の梅津半右衛門らによる、 旧小野寺家臣団の取込みのための方策ではなかったかと(pp.127,134)。 そしてその捏造(?)は藩も黙認しただろうし、寺社も「義家公のご由緒」となると 藩の保護が受けられやすい(とくに、藩の財政が悪化してきた18世紀頃.p.257)ということで、 その架空の話(と彼らが知っていたかどうかは 不明ですが)が広がっていったのではないかと(p.132)。 ただ18世紀後半あたりになると今度は出所があやしい『金沢安倍軍記』な伝承にかわり、 史実であり金沢を舞台とした後三年合戦絡みの伝承に徐々に変わってくると(p.159)。 しかし伝承の一部は、中央集権の新しい統治システムの構築をはかる九代藩主義和や、 その意をくんだ菅江真澄による新たな伝承の構築に利用されたと(pp.217,238,253)。
[Table of Contents]でも。義家との関連というのであれば、実際に仙北金沢が舞台となって 義家公も出陣した「後三年合戦」絡みのエピソードでいいじゃん (実際に後代にはそうなったみたいだし)。 なんで史実である後三年合戦のかわりに、 奥州十二年合戦(前九年)絡みの捏造された逸話を使ったの? とも思いますけど。
これについては、 おそらく討伐対象が安倍氏であることが それなりに重要だったのではないかと(p.85)。 奥州十二年合戦で源氏と戦って負けたのは安倍貞任らの安倍氏だった訳ですけど、 戦国期に秋田郡を支配していて戸沢・小野寺家と抗争を繰り広げていた 安東(秋田)氏は安倍貞任の末裔を自称していたのです。 国替えによってその安東(秋田)・戸沢・小野寺家の旧領に入ることになった 佐竹家としては、戸沢・小野寺両家の旧臣たちを慰撫するために 「自分らは敵ではない。平安時代にともに安倍氏と戦ったではないか」という ストーリーを強調したかったのでしょう。
[Table of Contents]
さて。ここでようやく「巡礼記」(1733;p.54)です。
まず、ここまで述べてきたような推論のための資料として「巡礼記」は重要視されるわけです。
また、この「巡礼記」と後代の地誌などを比較することによって、伝承の時代ごとの変化も
見て取れます。たとえば
巡礼記の22番[URL](現 秋田市)、
ここに「義家公」の文字は全然ありません。27番[URL](現 男鹿市)もそうです。
しかし『久保田領郡邑記』(1800頃)を見ると、これらの札所にも
『金沢安倍軍記』系の伝承と思われる、義家公、また貞任らの名前が登場しています(pp.147--158)。
このように義家伝説の広がりを確認する手がかり以外にも、
たとえば
18番[URL]。
ここは「巡礼記」では義家公ゆかりの霊場とされていますが、
菅江真澄(1826?)『月の出羽路 仙北郡』では「祭神として神功皇后がクローズアップされ、
それにまつわるさまざまな伝承が中心となっている(p.241)」。(『月の出羽路 仙北郡』の
引用部分、なにやら神様の名前がいっぱい書いてあって、何がなんだかわかりません^^;
。)
つまり、ここが義家公ゆかりというのは史実としては可能性がほとんどないし、さらに、
『金沢安倍軍記』系の伝承を引継がなくても特に問題なさそうな場所については、
伝承をより史実に近づけるための伝承の取捨選択が行われていた、と。そのような時代ごとの
伝承の変遷を見るうえでの重要な資料の一つとして「巡礼記」は活用されているようです。
江戸時代後期、1788(天明8)年に幕府巡見使に随行して東北各地をまわった古川古松軒という人が
『東遊雑記』という書物を残しています。これを読むかぎり、古川は秋田六郡について まったく良い
印象を残さなかったようで、
「山形・鶴岡・本庄・亀田辺りなどと、この所にくらべ見れば雲泥の違いなり」(p.88b)
(本庄は本荘のこと。秋田六郡は それら別の大名による支配地とくらべてムチャクチャ悪い、と書いてます。
それと土崎、野代(能代)も久保田城下より良い感じみたいです)、
「この辺の風俗の義理礼法は元より知らず、身をかざるということもしらず」(p.90b)、
「民家のもようはいずかたまでもよろしからず。くれぐれも御領主の政事にありと思われしことなり」(p.94b)
‥などなど。結局その原因は「御領主の政事にあり」と、地元の人なら たとえ思ったとしても
絶対言えないことまで書いてますね。
ちなみに当時は八代藩主・佐竹義敦 [Wikipedia]から「中興の名君」とも呼ばれる九代藩主・佐竹義和 [Wikipedia]に替ったばかりの時期です(藩主交代は1785、初のお国入りが1790)。
義敦公は文人としてはともかく、為政者としての評判は悪いみたいですので、やっぱり‥という感じではあります。
(さらにさらに。鈴木らが「六郡巡礼記」を書いたのが1729年、
五代藩主・佐竹義峯 [Wikipedia]の頃になります。この義峯公についてWikipediaには「暗愚」と書かれています^^;
この後に「秋田騒動」(1753年頃)もあったりして、18世紀の秋田六郡は義和公の出現(1785)まで かなりひどい感じですね。)
それはともかく。古川が金沢を通過したとき地元の伝承についてこんなことを書いています: