[前] 撫斬についての諸伝承 |
『河辺郡誌』という本の「名所旧跡」という章の、仁井田村の ところに関連記述がある。まずはお決まりの書誌情報から。
秋田県河辺郡役所. 『河辺郡誌』, 1917(大正6), 秋田県河辺郡.ここに以下のような伝承が載せられている。 [Table of Contents]
[p.117] 西方雄物川付近にありて、本村中最も早く開けし部落の一なり。元禄九年 七月二十二日、当部落相場市蔵の若者柴積船に乗りて今の古川を上りけるに、 一人の武士体の者(黒沢市兵衛と云ふ)釣りをなり居たりしが、過つて 船内の柴釣糸にかかりければ、武士大に怒り、口論となれり。然るに かねてより畑物を荒らさるるとて侍共を怨み居りし時なれば、近所の人も 加はり散散に打敲きて半死半生となせり。夜に至り件の武士帰りて 主家梅津に訴え出でたれば、主人之を聞きて激怒し内内人を遣して 下手人を探らしめたれども遂に分明せず。茲に於て一策を案じ、 今の相場清兵衛 [p.118] 宅の下の低所に小屋掛し、大野中に「百姓の分際として侍を なやましたるは勇気の程殊勝にして、事ある際に一方の御用に 立つべきものなれば、賞賜あるべきを以て、小屋まで来るべし」 と触をなせり。時は同年十月十二日なり。之を聞ける者三三伍伍を なして小屋に入るや、待構へたる侍数人、矢庭に首を落し、 滅多斬りすること二十一名に及びたり。当時の肝煎工藤七郎右衛門 また迎人来りし故急ぎ行きけるに之も一刀の下に斬り殺されたり。 之を大野の撫斬と云ひ伝ふ。因に二十二人の位牌は今尚東光寺にあり。
本村中央より稍稍北方に偏し国道に沿ふ。大野撫斬の際、梅津家より 「斬るに及ばず」との使か「己に斬上げたり」との報を齎して 上野より発せる使と会せる所なるを以て、此名を付したりと伝ふ。
(大雑把現代語訳)
大野。雄物川付近にある、仁井田村中でも 古くからある部落。 元禄9年7月22日、市蔵なる若者が船で古川を通過中、 釣をしていた武士(黒沢)の釣糸にひっかかり、口論となった。 以前より侍どもに畑を荒らされていた積年の恨みもあり、 市蔵に村人たちも加勢して黒沢を半殺しにした。夜中にようやく 帰った黒沢が主家梅津にこれを訴えたところ、梅津は激怒。 調査したものの下手人は不明。そこでついに例の事件。10月12日。 「百姓の分際で侍を負かすとは、なかなか殊勝なり。 イザという時に心強いものなり。そこで恩賞を取らすので、 小屋に参られよ。」‥‥それぞれバラバラに小屋に向かう村人たち。 しかし小屋に入った途端、村人たちは急襲され滅多斬られ首落とされ、 21人が落命。これを聞いて駆けつけた肝煎の工藤も斬り殺された。 これが「大野の撫斬」と言われる事件である。亡くなった22名の 位牌はいま東光寺にあり。
切上。「大野口」のあたり。撫斬の際、梅津家よりの「斬るな」との 指令を伝える使者が、斬殺終わった一行と遭遇。その際、 斬殺終わった一行が「もう切り上げちゃった」と言ったのが、 地名の由来との伝承。
[Table of Contents]大野地区に伝わる伝承と最も違うのは 「主家梅津に訴え出でたれば、主人之を聞きて激怒し」 となっていること。大野地区の伝説では、梅津氏はつねに 相場たちに対して好意的なんだけどね。また 「百姓の分際として侍を なやましたるは勇気の程殊勝」 と触を出してるのも独特だよね。
それと。この伝承で気になるところは 「以前より侍どもに畑を荒らされていた積年の恨みもあり」とあること。 なぜ当事者だけじゃなく村人総出で黒沢を襲ったのか。 ‥‥このあたりの動機が、大野における伝説ではまったく語られていない訳だけど (まあ大野では「村人総出で襲った」話が消えてしまってるから‥)、 この伝承では「積年の恨み」とされている。たしかに大野周辺は「釣りのメッカ」だったから、 釣り人とのトラブルは多かっただろうとは思うが‥。
[Table of Contents]じつは相場信太郎さんは『大野の撫斬』(1935) [URL]の なかでこの『河辺郡誌』についてコメントしており、
なお、この伝説は「梅津主従が激怒した末の私刑」と解釈できる。 つまり、地元近辺に残る伝説はだいたいどれも私刑と伝えている、 ということは言えそうだよね。そして磔伝承はなし。 ‥‥このへん、たしかに不思議ではあるよな。
(2000/08/28)
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