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西院河原地蔵和讃 (賽の河原地蔵和讃)


 

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Introduction

以下ノ本文ハ

石川県加賀国能美郡小松  別宮又四郎 出版 『さいのかはらぢぞうわさん』(1884;明治17年) [URL]
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関連URLs: [ 西院河原地蔵和讃について ]

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本文

さいのかはらぢぞうわさん

[p.1]
さいのかはらぢぞうわさん
これはこのよのことならず。しでのやまじ
のすそのなる。さいのかわらのものがたり。
きくにつけてもあわれなり。二つや三つや
四つ五つ。十にもたらぬみどり子が。さいの
[p.2]
かわらにあつまりてちちこひしははこひし。
こひしこひしとなくこゑは。このよのこゑとは
ことかわり。かなしさほねみをとおすな
りかのみどりこのしよさとして。かはら
のいしをとりあつめ。これにてゑかふの
とうをくむ。一じうくんではちちのため。
二じうくんではははのため。三じうくんで
はふるさとの。きやうだいわがみとゑかふ
して。ひるはひとりであそべども。ひも
いりあひのそのころは。ぢこくのおにがあら
[p.3]
はれて。やれなんぢらはなにをする。しや
ばにのこりしちちはははついぜんざぜん
のつとめなく。ただあけくれのなげき
には。むごやかなしやふびんやと。おやの
なげきはなんぢらが。くげんをうくる
た子となる。われをうらむることなかれと。
くろが子のぼうをのへ。つみたるとうを
おしくずす。そのときのうけのぢぞ
うそん。ゆるぎいでさせたまひつつ。なん
ぢらいのちみぢかくて。めいとのたびに
[p.4]
きたるなり。しやばとめいどはほどとう
し。われをめいどのちちははと。おもふて
あけくれたのめよと。おさなきものを
みころもの。もすののうちにかきいれ
てあはれみたまふぞありかたき。いまた
あゆまぬみとり子を。しやくじようの
ゑにとりつかせ。にんにくじひのみは
だへに。いたきかかへてなてさすり。あは
れみたまふぞありがたき。
なむあみだぶつ
[p.5]
明治十七年七月廾二日  出版御届
同    九月     刻成発売
 出版人 石川県加賀国能美郡小松上本折町九十三番地
            別宮又四郎
定価壹銭貳厘
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大雑把訳

[ 大雑把訳はこちら ]
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めも

[ 和讃の意図について ]

「西院河原」というのは「さいのかわら」ということで、他にも「賽河原」「賽の河原」などの 表記があります。たぶん「さいのかわら」という言葉だけ先にあって、後から テキトーに字を当てた結果、「西院」とか「賽」とかの表記違いが出てきたんじゃないかと 思います。

空也上人(10c)作とされていることが多いですが、 実のところは近世初期〜中期にできあがったと考えられているようで 「真鍋氏は、こうした和讃の成立を江戸初期から宝永・享保のころ、大部分は十八世紀前半の 作と考えた」(速水侑(1975)『地蔵信仰』塙新書49.p.156)とのことです。

 いわゆる「お経」扱いされる文献とは異なり、同じもののはずなんだけど中身がかなり違う‥と いう感じの異本がけっこう存在するようで、速水1975は「長短十二編におよぶという(p.153)」 と述べています。 ここで紹介したものより記述が簡潔なもの[*1]、また逆に ここで紹介したものよりも長い、 子どもたちが辛い目にあう様子がもっと詳細に描かれているバージョンのものもあるみたいです。 望月仏教大辞典の「賽河原」の項目(pp.1422--1423)で紹介されている 和讃の一部(?)も、上記のものと結構ちがってます[*2]

 ただ、明治期以降に主流となっているのはこのページで紹介した内容のものなんだろうと 思います。たとえば 中里介山『大菩薩峠 壬生と島原の巻』(1914.大正3年)[青空文庫]の十三章でも 突然、登場人物たちの会話の中で地蔵和讃が丸ごと紹介されていますが、その内容は (漢字混じりになっていますが)本ページで紹介した内容とほとんど同じです(細部が微妙に違う)[*3]

 また、本田1985で紹介されている和讃の内容もこれらとほぼ同じです(漢字混じり。 これも細部が微妙に違う)。

 ‥という感じで、いろいろ「めも」を書いてたんですが、 分量がけっこう多くなってしまいましたので、「めも」を別ページに切り離しました。 続きはこちら :: 地蔵和讃と西院河原和讃] をどうぞ。

[つづく :: 地蔵和讃と西院河原和讃]

*註1
速水1975.では、比較的短いものとして以下が紹介されています: 「帰命頂礼地蔵尊  物の哀れのその中に  西の河原の物がたり  身に心の堪えがたき  十より内の幼な子が  広き河原に集りて  父を尋ねて立まわり  母をこがれてなげきぬる  あまり心の悲しさに  石を集めて塔を組む  一重積んでは父をよび  二重積んでは母恋し  なにとてわれらが父母は  かかる河原に捨ておくぞ  なさけなき父うえや  母はいづくにましますぞ  あけくれいたわりたまいし  乳房を与えたまえかし  一口のまば遊ぶべし  なげきをやめてなげくまじ  東に西にかけまわり  声をはりあげもだえても  親と答うる声もなし  しばし泣きおるありさまを  地蔵菩薩の御覧じて  汝が親は娑婆にあり  今よりのちは我をみな  父とも母とも思うべし  ふかくあわれみ給うゆえ  大悲の地蔵にすがりつつ  われもわれもと集りて  なくなく眠るばかりなり」(pp.153--155). これは真鍋広済1969で紹介されている地蔵和讃全体の15番目(p.227)
*註2
「帰命頂礼世の中の、 定めがたきは無常なり。 親にさきだつありさまに、 諸事のあはれをとどめたり。 一つや二つや三つや四つ、 十より内のをさな子が、 母の乳房を離れては、 佐比の河原に集まりて、 昼の三時の間には、 大石はこびて塚につく。 夜の三時の間には、 小石を拾ひて塔をつむ。 一重積んでは父のため、 二重積んでは母のため、 三重積んでは西をむき、 しきみほどなる手を合せ、 郷里兄弟わがためと。 あらいたはしやをさなごは、 泣く泣く石を運ぶなり。 手足は石にすれただれ、 指よりいづる血のしづく、 身うちを朱に染めなして、 父上恋し母恋しと。 唯だ父母のことばかり、 いふては其儘うち臥して、 さもくるしげになげくなり。 あら恐ろしや獄卒が、 鏡照日のまなこにて、 幼きものをにらみつけ、 汝等みなが積む塔は、 ゆがみがちにて見苦しし、 かくては功徳になり難し。 とくとくこれを積み直し、 成仏願へと叱りつつ、 鉄のしもとを振りあげて、 塔を残らず打散らす。 あらいたはしや稚児は、 又うち伏して泣き叫び、 呵責にひまぞなかりける。 罪は我人あるなれど、 殊に子供の罪科は、 母の胎内十月のうち、 苦痛さまさま生れ出で、 三年五とせ七とせを、 わづか一朝先き立ちて、 父母になげきをかくること、 第一重き罪ぞかし。 母の乳房にとりつきて、 乳の出ざる其時は、 せはりて胸を打たたく。 母はこれをも忍べども、 などてむくいのなかるべき。 胸を叩くそのおとは、 捺落の底になり響き、 修羅の鼓ときこゆなり。 父の泪は火の雨と、 なりて其の身に降りかかり、 母の涙は氷となりて、 其の身をとづる歎こそ、 子ゆゑの闇の呵責なれ。 かかる罪科あるゆへに、 佐比の河原に迷来て、 ながき苦患をうくるとよ。 河原のうちにながれあり、 娑婆にて歎く父母の、 一念とどきてかげうつれば、 なうなつかしの父母や、 飢を救てたび給へと、 乳房したうてはひよれば、 影は忽ち消え失せて、 水はほのほともえあがり、 其の身をこがしてたふれつつ、 たえ入ことは数しれず」 ‥望月仏教大辞典はここまでで終わっていますが、 真鍋1969(地蔵和讃全体の9番目。pp.211--214)によれば、 この先はこのように続いてるようです: 「なかにも賢き子供は  色能き花を手折きて 地蔵菩薩に奉り  暫時呵責を免れんと 咲き乱れたる大木に  登るとすれば情なや 幼き者のことなれば  ふみ流しては彼此の 荊棘の刺に身を刺れ  凡て鮮血に染りつつ 漸々花を手折り来て  仏の前にたてまつる 中に這出る水子等は  袍衣を頭に被りつつ 花折ることも叶ねば  河原に捨たる枯花を 口にくはへて痛しや  仏の前に這ひ行きて 地蔵菩薩に奉まつり  錫杖法衣に取付いて 助け給へと願ふなり  生死流転を放れなば 六趣輪回の苦しみは  唯是のみに限らねど 長夜の眠り深ければ  夢の驚くこともなし 唯ねがはくば地蔵尊  迷ひを導き給へかし」 定方晟(1973)『須弥山と極楽』講談社現代新書.p.168. で紹介されている 地蔵和讃は、望月仏教大辞典の記述を参照しているようです。
*註3
『大菩薩峠』から和讃部分を抜き出すと、こんな感じになります: 「西院河原地蔵和讃(さいのかわらじぞうわさん)、空也上人御作(くうやしょうにんおんさく)とはじめて―― これはこの世のことならず、 死出(しで)の山路(やまぢ)の裾野(すその)なる、 さいの河原の物語、 聞くにつけても哀れなり、 二つや三つや四つ五つ、 十にも足らぬみどり子が、 さいの河原に集まりて、 父こひし、母こひし、 こひし、こひしと泣く声は、 この世の声とはことかはり、 悲しさ骨身(ほねみ)を透(とほ)すなり、 かのみどり子の所作(しょさ)として、 河原の石を取り集め、 これにて回向(ゑかう)の塔を組む、 一重(ぢゅう)、組んでは父のため、 二重、組んでは母のため、 三重、組んでは古里(ふるさと)の、 兄弟わが身と回向して、 昼はひとりで遊べども、 日も入相(いりあひ)のその頃は、 地獄の鬼が現はれて、 やれ汝等は何をする、 娑婆(しゃば)に残りし父母は、 追善作善(ついぜんさぜん)のつとめなく、 ただ明け暮れの嘆きには、 むごや悲しや不憫(ふびん)やと、 親のなげきは汝等が、 苦患(くげん)を受くる種となる、 われを恨むることなかれと、 くろがねの棒をさしのべて、 積みたる塔を押しくづす、 その時、能化(のうげ)の地蔵尊、 ゆるぎ出でさせ給ひつつ、 汝等いのち短くて、 冥途(めいど)の旅に来(きた)るなり、 娑婆と冥途は程遠し、 われを冥途の父母と、 思うて明暮(あけく)れ頼めよと、 幼き者を御ころもの、 もすその中にかき入れて、 哀れみ給ふぞ有難き、 いまだ歩まぬみどり子を、 錫杖の柄にとりつかせ、 忍辱慈悲(にんにくじひ)のみはだへに、 抱きかかへ撫でさすり、 哀れみ給ふぞ有難き――  南無延命地蔵大菩薩、おん、かかか、びさんまえい、そわか」
[2011]