[前] 秋田民話集 (1966) |
その後、再度図書館に行って入手しなおした『秋田民話集』の該当部分を 資料として以下に紹介しておきます。
むかし、くわしく言えば元禄九年七月二十一日の昼さがり、大野部落の南を流れる古川を、ふたり の若者が小舟をこいで上って行った。初夏の風が緑一面の田んぼをさわやかな音をたてて通り、日の 光にまじった草のかおりがあたりいっぱいたち込めていた。平和であった。しかし、好事魔多し。こ の平和は一瞬にして破られ、二十二人の男たちが生命を失うべき事件の発端が、ごくささいなことか ら持ち上がってしまった。
若者の持つサオがアシの岸辺で静かに釣りをしていた武士の釣り糸に、ひっかかってしまったの だ。この武士は黒沢市兵衛といい、当時佐竹の家中で随一の権力を握っていた梅津半左衛門の家来で あった。
市兵衛は烈火のごとく怒り、「下郎、ここへ参れ、切って捨てる」と怒鳴った。しかし一方も血気 盛んな若者のこと、それに武士たちが鷹狩りと称して田畑を荒し回っているのをうらんでいたので 「なにをぬかす。無礼もへちまもあるものか」とふたりは岸にとびうつり、サオで市兵衛に打ってか [p.133] かった。刀とサオでは長さが違う。それにひとりにふたり。市兵衛はこれはかなわずと逃げようとした が、いつの間に集まったのか近所の百姓たちが四方からワッとかこんで、「武士だ、サムライだとい ばりやがって」とさんざんなぐりつけた。
このため気を失った市兵衛が夜露の冷たさに目を覚まし、ふらふら城下までたどりついた時はすで に夜も相当ふけていたがすぐさま主君梅津半左衛門のもとへ訴え出た。半左衛門は「うむ、にっくき 百姓どもめ」と怒り、さっそく「後日のみせしめに下手人を重い仕置にせよ」と家臣に命じたが、い つまでたっても下手人があがらなかった。
それから約三ヵ月あとの十月十二日、あせった半左衛門は「下手人が出なければ村人を残らず切 れ」と命じて古川の岸に小屋をかけさせ、「百姓でありながら武士をこらしめたとはあっぱれなり。 村人一同にほうびを与える。よってうちつれて小屋まで参れ」と布令をまわした。
人のよい百姓たちは「殿さまがほうびをくださるとよ」と喜んで小屋へやってきた。それを数人の 武士が待ちかまえて、一刀のもとに首を切った。
二十二人目に小屋を訪れたのは村の肝煎(きもいり)役をつとめる工藤七郎右衛門であった。七郎 右衛門は羽織はかまをつけて小屋の入口に立ち「きもいりただいま推参」と言ったところを、ばっさ りやられた。外にはまだ大勢がほうびをもらおうと待っていたが、中にはいった連中がいつまで待っ ても出てこないので不安になってそのまま帰ってしまった。武士たちは人を切ったあとの心のたかぶ りをがい歌に代えて城下に引きあげる途中、半左衛門からの「切るに及ばず」という使者と会った。 [p.134] それに答えていわく「すでに切り上げ申候」。この言葉がそのまま部落の名となり、現在秋田市から 仁井田字大野に向う途中の国道沿いの部落を”切り上げ”という.
この時に切られた人たちの位はいが今も部落の東光寺にあり二十二人の名をきざんだ五輪塔が部落 の墓地に立っている。伝えられるところによると、この大事件の口火を切った若者ふたりは事件後た だちに津軽に逃れ、天命をまっとうしたということである。
(秋田魁新報社編『秋田民話集』(1966)秋田魁新報社, pp.132--134.)
乱闘に関する記述は「黒沢市兵衛口上」と近く、撫斬に関する記述は大野村の伝承に近く、 いろんな伝承が混在してる感じがします。けど主家梅津氏激怒の件と、 やはり最後の「天命をまっとう」はオリジナルでしょうね。他で見たことないし‥
ところで個人的にビミョーに気になるのが「梅津半左衛門」。 主家梅津氏は「半右衛門」と表記されてるのが普通なんですけど、なぜ「半左衛門」になってるのか‥。 「半左衛門」は複数回出てきてますので 単なる誤植と考えることは難しいですし、それに 口伝とか聞き取り調査において「はんえもん」と「はんざえもん」を間違えることって、 あまりないと思うんですけどね。地元じゃないところから取材したのか、 実在する人物や事件との関係を薄めるためわざわざ名前を変更したのか、 あるいはこの書籍の編者の単純な勘違いか、それ以外の理由なのか‥。
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