[仏説地蔵菩薩発心因縁十王経 (発心因縁十王経、地蔵十王経)]

地蔵十王経について

成都府大聖慈恩寺沙門蔵川述
『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』(12世紀?)
(発心因縁十王経、地蔵十王経)

に関する「めも」です。


[前] [朝鮮]済州島の巫覡と十王

奪衣婆

[Table of Contents]

奪衣婆と懸衣翁

奪衣婆について。『地蔵十王経』によれば葬頭河、奈河津を渡る川岸のあたり‥

庁舎の前にある衣領樹という大樹の下に、 奪衣婆、懸衣翁という二鬼あり。 婆鬼は盗みの罪を咎め、亡者の指を折る。 翁鬼は不倫を憎む。亡者の頭を足に押し付けさせ(?)、 男に女を背負わせ二人にタガをはめ、急流を渡るよう追い立てる。 婆は皆を樹下に集め、衣服を脱がせる。翁は衣服を枝にかけて 各人の罪業の軽重を調べ、次王に報告する (地蔵十王経)
つまりジジとババでは分業体制ができていて、ジジ(懸衣翁)は不倫チェック、追い立て、衣服の重さによる罪業の軽重チェック。 ババ(奪衣婆)は盗みチェック(制裁も?)、奪衣。

 平安中期の「法華験記」(11c中頃)にも、奪衣婆らしき人物が登場しているようです:

冥途に向かって、深山を越えた後、大河を前にして醜い嫗 の鬼が大きな樹の下にいるのを見た。嫗は衣を脱いでこの川を渡れ、という。 (石田瑞麿(2013)『日本人と地獄』講談社学術文庫, p.167; 『法華験記』中70)
こちらに爺はいないようですね。婆もなぜ服を脱がすのか、脱がしてどうするのか? などのことは よくわかりません。そのへんの設定は決まっていなかったのか、それとも 周知の設定だから語りを省略したのか‥。

[Table of Contents]

最初はジジだけ?

 しかし。上で紹介した『地蔵十王経』の記述につづいて述べられている韻文を見てみると:

二七日 亡者はついに 奈河渡る とにかく大勢 河渡りゆく
先導の 牛頭は鉄棒 肩はさみ 馬頭は叉 腰打ちたたく
牛使い 牛食う者には 牛頭来たり 馬に苦あれば 馬頭多く来る
全裸ゆえ 凍てつく寒苦 身にしみる 翁は悪眼 とがる牙むく (地蔵十王経)
こうなっています。かろうじて4行目の後半に「翁は悪眼 とがる牙むく」とだけ 言及されています。ジジもババも 影、薄いなあ‥。 この韻文、じつは前半の2行は(本当に)中国で作られた 『預修十王経』にも 出てくる部分、つまり中国と日本で共通して存在していた韻文です。 対する後半の2行は(日本産である可能性が濃厚な)『地蔵十王経』のみに 出てくる部分であり、つまり『十王経』が日本にやってきた後で 追加された可能性もありそうな韻文です。

 このことから、だいたいこんな感じのことが妄想できそうです:

  • 中国で作られた『預修十王経』の対応箇所では、ジジもババも影も形もない
  • つまりジジとかババは国産、日本独自のキャラか??
  • 韻文部分が散文部分よりも製作年代が古いと仮定すると、 最初は「ジジ」だけあって「ババ」はいなかったかもしれない
  • しかも韻文の「ジジ」は「悪眼 とがる牙むく」と、散文部分とはあまり 対応しない形容のされかたをしている。つまりまだ「ジジ」のキャラ設定ができてなかった?
  • つまり『地蔵十王経』の韻文部分ができた時代と、散文部分ができた時代のあいだに、 ジジ・ババのペアとなり、名前やキャラ設定ができあがったのでは?
  • その後。なんかジジは存在感が薄くて、ババばっかり目立ってる感じ。 たとえば 山形県の山寺(立石寺)に行ったら「姥堂」があってそこに奪衣婆の像が安置されていました が、ジジはどこに‥

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

東北の地獄絵 死と再生 (三弥井民俗選書) [ 錦仁 ]
価格:3024円(税込、送料無料) (2017/9/14時点)


[Table of Contents]

平安中期はジジもババもいなかった?

 そういえば。『地蔵十王経』成立とほぼ同時期になるかも(?)な感じの 『拾遺和歌集』(平安時代;1007年頃)にある菅原道雅女の歌:

  地獄の形描きたるを見て
みつせ河渡水竿もなかりけり何に衣を脱ぎてかくらん (雑下543)
この歌から「素直に読むかぎり、三途川を渡った亡者みずからが衣服を脱いで樹木に掛けるとも 解される。当時の「地獄絵」には、奪衣婆も懸衣翁も描かれていなかったのであろうか」(錦2003, pp.37--38)と解釈できるのは面白いですね。平安時代中期の「地獄絵」には川(みつせ河)はあっても、 ジジもババも 衣服をかける木の枝さえなかった、と。 ということはつまり、ジジもババも木の枝も、貴族たちが「地獄絵」を見て感じた不満(?)を 埋める感じで登場してきたのかもしれませんね。 もっと他にも事例があるといいのですが‥

 ちなみに奪衣婆については、小野小町とか、姥神との関連で論じられることもあります。 そのへんについては、とりあえず [ 秋田三十三観音:: [附] 巡礼記と小町伝説 ] をどうぞ。

 奪衣婆は、三途の川かどこかの川岸にいることはわかります。 川岸といえば、 [ 賽の河原 ] はどこに? 子どもたちは、どこで石を積んでるの?? とか 思ってしまいますけど。この文献では、そのへんのことについては何も触れられていません。 つまり、たぶん本経が成立した頃には まだ「賽の河原」という設定、 そこで子どもが石を積むという設定は出来上がっていなかった。あるいは、 その設定を知ってるのはごく一部の限られた人間だけであった、ということが言えそうです。

[次] 火車