新史料が語る真実
残念なことに、新史料が示す内容は、かつて信太郎氏が考えていた「斬殺は武士たちの私刑。復讐。
体面を重んじた人たちがそれを公式の沙汰であるように捏造した」という図式を
裏付けるものではなく、それとは逆で「藩の取調べと裁決による、公式な断罪であったことを
ウラ書きする「口上書」や「条目」の写本で」(p.4)した。
じつは口上書はすでに1935年版で武藤一郎氏が紹介していたものであり、
当時の信太郎氏はこれを「疑はしい」(p.20)としていたんですけど、
認めざるを得なくなってしまったんですね‥。
- 黒沢市兵衛による口上書(7/25付)(伊頭園茶話4)[*1]
- 藩による判決文(8/26付)(国典類抄 雑部前20)(「義処公御事績5」元禄9年8/26の項)
- 「岡本元朝日記」[*2]‥元禄9年7〜10月のあたりに、ときどき事件に関する記述あり
これらの内容を簡単にまとめると、黒沢は「百姓どもが無礼をしたので怪我をさせた。
相手が反撃しようとしてきたが、連れが加勢したら逃げて行った。そこに肝煎が来たので
一緒に村端まで行ったところで、加勢を連れた百姓どもに襲われた。大小を奪われたうえ
ナワで縛り上げられた。そしたら救援が来て、ナワを解いてもらった」という訴状を出し、
その結果「前代未聞候。それゆえ当事者の二人は磔。加勢した者らは皆斬罪」という御沙汰が
下ってしまい、しかる後に刑が執行されてしまった‥‥
こうして撫切られた人たちは皆「罪人」として処刑されたことはほぼ確定となります。
(「撫斬」とすべきか「撫で斬り」か「撫斬り」か「なで斬り」か、あるいはイッソ「なでぎり」か、
「撫で切り」はないよな‥などと悩むところではあるのですが、ここでは信太郎氏の表記に
準拠します。)
- *註1
-
伊頭園茶話の「黒沢市兵衛大野村の事」は『新秋田叢書(7)』の p.296 です。
当該部分は1872(明5)年に書かれたはずです。事件から176年も経過した後に、
突然この話が「伊頭園茶話」で取り上げられたのは何故? というのは、よくわかりません。
秋田県立図書館で別のことで(といってもこれです
けど)『新秋田叢書』をパラパラめくってたら突然これが目に飛び込んできたので驚きました。
- *註2
-
本題とは全く関係ないことですが、「岡本元朝日記」はあの「忠臣蔵」の
松の廊下事件(1701年。大野撫斬事件(1696)の5年後)、
つまり浅野内匠頭が吉良上野介を襲って切腹させられた事件に言及している、
じつは意外と数少ない同時代の史料として けっこう注目度の高いものらしいです。
[美の国あきたネット::古文書倶楽部]の第20号をどうぞ。