[前] 事件のあらすじ(2) |
小屋外にゐた家族、子供たちは事の真相を知らず、今すぐ帰り来れるものと
信じて待ってゐたが、中中戻ってないので疑ひを生じ、
一武士に安否を質すと、武士は冷然として
「科人のかどで撫切にいたした故、今頃は地獄の一丁目だ」
といふのを聞いた家族だちは始めて事の真相を知り、泣き叫びつつ
悲報を伝へるべく村に走って行った。その頃村の一大事と聞いて
羽織袴で馳つけた当時の肝煎工藤七郎左衛門、小屋に来り大声で
「肝煎只今推参した」
と叫んだ。
「あいや、そちが当地の肝煎か、ちょうどいいところへ参った、
時世が然らしむるところか、近頃百姓町人が武士を侮り、
あまつさへ身分を弁へずの越権沙汰、斯く当部落の主人を呼び出し、
とくと申し聞かせしところ」
「そして如何がなされる御所存なるや? それよりも部落民を如何様
なされた、不肖七郎左衛門御領主の命を拝し、この老躯に鞭打って
微少なれど治民撫育の肝煎の職を奉じてゐる際、肝煎の拙者に
一言の挨拶もなく当百姓を科人として引立てるは筋道が立たず、
ちと変でござる。されば御領主の命による御取調べか?」
「いふな百姓!!」
きらり銀蛇が光ると同時に肝煎七郎左衛門の躰は血達磨になって
設けの穴に蹴込まれた。
[p.6] 斯くのごとく、肝煎(当時の新田現在の仁井田村)一名を加へて 大野部落では二十二名が敢ない最後を遂げた。時は元禄九年 丙子十月十二日の出来事である。
今でも大野村撫斬、又は二十二人斬として称されてゐるのはこの 所以からである。
又この時同家より二名(或ひは過去帳にある清円弾定尼なのかも 知れない)斬殺されたとか、感心な老婆が変事を予知し、 伜を小屋によこさざるため死を免れた家が只一軒あると伝説は 語ってゐる。
斬殺の際、武士は返り血を避けるため槍の穂に藁束を巻き、 突いたと云ふので、村では今でも藁箒の使用を嫌ってゐる。 又当時村中の殆んど全部が斬られた事とて、怨念に悩まされた 村人達は、夜戸外に出る事を怖れ、便所も家の中に造ったもの であると伝へられ、現在でも旧家はその遺風を守ってゐる。
村には当時より遺族に依って営まれて来た郷念仏講と称するもの がある。古い記録に依ると当初は月一回輪番の宿で講中が 集まったらしいが、世移り人変るに随ひ春秋二回となり、今は その命日たる陰暦十月十二日に法名を記した巻物を掲げ 回向を続けてゐる。
小屋のまわりで待っていた家族たち。 武士たちに「罪人なので皆殺しだ。今頃は地獄の一丁目(このへん?)だ」と言われて驚き、 いそぎ肝煎(村長)に知らせた。あわてて駆けつけた肝煎の工藤七郎左衛門、 抗議するなり「いふな百姓!!」、肝煎の首が飛ぶ。 ‥‥かくて。1696(元禄9)年の旧暦10月12日(現在の暦では11月6日)。 大野部落にて、肝煎を含む22名が命を落としたのである。 これが「大野村撫斬」「二十二人斬」と呼ばれる事件の顛末である。 伝承の中には、家によっては男が二人殺されたとか、出頭しなかった家がありそこは 生き残った、などの説もあるが、真偽は不明である。 斬殺の際、血で汚れるのを嫌った武士どもは 槍先を藁束で巻いたという伝説があり、 それゆえ大野村では今(昭和10年)でも藁箒は使わない。また被害者の怨念を恐れたため、 便所も屋内に設置するのが普通となった[*1]。 さらに、遺族によって郷念仏講と呼ばれるものが、ずっと行われている。当初は毎月だったのが、 やがて春秋二回となり、今は年一回、事件の日である旧暦10月12日に供養が行われている。
ちなみに。過去帳によれば、同日に「清兵衛女房」なる女性が一人亡くなっていて合計23人が一緒に 供養されているらしい。「撫斬当時悲観の餘り悶絶せるに依り、合葬に加へられたものであらうと 言い伝へられてゐる」(p.10) とのことだが、 一緒に亡くなった22人の中に「清兵衛」なる人物は見当たらないが、これは一体‥。
(というか清兵衛って、事件が最初に起こった
古川辺の清兵衛宅(勘四郎宅といふ説あるも記録不明)
の、その清兵衛なのか??)
引用した文、「武士は冷然として‥今頃は地獄の一丁目だ」
「素朴な顔に一抹の不安を漂はした村人だち」
なんて感じで、あからさまに農民側に肩入れした書き方を
してるなー、というのはここでは置いておいて^^;
、
この記述には日付・人数等が明記されているが、
この本の第四章以降で、これら日付等に関する
裏付けを、大野部落に残る遺物・石碑等によって行っている。
この調査については、
1935(昭和10)年という今よりも2世代くらい前に
実際にそこに住んでた人が行ったものである故、
ほぼそれを鵜呑みにしてしまってもよさそうな感じ。
そしてその結果、上に述べたような日付
(1696(元禄9)年の7/24に乱闘事件、10/12に斬殺事件) と、
非業の死を遂げたのが22人であったことが確認されている。
(^_^;
‥‥先祖代々大野のはずなんですけど、ウチは「旧家」には入らないんでしょうか。
というより、「現在でも旧家はその遺風を守ってゐる」の「現在」というのが
1935(昭和10)年な訳ですから、昭和9年生まれの伯父にとっては それはほぼ生まれる前の昔の
話に等しい、その後便所は屋外に作るのが普通になったんだよ、
という流れなんでしょうか。ちなみに馬小屋は屋内で、私が幼少の頃まだあった古い伯父家の
風呂便所だった場所がそれだったとのこと。(これは自分用の備忘録)
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