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おぢぞうさま、「いたきかかへてなてさすり。あはれみたまふぞありがたき」だそうですけど。 それってつまり気の毒がって抱っこしてナデナデしてくれる程度、つまり「同情するけど、 それ以上のアクション(成仏させる等)は取らない」ということですよね? その仏菩薩らしくない振舞いはちょっと気になりますね。 そのへんにこの和讃を作った人の意図が絡んでいたりするんでしょうか[*1]。
[Table of Contents]お地蔵様と地獄との関連について。『今昔物語(巻17)』(12c)には、 地獄に堕ちた人、冥官の前に立たされた人が お地蔵様に救いを求めたところ
この前者は「蘇生した」、つまり地蔵様が地獄から救出してくれた(極楽往生とか 生天とかじゃなく、現世に差し戻しなんですね‥)例。
後者は「たとえお地蔵様であっても地獄から人を救出できない。 そのかわり地獄で本人が受けるべき苦をお地蔵様が 替わりに受けてくれた」という例になるわけですが。 蘇生できた前者の例に対し、蘇生できない後者の例は 「地獄必定」の意識が進んだからと速水は述べています(p.105)。
確かに「地獄必定」、つまり「死んだら地獄に堕ちるに決まってる」という意識が強まった場合、 地蔵様に地獄から救出いただいて現世に戻ったとしても どうせまた死んでまた地獄に堕ちるんじゃん、 地獄行きがほんの少しだけ後回しになるだけで、救出されても意味ないじゃん‥という 話になっちゃいますからね[*2]。 それならイッソ、地獄から救出してくれなくてもいいから、私どもの地獄ライフをほんの少しでも 快適(ラク)にしてほしい‥ということで人々の願望が代苦に向うのは当然といえば当然の話ですよね。
[Table of Contents]話を地蔵様に戻すと。 つまり11世紀あたりだと地蔵様は「地獄から救出してくれる」役割だったのが、 前世の因縁がどうにもならないほど強力、運命は人が生まれる前からほとんど全部決まってるんだぞ、 と考えられるようになってくるとともに お地蔵様も無力化していき地獄からの救出は無理になり(そもそも救出しても無意味)、 「地獄苦をかわりに背負ってくれる」のがせいぜいになった、と。
んで、ひょっとしてその流れはその後もさらに続いていき、
この和讃(18c?)までくると「地獄苦を替わりに受けてもくれない。ナデナデしてくれるだけ」
‥‥ううう(;_;)
(十王信仰が このへんに何かの影響を与えてるとは思うんですが。全然わかりません。)
(地獄のひとつ上、「餓鬼」だと外部からの介入で救済される可能性はまだ
残ってるみたいですけど[URL]。)
本人にはとにかく頑張って「ゑかふのとうをく (廻向の塔を組)」んで もらい、その功徳ポイントを貯めることで 自力救済されることしか救われる方法はないよ、というのは厳しいですね。
大人であれば、どんな悪事をはたらいた人でも「臨終の十念」を 果たせば一発逆転の極楽往生の可能性がある[URL]という話を知っていると、 この子どもへの仕打ちはどうしたものかと‥。 (無論、「臨終の十念」は日本に浄土思想が浸透した初期の頃(10c)の話であり、 和讃は「葬式仏教」化がすすんだ頃(18c)の話ですから、800年くらいの時間差がある ものを単純に比較しても何の意味もないんですけど‥)
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