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『大野の撫斬』

元禄九年、出羽国河辺郡二井田村支村大野邑にて起こりし惨劇につき。


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事件のあらすじ(3)

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原文

小屋外にゐた家族、子供たちは事の真相を知らず、今すぐ帰り来れるものと 信じて待ってゐたが、中中戻ってないので疑ひを生じ、 一武士に安否を質すと、武士は冷然として
「科人のかどで撫切にいたした故、今頃は地獄の一丁目だ」
といふのを聞いた家族だちは始めて事の真相を知り、泣き叫びつつ 悲報を伝へるべく村に走って行った。その頃村の一大事と聞いて 羽織袴で馳つけた当時の肝煎工藤七郎左衛門、小屋に来り大声で
「肝煎只今推参した」
と叫んだ。
「あいや、そちが当地の肝煎か、ちょうどいいところへ参った、 時世が然らしむるところか、近頃百姓町人が武士を侮り、 あまつさへ身分を弁へずの越権沙汰、斯く当部落の主人を呼び出し、 とくと申し聞かせしところ」
「そして如何がなされる御所存なるや? それよりも部落民を如何様 なされた、不肖七郎左衛門御領主の命を拝し、この老躯に鞭打って 微少なれど治民撫育の肝煎の職を奉じてゐる際、肝煎の拙者に 一言の挨拶もなく当百姓を科人として引立てるは筋道が立たず、 ちと変でござる。されば御領主の命による御取調べか?」
「いふな百姓!!」
きらり銀蛇が光ると同時に肝煎七郎左衛門の躰は血達磨になって 設けの穴に蹴込まれた。

[p.6] 斯くのごとく、肝煎(当時の新田現在の仁井田村)一名を加へて 大野部落では二十二名が敢ない最後を遂げた。時は元禄九年 丙子十月十二日の出来事である。

今でも大野村撫斬、又は二十二人斬として称されてゐるのはこの 所以からである。

又この時同家より二名(或ひは過去帳にある清円弾定尼なのかも 知れない)斬殺されたとか、感心な老婆が変事を予知し、 伜を小屋によこさざるため死を免れた家が只一軒あると伝説は 語ってゐる。

斬殺の際、武士は返り血を避けるため槍の穂に藁束を巻き、 突いたと云ふので、村では今でも藁箒の使用を嫌ってゐる。 又当時村中の殆んど全部が斬られた事とて、怨念に悩まされた 村人達は、夜戸外に出る事を怖れ、便所も家の中に造ったもの であると伝へられ、現在でも旧家はその遺風を守ってゐる。

村には当時より遺族に依って営まれて来た郷念仏講と称するもの がある。古い記録に依ると当初は月一回輪番の宿で講中が 集まったらしいが、世移り人変るに随ひ春秋二回となり、今は その命日たる陰暦十月十二日に法名を記した巻物を掲げ 回向を続けてゐる。

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概要

小屋のまわりで待っていた家族たち。 武士たちに「罪人なので皆殺しだ。今頃は地獄の一丁目(このへん?)だ」と言われて驚き、 いそぎ肝煎(村長)に知らせた。あわてて駆けつけた肝煎の工藤七郎左衛門、 抗議するなり「いふな百姓!!」、肝煎の首が飛ぶ。 ‥‥かくて。1696(元禄9)年の旧暦10月12日(現在の暦では11月6日)。 大野部落にて、肝煎を含む22名が命を落としたのである。 これが「大野村撫斬」「二十二人斬」と呼ばれる事件の顛末である。 伝承の中には、家によっては男が二人殺されたとか、出頭しなかった家がありそこは 生き残った、などの説もあるが、真偽は不明である。 斬殺の際、血で汚れるのを嫌った武士どもは 槍先を藁束で巻いたという伝説があり、 それゆえ大野村では今(昭和10年)でも藁箒は使わない。また被害者の怨念を恐れたため、 便所も屋内に設置するのが普通となった[*1]。 さらに、遺族によって郷念仏講と呼ばれるものが、ずっと行われている。当初は毎月だったのが、 やがて春秋二回となり、今は年一回、事件の日である旧暦10月12日に供養が行われている。

 ちなみに。過去帳によれば、同日に「清兵衛女房」なる女性が一人亡くなっていて合計23人が一緒に 供養されているらしい。「撫斬当時悲観の餘り悶絶せるに依り、合葬に加へられたものであらうと 言い伝へられてゐる」(p.10) とのことだが、 一緒に亡くなった22人の中に「清兵衛」なる人物は見当たらないが、これは一体‥。

(というか清兵衛って、事件が最初に起こった 古川辺の清兵衛宅(勘四郎宅といふ説あるも記録不明)の、その清兵衛なのか??)

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つぶやき

引用した文、「武士は冷然として‥今頃は地獄の一丁目だ」 「素朴な顔に一抹の不安を漂はした村人だち」 なんて感じで、あからさまに農民側に肩入れした書き方を してるなー、というのはここでは置いておいて^^;、 この記述には日付・人数等が明記されているが、 この本の第四章以降で、これら日付等に関する 裏付けを、大野部落に残る遺物・石碑等によって行っている。 この調査については、 1935(昭和10)年という今よりも2世代くらい前に 実際にそこに住んでた人が行ったものである故、 ほぼそれを鵜呑みにしてしまってもよさそうな感じ。 そしてその結果、上に述べたような日付 (1696(元禄9)年の7/24に乱闘事件、10/12に斬殺事件) と、 非業の死を遂げたのが22人であったことが確認されている。

*註1
1934(昭和9)年生の伯父らが言うには「いや、便所は外だ」「便所は内にあったかもしれないが、 入り口は外だ」などの証言が得られました(^_^; ‥‥先祖代々大野のはずなんですけど、ウチは「旧家」には入らないんでしょうか。 というより、「現在でも旧家はその遺風を守ってゐる」の「現在」というのが 1935(昭和10)年な訳ですから、昭和9年生まれの伯父にとっては それはほぼ生まれる前の昔の 話に等しい、その後便所は屋外に作るのが普通になったんだよ、 という流れなんでしょうか。ちなみに馬小屋は屋内で、私が幼少の頃まだあった古い伯父家の 風呂便所だった場所がそれだったとのこと。(これは自分用の備忘録)
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