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ネット上でたまたま見つけました。
秋田魁新報社編『秋田民話集』(1966)秋田魁新報社, pp.132--134 に、撫斬伝説と 関連した「切り上げの村(きりあげのむら)」という題の民話(No.38)が収録されています [ 秋田の昔話・伝説・世間話 口承文芸検索システム ] 。
[Table of Contents]現在の秋田市仁井田切上という地名の由来にまつわる伝承です。 この伝承の中で、撫斬事件についての話が出てきています。概要ですけど‥
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釣糸の諍いがあり、黒沢は村人らにボコボコにされる。この件を知った主家梅津は激怒。
犯人探しをするが、特定できない。ついに痺れを切らして「撫斬」決行を指図。
しかし何故か(理由は語られない)その後に「斬るに及ばず」との使者を差し向けたが、
時すでに遅し。使者は、斬殺し終わった一行と 大野口のあたりで遭遇した。
そこで一行は言ったのだ。「切り上げ終わった」と。
そして伝承の最後。
まず史実から確認すると、事件の発端となった二人の若者は 最も重い「磔刑」に処された可能性が高いようですから、 少なくとも この伝承に描かれた「天命をまっとうした」というのは事実に反しているはずです。 そして地元の大野村にも 「二人は逃げた」という伝承は残ってないはずです。信太郎氏の本にも、そんなことは どこにも書いていない‥‥はずですし、信太郎氏は「二人は磔刑だったらしい」という話に対して 「本当に磔か?! そんな伝承、聞いたことないぞ」とコメントしていることから、 もし伝承が二人が生き延びたという感じになっていたら「てか、二人は逃げたはずだが」 という感じのコメントを絶対していたはずです。それが見当たらないということはつまり、 地元大野村の伝承では 撫斬事件で生命を落とした人たちの中に二人が含まれていたと考えて 間違いないでしょう。
すると私が気になるのは、この『秋田民話集』の「二人は逃げた」伝承は いったいどこから収集した伝承なのか? という点になってくるんですけど。 この『秋田民話集』(1966)には各民話がどこから収集されたのか等の情報は一切書かれていないため、 そのへんについて何のヒントも得られません。 他方、若き日の信太郎氏が「いい加減なこと書きやがって」と憤慨していた(?)仁井田村の伝承も、 『河辺郡誌』(1917) に掲載された伝承が仁井田村の正統的な伝承とすれば、 「二人は逃げた」なんてことは書いてなさそうな感じですし。
ただ「逃げた」という要素が、伝承に後から加わる可能性があったことは確かです。 私も前のページで書きましたけど:
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